第4話 再会

 コンコン、と窓を叩く音がした。ふっと瞼を開けて、初めて、眠っていたことに気がついた。

 フロントガラスから見える景色はまだ暗く、何も見えない。夜が明けるまで眠りこけていたわけではないことにホッとした。

 再び、コンコン、と窓を叩く音がして、あ、と思い出して、振り返る。

 助手席のドアの窓の向こうに、人影があった。暗くてはっきりとは見えない。もしかして、警察かな、なんて思いつつ、助手席側のパワーウインドウのスイッチを押して窓を開けると――、


「こんなとこで、何してんの」


 どんよりと暗い夜道には似合わない、からっと晴れやかな声が流れ込んできた。

 ここ一年、単調なリズムしか刻むことのなかった心臓が、一気に駆け出していた。

 まっすぐに切り揃えられた短い髪。何度、おかっぱ、と呼んで、怒りを買ったことだろう。暗がりに浮かぶ真っ白い肌に、細い首筋。憎まれ口をいつも愛嬌でごまかそうとする、形の良い唇。長く伸びた睫毛の陰で、聡明そうな切れ長の目が、淡い光を湛えてこちらを見据えていた。

 何もかも、変わっていない。

 懐かしさに、息ができなくなった。溜め込んでいた想いが一気に込み上げてきて喉に詰まったかのようだった。


「リサ……」


 やっとのことでその名を絞り出すと、ふっと気道が開いていくのを感じた。


「こんな狭い道の途中にボロクーパー停めて。迷惑でしょうが」

「ボロクーパー……」久しぶりに聞いた愛車の名に、笑みがこぼれる。

「なに笑ってんの。気味悪いな、もう」

「まさか、本当に会えるなんて……」

「会えるかどうかも分からないのに、こんなとこで待ってたわけ?」呆れ顔でリサはため息ついた。

「なんとなく……ここなら、会えるんじゃないか、て気がして」

「いや、あんた……」と、リサは吹き出した。「この山道下れば、すぐあたしの実家でしょうが。普通、そっちに会いに来ない?」

「実家はちょっと、敷居が高いっていうか」

「ああ……そういえば、いっつもそう言って、ウチの実家に上がらなかったよね。送り迎えだけして、挨拶もせずに帰っちゃうんだから。ウチの親からの印象最悪だったよ」

「そうだったみたいだね。あとになって、リサの友達……白井しらいさんから聞いた」


 俺は情けなくなって、滲み出てきた苦笑を隠すようにうつむいた。

 開けた窓からは、春風というにはびしいひんやりと冷たい風が入ってきていた。

 重苦しい沈黙がずっしりとのしかかってくる。

 一年。一年ものあいだ、何度も何度も頭のなかで繰り返してきた。あの日のこと。リサと別れた日のこと。何がいけなかったのか。なんて言えばよかったのか。ずっと、考えてきた。それでも――結局、出てきたのは「ごめん」という言葉だった。


「あのとき、俺が『分かった』なんて適当なこと言わなかったら……君と別れずに済んだ。そしたら、君も出て行くことはなくて――」

「あのとき、なんでケンカになったか、覚えてる?」


 俺の言葉をすっぱりと切り捨てるように遮って、リサは訊ねてきた。あまりに唐突な質問に戸惑いつつも、顔を上げて「いや」と答えると、リサは笑った。諦めたような、寂しそうな、儚げな笑みだった。


「だから、別れたんだよ」

「は……?」

「うまくいってなかったじゃん、あたしら。最後の方はケンカばっかり。それも、いつもあたしだけ怒っててさ。あんたは、ぽけーっとしてて」

「そう……だったっけ?」

「何回、あの日をやり直しても、あんたは『分かった』て言うよ。そういう奴だから、あたしは別れたの」


 トドメを刺されたようだった。

 冷水ひやみずをぶっかけられるって、こんな感じなんだろうか。燃えカスにでもなった気分で呆然としていると、


「それに」と、リサはいたずらっぽくニッと笑った。「あたし、未練たらしくてウザい奴は無理」

「ひでぇ……」


 はは、と情けなく笑う。

 力が抜けて、革張りのシートに倒れこむようにもたれかかった。

 これだけ容赦なくフラれたら、もうすっきりするってもんだ。

 あの日、俺はリサと別れるしかなかった。リサを引き止める言葉も術も俺には無かった。

 もし、なんて無かったんだ。

 瞼を固く閉じると、目頭が熱くなっていくのを感じた。目から溢れおちてきそうなものをこらえるように、眼鏡をずらして目を手で覆い、ぽつりと「でも」とつぶやいた。「もうちょっと、ちゃんと別れたかった」


「そうだね」と、申し訳なさそうにリサが言うのが聞こえた。「だから、会いに来てくれて良かった」

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