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 ――少女の掌に収まるや否や、鼓動さながらに明滅を始めた、白き剣。


 よもやたばかったのか、と少女が怒声を上げようとした瞬間、ふっ……と見覚えのない風景が、脳裡で鮮明な像を結んだ。


(これは――……?)


 鼓膜を揺らす、耳馴れない声と、激しい風鳴り。ふわりと鼻先を掠めるのは、雨上がりの土と緑の、馥郁ふくいくたる薫り。……今日は雲一つない晴天のはずなのに、一体なぜ?


 青空を求めてつと仰のいたその時、少女の手中で、白剣が一際まばゆい光を放った。


 レスタがこちらに手を伸ばし、目の前で何事かを叫ぶ。だが、無数の星辰のごとき白銀の光に全身を包まれているためか、はっきりと内容を聴き取ることができない。

 何が起きている、と訊き返す間もなく、若草の瞳が、足元の大地の感触が、白銀に染まる世界が、みるみるうちに遠ざかり――――光すら及ばぬ漆黒に、塗り潰される。



 やがて、ほの昏い闇の底に揺蕩たゆたう意識を掬い上げるような泣き声が、どこからともなく聞こえてきた。



(……なに、この声。頭が割れそう)


 ほとんど閉じかけていた重い瞼をどうにかもたげ、狭い視界の中、声の主を探す。ひどく身体が冷えている上に、全身がだるかった。おそらくは先の襲撃の際に、血を流し過ぎたのだろう――と霞がかった思考を巡らせながら、耳を澄ませる。……大丈夫だ、追手はまだ近付いてきていない。


 となれば、にんげんを呼び寄せるであろう、あのやかましい声の持ち主を早急に黙らせなければならない。あれだけ泣き叫んでいれば、何事かと訝しむ者が集まってきて当然だ。

 ぎこちなく四肢を動かして起き上がろうとすれば、くぐもった呻き声とともに、銀色の血がぼたぼたと地面に零れ落ちた。


(このままだと、血痕を辿ってすぐに追いつかれてしまう。……せめて飛ぶことさえできれば、姿を隠せるものを)


 空を舞おうにも、背中の双翼は半ばから折れ、片翼に至っては無残にも大きく斬り裂かれている。このままでは追跡から逃げおおせることはおろか、失血で命を落としかねない。

 だがこんなところで死ねば、それこそ卑怯者にんげんたちの思う壺だ。それだけはどうしても、我慢がならなかった。


 ――何より、自分はまだ、復讐を果たしていない。

 そうだ、あの醜悪な人間どもに思い知らせてやらねばならない、と腹の底を焦がすような憎しみに突き動かされ、大地を脚で押し返す。


(……やつらを決して赦すものか。八つ裂きにして骨も残らぬほど焼き尽くし、一人残らず滅ぼしてやる)


 怨嗟と血に塗れた身体を引きずりながら、大気を震わせる泣き声の発生源へと、少しずつ距離を詰めていく。

 夜気をつんざくような、高い声が耳に繰り返し突き刺さる。不快にたてがみをぶわりと逆立てるうちに、いつしか波打つ声は鱗をなぞるほどの距離に迫っていた。


 と、滴る夜闇に満ちた森の中、不意に雲間が晴れ、地上に月光が射し込む。

 冴えた青白い光に包まれたその声の持ち主を、ついに視界に捉えた時――無意識に、身体が震えた。


(……なんて、小さい)


 意表を突かれ、咄嗟に言葉を失った。力強い、騒音と言っても差し支えないほどの泣き声を、この小さな塊が発していたとはとても信じられない。


 見るからに脆弱な、少しつつけばぐにゃりと潰れてしまいそうなは、おそらく顔と思しき箇所を真っ赤に染めて、泣き叫んでいた。その顔は木の幹のように溝だらけで、到底美しいとは言いがたい。――それでも、生きようとする意志を小さな身体に漲らせ、喉から、その全身から、これでもかとばかりに放っていた。


 そのあまりのまばゆさに、束の間圧倒される。が、急に耳をつんざく絶叫が何の前触れもなく止み、思わずそれをまじまじと覗き込んだ。


 突然影が射したからか、それとも他の理由かはわからない。しかしそれは、樹皮のひび割れのような細い目を、うっすらと開け――



 喉をくすぐるような声とともに、こちらに向かって微笑んだ。



 もちろん、それは都合のいい錯覚に過ぎなかったのかもしれない。あるいは生物的な、ただの反射だったのかもしれない。それでも、耳をくすぐるようなその声は、亡くしたばかりの我が仔を、どうしようもなく思い起こさせた。


 ――おかあさん。


 まだ言葉も知らぬ、けれどもあまりに信頼に満ちた、あの声。言葉にならずとも自分にだけは確かに伝わっていた、あの声に。


 気付けば、風魔法を発動させて、自分の鬣の上に、そっとそれを誘っていた。


 ……わかっている。これはきっと、気の迷いだ。大量の出血で朦朧としているがゆえの、ただの儚い感傷に過ぎないのだ、と。


 それでも、鬣の上で鈴を転がすような笑い声を上げるそれを置き去りにしようとは、どうしても思えなかった。




 半ば衝動的に拾ったその仔は、みるみるうちに育っていった。どうやらこの謎の生き物は、龍の仔に比して、遥かに成長するのが早いらしい。


 突然這いずり出すようになったかと思えば、何でもかんでも口に突っ込んで咳き込みはじめる。かと思えば小鹿のように全身をふるふると震わせて、四つん這いの姿勢で得意げにこちらを見上げる。


 日に日に変わりゆくその仔の表情を眺めるたびに、今度は何が起こるのか、と次第に期待すら抱き始めた自分に戸惑いつつも、目まぐるしく時間は過ぎていった。




 初めて「おかあさん」と呼ばれたその時、思いがけず胸に去来したのは、光が射すような喜びと、風がうろを吹き抜けていくような寂しさだった。


(ああ、……のね)


 今なお耳にくっきりと刻まれた、あのまばゆいばかりの響きと、目の前のこの仔の声音は違う。そんな当たり前の事実に、透明な棘がすっと胸の奥に沈んでゆくような痛みを覚えた。――この心にぽっかりと穿たれた、あの仔のかたちをした空白を埋めるものなど、きっとどこにもないのだ。


(……だけどわたしは、この仔に救われた)


 もしあの時、大樹の下でこの仔に出逢わなければ、きっと自分はとうに狂っていただろう。もしくは復讐の劫火に身を焦がし、ひたすらに殺戮に明け暮れ、やがて力尽きていたか。


 無論、復讐の念を忘れたことなど、片時もない。しかしその炎に呑まれずにいられたのは、紛れもなくこの仔のおかげだと断言できる。


 ――あの時、自分は確かに、希望を拾ったのだ。


 もう一人の我が仔に頬ずりをしながら、そっと子守唄を口ずさむ。身体で包み込むようにしてやれば、たちまち顔を綻ばせるその様子に、胸の奥がじわりと温かくなった。


 ――そんなささやかな幸せが、このままずっと続けばいい、と。

 愚かしい願いを、叶わぬ望みを、気付かぬうちに胸の裡に宿していた。



 神などこの世にいないと、とうに思い知らされていたはずだったのに。

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