巨大な黒い塊はポケベルの束を取り出した
土曜の夕方、自宅からほど近いアラハバキ商店街にある居酒屋「あくりかわ」。
「銀河高原ビールください」
2杯目はいつもの地ビール。これも決めている。バナナのような甘い香りをたたえた黄金色の醸造酒が喉を通る時、悩み事も泡のように消えているのではと思う。ビールが美味しければ他のことはまあなんとかなるか、と楽観的になれるのだ。
ところが。
「売れきれちまいました。すいませんね」
残念すぎるほど残念だが、大将の飾らない物言いは不快ではない。代わりにジョッキのおかわりを注文し、メニュー表に目を移す。とはいえ、注文するものは決まっているのだ。
「ジンギスカンくださいな」
「はいよ!」
半年前まで住んでいた都心に比べるとどの店の食べ物も美味しいが、とくにこの
料理が来るまでの間、どの銘柄の日本酒を頼むか真剣に考える。真剣に考えざるを得ないほど種類が豊富なのだ。実に幸せな悩みと言えた。
その幸せな時間を邪魔する者が現れた。奥の座敷から千鳥足で現れた酔客は、史恵の隣の席に勢いよく、というよりは乱暴に腰をかけた。他にも空いているのに関わらず。
「姉ちゃん、隣いいよな?」
「ダメです」
酒臭い息で話しかけてきた
「大将、この人邪魔なんですけど。片付けてもらえませんか」
「つれないこと言うなよ〜。一人より一緒に飲んだほうが楽しいべえ?」
「趣味嗜好に口を出される筋合いはないです」
「そんなにつんけんすんなって」
酎條の手が史恵の腰に回る。嫌悪感で鳥肌が立ち、席を立つ。その勢いで酎條はバランスを崩し、椅子から転がり落ちた。助けを求める為に大将を見ると、電話機とにらめっこしている。どうしたらいいのだろうと呆然としていると、酎條に足首を掴まれた。
これはもう性犯罪だ。警察に電話しようと覚悟を決めた時、店の入口がものすごい速度で開かれた。
身の丈2メートル、体重は150キロ以上ありそうな、全身黒尽くめの黒人が目だけをギョロギョロさせながら周囲を見渡し、横たわる酎條にドカドカと歩み寄る。そして片手でベルトを掴んでゴミのように持ち上げると、ドカドカと店の外へと出ていった。
大将がカウンター越しに史恵へ笑顔を投げかける。
「すいませんね、酒屋が。邪魔なんでニンジャ呼んでたんですわ。ジンギスカンお待ち!」
多すぎる情報量に史恵は翻弄された。飾らない物言いはいいが、説明を省略しすぎだろう。というより、このささくれだった精神状態のところにホカホカの羊肉焼きを出されたところで、それを美味しく頂けるものか。
所在なさげに立ち尽くしていたところ、店の入口が静かに開き、巨大な黒い塊が静かに入店してきた。足音を立てずに史恵の前まで来ると、ニンジャと呼ばれた男は深々と頭を下げた。
全てが理解の範囲外である。このニンジャと呼ばれた黒い巨漢に助けられたのだろうということしか分からない。ならば礼を言うのはこちらだろうと言葉を探す。頭二つ分ほどの高さを見上げ、感謝を告げた。
「サンキューフォーユアヘルプ」
「あ、申し訳ない。こう見えて日本語しか話せないんです。遅くなってすいませんでした」
外見からは想像つかない高い声に軽くのけぞっていると、大将が説明を始めた。
「そいつ店の用心棒、ニンジャ。この町は酒乱が多いから雇ってるんだけど。今日はなんで遅かったんだ」
途中までは史恵に、最後はニンジャに顔を向けた店主に対し、高い声が返答した。
「ニンジャはやめてくださいって。ちょうど別の店でも呼ばれてたんですよ。ほら、今もまた」
ニンジャは巾着袋から、ジャラジャラとポケベルの束を取り出した。そのうちの一つが光っている。
「この町の酒飲みはダメだな」
「あのう」
おずおずと史恵が声を上げる。
「お代は、現金ですか? 助けていただいたお礼……」
「会計時のサービス料315円に含まれてます」
「そういうものなのですか」
「22時以降だと525円になりますが」
「そういうものなのですか」
それほど貯金があるわけではない史恵にとってはありがたい話であり、居酒屋のサービス料とはなんぞやという疑問は浮かんでこない。
「じゃあ行ってきます。今日は遅くなってすいませんでした」
ニンジャはまた頭を下げ、店を静かに出ていった。
「あのう」
再び史恵がおずおずと店主に話しかける。
「へい、なんにしましょう」
「あ、そうでなくて」
「ニンジャですか?」
無言で史恵は頷いた。
「でかい奴ですね。日本人で用心棒です」
「あ、雑な基本スペックではなく。助けてもらったお礼を言いたかったんで、名前を教えてもらえると」
大将は手を止め、虚空を睨む。
「なんだっけ? コンコルド
ガクッとつまづいた史恵はジンギスカンに手を付けず、精算をお願いする。運ばれてきたレシートには確かに「サービス料315円」と書かれていた。
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