3

 少し離れたところから車のエンジン音がする。風を切る音、トラックの荷台が揺れる音も。

 直前の記憶が正しければ、僕は自宅に続く道の途中に一人でぶっ倒れているか、病室に寝ているか、ゴミ袋の上に捨てられているかだと思う。できるだけ良い状態であることを祈りたい。だけど、まぶた越しに明かりを感じることができないことと、時折肌に風が当たるのを感じるので、病室以外の……おそらく外であることが分かる。

 不安だけれど、意識を取り戻した以上は眠ってはいられない。僕はゆっくりと目を開いた。

 俯いていた僕の視界に、まず飛び込んできたのは橙色の光に照らされたコンクリートの地面だった。頭を動かさずに視線で光源を追うと細く白い柱が視界の端に映った。上まで見ることができないが、これは街灯だろう。

 意識を失う直前に歩いていたのは歩道と車道の区別がない、アスファルトの道だったはず。街灯も白かった記憶がある。最初に想像した『自宅に続く道の途中に一人ぶっ倒れている』という状況ではなさそうだ。

 

(僕は何者かに殴られて、ここに移動させられた?)


 なら、犯人がいるはずだ。俯いたまま視線の端から端まで確認してみるが、街灯の明かりは控えめなもので、動かずに確認できることには限界がある。犯人が近くにいる可能性もあるけれど、動くしかないだろう。


(嘘だろ……)


 慎重に立ち上がろうとして、驚いた。外にばかり意識がいっていて気付かなかった。僕の両手は後ろに回され、何かで縛られている。


(絶望した! 悪意しか感じられない仕打ちに絶望した!)


 一体僕が犯人に何をしたというのか。縛って放置だとしても助けを呼べないこの状況はキツすぎる。放置じゃなくて、この後、僕に『したいこと』があるなら、もっとキツイ。

 嘆きたい気持ちを抑えて、縛られた両手を擦り合わせる。硬くてざらざらした感触が手首から伝わる。ああ、これはガムテープじゃない。頑丈な紐だ。

 それでも足は自由っぽいので、ここがどこかは分からないが運に身を任せて逃げようか。


(敬二さんが助けにきてくれたら……)


 一瞬、そんな他力本願な考えが頭の中を過ぎったことに、笑ってしまう。

 

(そんなのは僕らしくないな。新聞の見出しが『人気新人声優・会田あいだ夕人、殺害される!』にならないことだけを祈ろう)


 気合いを入れて、足だけで勢いよく立ち上がる。


「いっ……!」


 立ち上がることには成功した。けれど、後頭部から刺すような痛みが走って、体がふらつく。


「おい、起きたぞ!!」


(まずい!)


 右側から男の声がして緊張が走る。今すぐここを走り出したいのに、頭が痛い。しばらく座っていた足が重い。


(ああ、もう!)


 声の方向を見ると、男三人が汚い足音を立てながら、こっちに向かってきている。

 僕は駆け出した。必死に。橙色に照らされた夜道を。


「逃げるんじゃねぇ!!」

「おいホモ!」

「待て!」


 複数から向けられた怒声。その中に混ざっていた単語に危機的状況で熱くなった体が一気に冷めるのを感じた。

 

「あっ!」


 その動揺が良くなかった。僕は大きくバランスを崩した。手をつくこともできずに道の端にあった白い柵にぶつかり倒れる。

 顔を上げ、目に入った白い柵の向こう側は暗闇だった。下を覗き込むと道路が小さく見える。

 追いかけてきた男たちに腹や腰を蹴られながら、僕はここがどこなのかを理解した。

 近所の陸橋だ。自殺スポットとして有名な。日頃から人通りの少ない場所だ。

 陸橋だから橋といっても下にあるのは湖や川じゃない。国道線が通っている。夜で交通量はまばらだが、外灯の光に照らされながらトラックやタクシーが猛スピードで走っているのがかる。

 逃げたことに対する過剰な断罪の重さに喘いでいると、若い男の一人が、僕のカバンを僕の目の前で物色し始める。

 すぐさま『今日はネタバレ回避するためのセキュリティ意識の高い洋画の吹き替えが仕事だったから台本は入ってないな』なんてことをこんな状況下でも考えてしまう自分の妙な冷静さに呆れてしまう。

 男がカバンから取り出したのは当然台本ではなく、財布だった。気絶している内に取り出せばいいのに、なぜ僕の起床を待ち、わざわざ僕に現金を抜き取る様を見せるのか。おそらく、単なる金品目的ではないのだ。僕の性的指向を侮辱する目的で発言したことからも悪意を感じる。

 けれど、僕は彼らの取り出した所持品たちを、特に無傷の携帯電話を見て希望の光を微かに感じ取っていた。だからギリギリのところで正気を保てていた。体中がジンジンと痛むのに、だ。


「なんだお前」


 僕のそんな精神的な余裕が気に食わないのか、男のうちの一人が僕の顎を強く掴んだ。僕の口元が歪む、その様子が面白いのかどうかは分からないが他の二人がゲラゲラと笑う不快な声が耳に入った。いかに自分の職場に良い声が多いのか思い知らされる。


「ニヤニヤしやがって気持ち悪……」


 男は言葉を言い切る前に僕の顎を手放す。パトカーのサイレンに気付いたからだ。

 

「なんでこんなところに警察が!?」

「とりあえず逃げるぞ!」


 バタバタと男たちの足音が遠ざかって、反比例するようにサイレンの音が大きくなる。


(助かった……)


 冷たいコンクリートの上に寝そべる。財布から抜かれた現金は戻ってこないだろうが、殺されるよりかはマシだ。

  駆け寄ってくる人影に既視感と安堵を覚え、僕はそっと目を閉じた。

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