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 領主が不穏な台詞を残し、身を翻したその時――ぞ、と背筋を貫いた悪寒に、アーキェルの全身が総毛立った。即座に縛られた身体を転がし、襲い来る猛烈な危機感の正体を確めん、と視線を上げる。


 ――瞬間、鼓動が凍り付いた。


(……?)

 床に這いつくばっている体勢からでは、相手がこちらを睥睨へいげいしているかどうかなど、わかるはずがない。にもかかわらず、ひしひしと肌で感じる。未だかつて経験したことがないほどの濃厚な憎悪と殺意が、一心に、自分に注がれている、と。

 痛みさえ覚える視線の鋭さに、ぶわり、と冷や汗が吹き出る。粟立つ皮膚の、震えが止まらない。

 過去に対峙した、どんな相手よりも――ややもすると、あの竜姫すら凌駕するほどの凶悪な気配が、周囲を瞬くうちに圧していく。呼吸すら忘れ、神経を張り巡らせるようにして、相手の動向を見極めようとしていると。


「……おい、無事か?」


 囁き声とともに、何者かがアーキェルの背後にしゃがみ込んだ。不意をつかれ、びくりと身体を揺らして後方を振り仰ぐ。驚くべきことに、忽然と姿を現したロルムが刃を突き立てたのは、アーキェルの手首を締め上げている、縄の結び目だった。


「――何をしている、ロルム?」


 視界の外から、領主の厳しい叱責が飛ぶ。しかしロルムは縄を切る手を休めず、あろうことか自らの主君に対して、声を荒らげて言い返した。


「騎士として、このような真似を見過ごすわけには参りません! いかにこの者とて、手足の自由が利かぬ状態では、龍と渡り合うことなど敵わぬでしょう。正々堂々と戦うことすらできず、一方的になぶり殺しにされる様など、私は見たくありませぬ!」

「構わん。――今の世に、英雄など不要だ」


 にべもない領主のいらえに、ぎり、とロルムが歯を食いしばる音が、かすかに耳に届いた。同時に、ぱら、とアーキェルの両手を縛めていた縄が解ける。


「ありがとうございます、ロルムさん」


 ロルムが無言で、黒剣の鞘を差し出してくる。促されるよりも先に、素早く剣を抜き放ち、両足の縄を断ち斬った。

 アーキェルが立ち上がったその瞬間、ぼっ、と大気が燃え上がり、広間の周囲が炎の壁に包まれる。十中八九、領主の仕業だろうが――魔法を斬れる白剣がない以上、この空間から脱出する術はない。

 ともに炎の結界の中に取り残されたロルムと、束の間視線を交わした直後、押し寄せる強大な殺気に、ばっと頭上を振り仰ぐ。


 さながら鮮血のごとき、真紅の双眸。

 ひときわ異彩を放つ、禍々しい漆黒の角と、半ばから折れた痛々しい両翼。

 巨躯に絡み付く、膨大な数の鎖と――全身からぼたぼたと滴り続ける、黒い液体。


「…………っ!」


 立ち込める生臭い匂いと、床に広がるおびただしい量の液体の正体に思い至り、絶句する。


(……なんて、ことを)


 龍は本来、神々しいほどにうつくしい生き物だ。しかし目の前の黒き龍は、領主の非道な仕打ちによって、もはや異形の怪物と成り果てていた。

 不思議なことに、亡者のごときその姿に、嫌悪感は感じなかった。ただ、死を踏み躙られた龍に対する憐憫と、解き放ってやらなければ、という使命感が、アーキェルを強く、突き動かした。

 すう、と息を吸い、一歩を踏み出した、その瞬間。


『ォオオオォォォオォオオオォッォオオォオオォオオォォオオ――――!!』


 びりびりと大気を貫く咆哮とともに、大木のごとき脚を、黒き龍が振り下ろした。


「下がって!」


 ロルムに警告を発しつつ、アーキェルは飛来する石礫を黒剣で弾き、紙一重のところで身を躱した。息を吐く間もなく、次々と床の破片を薙ぎ払いながらさらに前へと進み、一気に黒き龍との距離を縮める。


「何をやっている、退け!」


 背後から、ロルムの怒号が轟いた。しかしアーキェルは疾駆する足を止めることなく、荒ぶる龍に近付いてゆく。


(……還りたい、よな)


 おそらくこの龍は、苦痛をもたらす鎖から逃れようとして、もがいているだけだ。

 そして何より――己を無理矢理引き留め、望まぬ形で蘇らせた、この世界を憎悪しているに違いない。


(どうにかして、解き放ってやりたい。……待ってろ)


 鎖に囚われ、全身から黒い血液を滴らせる黒き龍の、足枷を目掛けて黒剣を振るい――歯噛みとともに、顔を顰める。


(くそ、硬い……!)


 龍の剛力でも引き千切れない鎖が、たかだか一撃で断ち斬れようはずもない。痺れる両手で黒剣を構え直し、再び斬撃を繰り出そうとした、その時。



 ――緋い瞳が、アーキェルの姿を捉えた。



 ざぁっ、と。全身の血潮が引いていく音が、耳の奥で低く、こだまする。


 光の灯らぬ虚ろな双眸に、自我の色はなく。

 ただ、命じられたままに、目の前の敵をすべからく殺戮するだけの、あまりに哀しい、その在り様に。


(……


 この黒き龍に、意志はない。こちらがいくら言葉をかけようと、けして通じることはないのだと、アーキェルは本能で悟った。

 瞬くうちに、轟、と鞭のごとくしなる尾が迫り――死を覚悟したその刹那、眼前で翠色の閃光が弾けた。


「――何をしている! 死ぬ気か!」


 ロルムの叫びが耳朶を打つと同時に、アーキェルは反射的に大きく跳び下がった。のけぞった鼻先をぶぉん、と尾が掠め、風圧で床に叩きつけられる。間一髪で受け身を取った次の瞬間、ロルムが紡いだ雷魔法が、黒き龍の頭上に降り注いだ。


「……え?」

「馬鹿、なっ!?」


 まるで示し合わせたかのように、二人の驚愕の声が、重なる。

 ロルムの雷撃は、確かに黒き龍を捕らえていたはずだ。しかし、雷魔法は発動した途端に、黒い光に呑み込まれ――。それも、ただ弾かれただけではない。

 黒く焼き焦げた天井の残骸が、ぱらぱらと落下してくる光景を睨みつけながら、アーキェルはロルムに鋭く告げた。


「魔法は使えない! ――!」

「何だと!? 魔法なしで、この化け物にどうやって対抗しろと言うのだ!」


 視線を送らずとも、ロルムの表情が焦燥と絶望に染まる様が、手に取るようにわかった。つぅ、とアーキェルの背を、冷や汗が伝ってゆく。


(……どうする? 防御しようにも、魔法を使えばこっちの首が締まるぞ)


 黒き龍を解き放つどころか、今やこちらの命が危うい状況だ。

 進退窮まり、逡巡するアーキェルを嘲笑うかのように、漆黒の角が、禍々しい輝きを放ち――覗いた牙の隙間から、闇色の光芒が零れ出る。


 噂に、聞いたことがある。

 おそらく、これは。すべてを燃やし尽くすと謳われる――龍の、息吹、だ。


 為す術もないまま、黒い閃光がみるみるうちに膨れ上がる。そしてついに、黒き龍が、ゆっくりと口蓋を開かんとした、まさにその瞬間。


 ――天井が、溶けるように消え去った。

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