七章 頬伝う 冷たきものを 拭う指 震え止まらぬ 声も体も

 七章 頬伝う 冷たきものを 拭う指 震え止まらぬ 声も体も   その1

 風もない、生温かな闇の中。

 俺は木々の間を縫うように歩いていた。

 総合公園ではなく、別の場所だ。

 あそこは杉林だったが、今いる場所は広葉樹。楓が植わっている。もう少しすれば紅く色づいたきれいな葉を見せてくれることだろう。


 地面は沈み込むように柔らかく、闇は天然のもののように濃い。あまり人が入っていないせいか、たくさんの長い枝が手つかずのまま落ちていた。時折それを思い切り踏んづけてしまい、ベキッと折れる音が異様に大きく響いて肝が冷えた。


 一度足を止めて振り返ると、木々の合間から横に長い西洋風の建物が見えた。夜になると外壁の色も判然とせず不気味な雰囲気が漂っているが、あれは昼間に見た博愛女学園の校舎だ。

 そして今いるこの場所も、博女の敷地である。

 敷地内にはすでに教師の姿もなく、防犯設備が充実している現代では宿直の担当も警備員もいない。ほぼ無人だ。

 だが季節外れの肝試し気分を味わっている余裕はなかった。


 俺は唾を飲みこみ、再び楓林(ふうりん)の奥を見やり歩き始める。

 どこからか焦げ臭いにおいがした。この近くで何かを焼いたのだろうか。今時焼却炉があるとは思えないが。ここら辺は地図上では特に何も記されていなかったし、木々に囲まれていて完全に死角になっている。もしかしたら、懲罰房とやらが関係しているのかもしれない。


 少しして、木々が途切れて視界が開けた。

 さっき、肝試し気分を味わってはいないと思った。しかし今目の前にあるのは、それにおあつらえ向けな光景だ。


 林の中にぽかりとできた円い広場。

 街灯もない暗いそこには、小さな墓石が点々と並んでいた。

 その墓石というのは、おそらく小学生の膝にも満たないほどに小さいものだ。


 俺がそれを視認できたのは、月光以外に光源があったからだった。

 こじんまりとした墓地の中央。

 そこに立つ長い白髪の少女が手に持った提灯の仄かな明かりが、暗い闇夜の中に光を投げかけていた。

 俺は墓地の入り口で立ち止まり、少女の名を呼んだ。


「……来たぞ、水香」


 呼ばれるのを待っていたのだろうか。

 そう思わせるぐらい、彼女は芝居がかった動作でこちらを肩越しに見て、薄い笑みを浮かべた。


「……お待ちしておりましたよ、灯字さま」


 水香は緩慢に俺の方を向き、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。

 その一歩が踏み出される度に鼓動が早まり、体温が下がっていく。まるで彼女の足に、心臓を踏みつけられているかのよう……。

 墓場だからか辛気臭く、何だか血生臭い異臭までする。それが胸に巣くった不明瞭な不安感に拍車をかけてくる。

 四歩ほど手前で立ち止まり、水香は小首を傾げた。


「どうかなさいましたか?」

「……いや、何でもない」


 速くなった呼吸を鎮めるよう意識する。飲み込んだ唾の音が、異様に大きく感じた。

 俺の頭から足の先まで見た水香は、口元を扇子で隠してくすりと笑った。


「今日一日ですっかり乙女になられましたわね。その制服、気に入られましたか?」


 警察が捜査していたせいでドリーム高校に入れなかった俺は、いまだに博愛女学園の制服を着ていた。


「まあ、割に着心地がいいし……」


 ふと気付いてしまった。

 扇子を持つ、水香の右手。

 その指先が、微かに赤く染まっていることに……。


「ひっ……!」


 脳が凍り付いていき、本能的にか悲鳴が口から漏れた。

 呆けた顔で瞬きを繰り返していた水香は、俺の視線で自分の指先が赤くなっていることに気付いた。彼女は「あら、イヤですわ」と袖から白いハンカチを取り出し、丁寧にそれを拭き取った。純白だったハンカチに、点々と赤い滲みがついていく。


「ごめんなさい。さっき埋めた子の血がついてしまったみたい」

「さ、さっき埋めた子って……?」


 扇子が開き、月光の下、やけに濃い色の桜の花弁が舞う絵が晒される。

 偽りの景色だと一目で分かるが、その本物以上に凄味のある色彩に、俺の目はどうしようもなく引きつけられる……。


「子猫ですよ」

「……へ?」


 絵に見入っていた俺は一瞬、水香が何を言ったのか分からなかった。


「お墓の下に埋めた子です。あの白猫と、ヒョウ柄と、狐似の子でした」

「……三匹もか?」

「ええ……。悲しいことですが」


 形のいい眉尻が下がり、黄色い瞳が微かに潤む。


「ヒョウ柄と狐似って珍しいな」

「そうですわね。どちらもなかなか悪戯好きで、みんなから愛されていたそうですよ」


 その口調はどこか親しみと寂しさを感じるものだった。


「知ってるヤツ等だったのか?」

「はい。ちょっとやんちゃが過ぎましたが、だからこそ可愛がり甲斐がありましたの」


 目を細め、空を仰ぐ水香。彼女の視線の先には月はない。闇を眺めたいのか、あるいは星を探しているのかもしれないと思った。


 扇子を畳み、彼女はこちらを見てきて言った。


「そういえば、灯字さまをお呼びした理由をお話ししていませんでしたね」


 忘れかけていた緊張が戻り、自然と身構える格好になった。

 水香は俺の変化を気に留めた様子もなく続ける。


「今更ですが、このような時間にお呼び出ししてしまい、申し訳ありません」


 お手本のようなお辞儀の後も、淀みない口調で続く。


「ですが今日中にあなたさまにやっていただきたいことがあるんですの」

「やっていただきたいこと?」

「はい。こちらをご覧ください」


 そう言って水香の指した先には、結構な数の木の板があった。その形状に俺は見覚えがあった。


「……卒塔婆(ストゥーパ)か」


 卒塔婆っていうのは、墓石の後ろに立っている木の板だ。あの上の方がうにょにょって変な形をしてるヤツ。


「はい。灯字さまには子猫達の戒名や生年月日などを塔婆に書いていただきたいのです」

「別に構わないが……。俺、猫の宗派なんて知らないぞ?」

「大丈夫ですわ。大切なのはどれだけ思いがこもっているか、ですから」


 あらかじめ用意していた筆と墨汁の入った皿、それと命日と記されたメモ用紙を俺に差し出し、水香は言った。


「さあ、お願いしますわ」

「あ、ああ……」


 俺は結局、その頼みを引き受けることにした。

 胴乱からタスキを取り出し袖をまとめ、髪を結いあげる。

 それから提灯の明かりを頼りにメモ帳に目を通した。命日は全部五月頃から今日までの日付だった。生年月日が併記されているものもあった。おそらく飼い猫で、飼い主から訊いてきたのだろう。

 そしてその全てに、右端に戒名が書かれていたのだが。


「……これ、ほとんど人名そっくりじゃないか」

「猫の名前って大体そんな感じじゃありません? タマとかミケとか」

「でも狩矢美豹(かりやみひ)とか満田怜(まんだれい)、犬井狐子(いぬいきつねこ)はもう猫じゃないだろ……。かと思えばシロとかモモって定番の名前もあるし」

「バリエーション豊かにしてみましたの」

「戒名の意味、分かってるのか……?」


 水香は「細かいことはいいですから」と話を切り上げてきた。まあ、俺も別にこだわるつもりはないが……。

 よく分からないが、人命っぽい名前にはほぼ必ず生年月日が併記されていた。愛着の差だろうか。


 気にしていても仕方がないので、とにかく作業に取り掛かることにした。

 筆を手に、卒塔婆に向かい合う。

 そして書くべきことを頭に浮かべ、板に穂先を入れる。一度筆を取ったら、後は流れるように揮毫していく。


 日本語の筆記体とも言える草書体は、勢いとテンポが重要だ。複数の字を一つのブロックとして捉えて、一息で書を終えるよう意識する。

 卒塔婆の書き方は様々な種類があるが、今回は表に戒名と願主名、つまり水香の名前を記して裏にその他の事項をまとめた。


 一枚目や二枚目は勝手が分からず苦労したが、その内慣れてきてスムーズに書き上げることができるようになった。

 気が付けば最後の一枚に記し終えていた。

 俺は筆を置き、手の甲で額の汗を拭った。


「できたぞ、水香」

「お疲れ様です。……まあ、さすが灯字さま。見事な書ですわ。これなら子猫達も安らかに眠りにつけることでしょう」

「猫に字の良し悪しなんて分かるのか……?」

「きっと思いは伝わりますわ。あ、お飲み物を用意したのですが、いかがですか?」


 水香は側面に鞠の絵がついた魔法瓶を持っていた。その際に、彼女の手首に腕時計が見えた。午後十時四十三分だった。


「……飲み物、か」


 言われてみれば喉は乾いていた。しかしそれよりも一刻も早くこの気味の悪い墓地から出たかった俺は首を振った。


「……いや、いい。それより、この塔婆はどうするんだ?」

「本当は塔婆を立てるものも用意したかったのですが、予算の都合上さすがにそこまでは無理でしたの……。ですから、地面に直接突き立てましょう」

「いいのかそれで……。逆に罰が当たりそうだぞ」

「大丈夫ですわ。大事なのはどれだけ思いがこもっているか、ですから」


 自信満々に胸を張って言う水香。


「……まあ、管理人がそれでいいならいいけど」

「あ、塔婆はこのように立ててくださいまし」


 水香は袖からさっきよりも大きいコピー用紙を取り出して差し出してきた。

 それには墓地の地図が描かれており、墓石を示す長方形の中には戒名が記されていた。この通りに塔婆を立てろということらしい。


「灯字さまは右端からお願いいたします。わたくしは左からやっていきますので」

「スコップはないのか?」

「大丈夫ですわ。何かを埋めるならともかく、刺し込むのに突き立てる道具以外は不要ですのよ」


 料理番組の解説者を思わせる、あっさりとした説明だった。

 確かにそうだと思い、俺はそれ以上は訊かなかった。ケーキに蝋燭を立てるのに別の道具を用意したりはしないしな。

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