「長年暮らした我が家だ。少し浸る時間をくれ」


「構いませんよ。ふふ、お嬢様にもそういう感情があるんですね」


「あたしを何だと思ってるんだよ。そういう時もあるさ」


 早乙女が部屋から出ていくと、「よし」と縫子は呟く。支度したキャリー・バッグは玄関先に置き、まずは寝室に向かった。


 この居心地のいい部屋を手放すのは名残惜しいが、それはもう仕方がないことだ。いつかそういう日が来ることは分かっていた。だからこそ、哀愁に浸っている場合でもない。もう自分の部屋ではないのだから、やることは一つしかなかった。


「立つ鳥跡を濁さず……ハ、立つ美女ってのはキスマークつけてくもんだぜ? それが男を虜にするいい女ってこった」


 クローゼットの中に仕舞ってあった工具箱の中からハンマーを取り出すと、ベッドの天蓋を支えている柱を思い切り叩いた。、と大きな音が出たが、一回ではビクともしていなかった。


 何度も度も叩き、そして圧し折る。叩いた音よりも大きな音で、埃と木くずを撒き散らしながら、天蓋が傾いていく。同じ要領で四方の柱を壊し、またベッド本体の脚やら何やら、壊せそうなものは兎に角全部壊した。


 クローゼットの戸も剥がし、小物を入れていた棚、どっかの男に貰った陶器、何もかもを破壊していく。リビングもキッチンも洗面所も風呂場も、時には手を使ったり足を使ったり、ハンマー、ノコギリ、ドリル、ありとあらゆる方法を使った。その時には流石に早乙女も戻ってきていて、縫子の蛮行を眺め頭に手をあてた。長い付き合いだから、予想はしていた。「やれやれ」と「程々にしたら出て下さいね」とだけ言い残し、再び部屋を出ていった。


 縫子はその間も奇声をあげながら、破壊を愉しんでいた。これ以上は無理、というところまで部屋をグチャグチャにすると、振り返ることなく、キャリー・バッグを引っかけて部屋をあとにした。


「ああ、スッキリした」

 満足そうな、恍惚とした表情で縫子は言った。


「勘弁してくださいよ、お嬢様」

 情けない声で早乙女は言った。


「うっせ。今度イジメてやるから、それでチャラにしろ」


「ほ、本当ですか? 絶対ですよ?」


「ハイハイ、あたしの所に来たら、おっぱじめてる最中でもない限り相手してやるよ」


「ヒャッホウ、遠路はるばるここまで来た甲斐がありました!」


 早乙女は助走をつけながら、今まで縫子の部屋だった一九六九号室の扉を思いきり蹴飛ばした。銃声にも似た破裂音が廊下に響く。扉は見事に倒れていた。


「こりゃあいいぜ。ファッキン豚野郎の分際でやるじゃねえか」


「どうせ今更なにしようが同じですからね。日頃綱一郎様にこき使われてますから、その鬱憤を晴らしておこうかな、と」


「別にいいだろ、マゾなんだから」


「男に甚振られる趣味はございませんよ。私はお嬢様の足に踏まれたいんです」


「真顔でキメエこと言ってんじゃねえ。行くぞ」


「あの……今日の晩とかは……」

「また今度だ」


 轟音を聞きつけ、隣の住人が二人を見ていたが、そんなことはお構いなく、エレベーターの方に進んでいく。縫子は今日五年過ごした家を失った。



            *



 縫子が住んでいたマンションは、オオサカ領ゼニの町の、いわゆる富裕層たちが厳重な警備の元、安心して暮らしている【五番通り】の中心に聳え立っており、もちろん、そこから追い出された縫子はその【五番通り】にすら入れなくなる。


 早乙女はマンションの下にとめてあった愛用のバイクにまたがると「では、新しい家が決まったら連絡くださいね。綱一郎様の目を盗んで踏まれに行きますから!」と、親指を力強く立てながら、ブウンッ、という大きな音を鳴らして颯爽と去っていった。縫子は軽く嘆息つきながら、早乙女が走っていった方向にゆっくりと歩きだした。


 からからとキャリー・バッグがアスファルトを弾いている。


 縫子の横を、高級そうな、背の低いモダンな車が通り過ぎていく。


 その次も、その次も品のいい車が走ってゆくから、縫子は思わず唾を吐きかけてやろうかと思ったが、ただでさえ家を追い出されるという面倒な事態に直面しているのに、別に面倒ごとを抱え込むのは得策ではなかった。


 歩道の端っこに落ちていた小石を蹴飛ばすと、道路とは反対側に連ねていた銀杏の木に当たって跳ね返ってきた。ふてぶてしい顔で小石を交わしながら、結局、けっ、と舌打ちながら、唾をアスファルトに飛ばす。気分を変えて景色を眺めることにした。

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