第10話 ロリータ

 再びエレベーターに乗り込み、三階で降りた。フロアは静まり返り、もはや人目を気にする必要もあまりない。

 廊下の突き当たりを曲がって更に奥に、従業員専用と書かれた扉がある。その前で止まった。リネン室だ。さり気なく監視カメラを確認したが、死角になっている場所のようだ。

 扉を開けて中へ入った。真っ白なシーツや枕カバーが壁を覆っており、部屋の床には無造作にカートがいくつか置かれている。そのおかげで、やや窮屈だ。

 目の前に兄さんの背中があるので、横から顔を出して肩越しに中を見る。中央には従業員の制服を着た男が立っていた。待っていたと言わんばかりに、こちらを向いて仁王立ちしている。丸刈りで程よくガタイのいい、ラテン風の男だ。二十代半ばと見える。

 男はスンスンと鼻を嗅ぎ、一瞬怪訝に顔を曇らせたが、すぐに何事もなかったかのように平然とした。その冷静さには貫禄が見える。

 見覚えがある。パーティーで給仕をしていたウェイターだ。


 ——まさかな?


 そう思っていると、兄さんが男に声を掛ける。

「さっきは助かった。弟のヤコフを連れてきた」


 ——えっ……こいつがロリータ? だとしたらディアマンテ・ローザが女だけの組織っていうのはガセだったのか? 男装……には見えないよな。


 肩幅といい顔の骨格といい、紛れもない男だ。


「ソコロフスカヤは上手く撒いたの?」


 ウェイターが尋ねた。


「撒いたわけじゃない。ソコロフスカヤの二人が二階から飛び降りて、駐車場から車で逃げていくのを見送ったまでだ。ヤコフ、さっきはこいつが機転を利かせてくれた」

「警察が来るっていうのは彼が?」


 ウェイターが頷く。そう言われてみれば、誰かが警察を呼んでいたあの野太い声はこのウェイターの声とそっくりだ。あの時声を上げ、大勢がやって来るかのような足音を立てて乱闘を中断させたのは彼だったというわけだ。


「初めましてヤコフ、私がロリータよ。ローとかローラって呼んでもいいわ」


 丸刈りの男の野太い声から出るのは、上ずった甘ったるい話し方。それを聞いて俺はああ、そういうことかと理解した。


「俺達はロリータが女だと思っていた。その先入観のせいで、気付くのに時間がかかった」


 兄さんが言うと、彼——いや彼女は眉を潜めた。


「私は立派な乙女よ」

「失礼しました」


 兄の代わりに即座に謝る。つまりディアマンテ・ローザは、心が乙女なら入会資格を満たすということなのだろう。


「後の商談は任せた」


 そう言って兄さんが出て行く。俺は改めて彼女と対面した。


「今度こそ初めましてロリータ。……それにしてもどうして名乗り出てくれなかったわけ? 君から接触してくる約束だったよね? おかげでこっちはソコロフスカヤに襲われて危険な目に遭った。いきなりこの出方じゃ、あんた達の信頼に疑問が浮かぶよ」


「機会を窺っていたのだけど、あまりに外野が多かったの。ソコロフスカヤも何人かパーティーにいたし、黄龍会の動きも警戒してたから。それにノア——貴方のお兄さんとは知らなくて、変装してたから怪しいと思ったのよ。彼に言っておいて。髪、眉毛、髭の色を変えても、まつ毛の色は変え忘れてるって。レディはそういう所によく気がつくものよ」


 ——本当に乙女なんだな。


「それに私が接触した時、貴方は逃げてしまったじゃない」

「俺に? 記憶にないけど」

「御手洗いで」


 ——そう言えば、男子トイレで話しかけてきた妙な客がいたな。


「あれはあんたか!」

「ええ」


 隣の客の顔や姿はあまり意識しなかったので覚えていないし、意識しないのがトイレのマナーでもある。少なくともウェイターの格好ではなかったと思う。服装を変えていたのか。


「それならもっと分かりやすく接触してくれ」

「ミッドナイトブルーの下着を身に付けていたし、バレエと関係のあるキーワードも言ったわ?」


「男のアソコなんか見たくないんだよ! いやあんたの中身がレディなのは分かったしそれについては何の問題もないけど、その……ペ*スは付いてるだろ。小便中は見ないのが男のマナーだ。知らなかっただろうけど」


 ロリータはハッとしたように口に手を当てた。


「ごめんなさい、私つい見てしまって……。貴方が想像以上にハンサムだったから。変な気はないんだけど、つい下の方に目が行ってしまうの」

「ああ、程々にしておけよ。怪しまれると思うから」


 トイレで感じた寒気の原因はそれだ。俺は冷や汗を拭った。




 かくして、ロリータとの商談は無事に成立した。俺からの交渉で更なる値引きを引き出した上で。今回は受け渡し方法と金額まで決めることができた。実りある商談だったと言えるだろう。

 長い一日だった。疲れ切った思い足取りで、自分の部屋へ歩く。時計はすでに午前三時。照明を控えめに落とした絨毯張りの廊下は、不気味なほど静かだ。

 喧嘩を吹っかけてきたソコロフスカヤ・ブラトヴァへの今後の対応を考えなくてはいけない。このまま戦争になるかも知れないし、相応の謝罪を引き出して水に流すかも知れない。それは帰ってからパパに相談しよう。少なくとも今日の仕事は終わった。


 ——あんなに女の子がいたのに、結局誰一人持ち帰れなかったな。


 自分の”息子”を哀れむ。


 ——今日もお前の出番は無かったよ。


 今となっては性欲よりも眠気の方が勝っている。早く部屋のベッドへ飛び込みたい。そう思いながら、ようやく自分が借りた部屋の前へ辿り着いた。

 鍵を差し込んで取手をひねる。

「ん?」

 扉が少しだけ開いたが、なぜかそれ以上開かない。どうやら内側からチェーンロックがかかっている。しかし何故だろう。隙間から中を確認する。

 部屋の中に、何故か半裸の兄さんの姿が見える。彼はこちらへ歩み寄って来て、ドア越しに囁いた。


「悪い、少し借りてる」

 半裸の兄さんはやや決まりの悪そうな笑顔を浮かべた。

「は? 俺の部屋なんだけど」

 よく耳を済ませると、奥から微かにシャワーの音が聞こえてくる。


「あの……もしかして今、バスルームに女がいたりする?」

「そういうことだ。ま、一発軽く”運動”するだけだ。五分で終わる。ああ、勝負は俺の勝ちだな」

「おい!」


 バタン、と扉が閉まる。


「はあ?! こっちは十七歳の誘いを心を鬼にして断ったっていうのに! ……ていうか五分? 五分って、それは効率的にもほどがあるっていうか……相手に同情するよ! 持続時間はもちろん挿れる前後の過程も重要なんだよ? 全部省略する気だよね? それはひどいと思うよ。おい兄貴ー!」


 誰もいない廊下に、俺の叫びが虚しく響き渡る。確かにどちらが先にベッドインするか競争しようと言ったのは俺だが。冗談のつもりだったのに。


 五分後、本当に兄さんは、短距離走をゴールしたような清々しい顔で出てきて、爽やかに消えて行った。明らかに不満げな表情の、何処かの見知らぬ女を残して。彼女には同情しつつ、どうにか説得して帰ってもらった。後で兄さんがどんな陰口を言われようと、それは俺の知ったことじゃない。


 商談は上手く行ったものの、何だか負けたような悔しい気持ちでベッドに倒れ込んだ。そしてあっという間に眠りに落ちて行った。

 こうして俺の長い一夜は終わった。

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