41.保留

「あなたにふさわしい女性になります。その時……、もう一度始める、というのは、ダメですか?」

「ふさわしい、って……」

「今の私じゃ、史郎さんとケンカも出来ない」

 そう言うと、紗良はくすっと笑った。

「ケンカ?」

「信じられないかもしれないけど……、私、夫と言い争ったのって、今回が初めてだったんです」

「十年、一緒に居たのに?」

「はい」

「それって……」

「仲が良かったわけじゃないです。あの人、もうお分かりだと思うけど何考えてるかすぐ分かるでしょ?そうすると、黙っちゃうんです、私。言いたいこと全部。あの人を大事に思ってるからじゃない、言い争うのが面倒だったんです」


(さっきの車の中と同じ顔をしている……)


 何かを思って、でも自分の心ひとつに留めている。とても美しいが、一対一で向き合いたい人間からすると、高く厚い壁を感じる表情だと、史郎は思った。


「私、今自分に全然これっぽっちも自信がないんです。このまま史郎さんとお付き合いしたり、夫婦になったら、きっとまた同じことを繰り返す……。それじゃ、意味ないって思いません?」


 史郎は言葉に詰まった。史郎としては、今のままの紗良で何の遜色もないと思う。何故紗良が自分にそんなに自信を持てないのか理由が分からない。

 だが、ここで彼女の意見を無視することは、あの夫と同じ轍を踏むことになる。


 紗良の言葉を否定したい気持ちをぐっとこらえ、史郎は頷いた。

 史郎の反応を見て、紗良はほっと息をつき、微笑んだ。


「でも、本当に……。すごく嬉しかったです。ていうより『まさか』って言うのが本音。絶対史郎さんは私のことはお客さんとしか思ってないと思ってたから……」

「その……、いつからですか、俺のこと……」

「うーん……、お店に通い出して、割とすぐかも。コーヒーが美味しいから、って理由で行ったのは、2回目くらいまでかな。後は史郎さん目当て」

「え、じゃあ……、半年くらい?」

「ですねー」

 クスクス笑う紗良に、史郎は脱帽する。

「なんだよー……。もっと早く親しくなればよかった」

「ただのお客なのに?」

「ただの、じゃないですよ。毎週木曜日だけだったでしょ、店来るの。他の曜日は何してるんだろうって、結構気になってた」

「あんまりたくさん行くと、その……」

「あ、ご主人が不審がった?」

「いえ……、たくさん会っちゃうと、どんどん好きになりそうで怖かったんです。一応、夫がいたし」

 ええー、と、また史郎が不満の声を上げた。


「紗良さんずるい。プロポーズ断っておいて、その後でそういうこと言うんですか?!」

「ごめんなさい。でも好きなのは本当の本音」

 そう言うと、紗良は指輪の箱の蓋を閉めて、史郎へ返した。


「半年か、一年か、二年か……。自分に自信が付いたら、私からプロポーズします。その時まで、これはお返しします」

 紗良が手渡す箱を受け取り、史郎は苦笑するしかなかった。

「実はもう結婚指輪も注文しようとしてたんですけど」

「ええ?!それは先走りすぎ!史郎さん、そういう人だったんだ……」

「ですよー。ていうか、俺のことどんな奴だと思ってたんです?」

「え?うーん、きっと私より若いだろうな、って」

「……紗良さん、年聞いていいですか?」

「今?!」


 史郎も紗良も、お互いの年齢を告げる。そして、見合って思わず笑ってしまった。

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