戦場の英雄

第19話 図書室


「お前は本当に勉強が好きだな」

 ある夜、ひょっこり僕の机を覗いた皇女殿下が言う。感心しているのか呆れているのか、ちょっと分からない言い方だった。

「好きってわけじゃ、ないけどね」

 僕は宿題で出された割り算の練習問題をひたすら解いているところだ。宿題、といっても別に提出義務はない。教官が授業終わりに「ここからここをやっておくように」と一言残していくだけだ。やったかの確認すらない。たぶん、やってるやつなんてほとんどいない。アルは絶対やってない。

「好きでもないのにやっているのか」

 今度は完全に呆れ口調だった。

 確かに昼間の訓練のお陰で僕はくたくただ。放り出して寝てしまいたいと思う。

 でもそうやってひとつ放り出したら、なし崩し的に全部放り出してしまうことになる気がするのだ。

「なぜそんなに頑張るんだ?」

 一問解き終わったのを見計らい、皇女様が疑問を差し挟んでくる。

「周りはほとんど頑張ってなど、いないであろう」

「そりゃまぁねぇ。どうせ死ぬのに、しんどい勉強なんかしても無駄だからね」

 気配だけで隣の殿下が不機嫌になるのが分かる。けれど、先にそういう話を振ってきたのは皇女様だ。

 最近ときどき皇女殿下はこうして踏み込んだ話題に触れてくる。それに僕は歯に衣着せず答える。だから衝突することもあるが、ただお互いに変な遠慮がなくなっただけで、喧嘩になることはあまりない。

「そういう意味で言ったのではない。勉強などといって学ぶ知識のほとんどは、軍でも民間でも役に立つことはないであろう? 学校を出たという事実さえあればいいではないか」

 皇女殿下、勉学を全否定。でもまぁ確かにそうだ。割り算ぐらいなら使うこともあるだろうけど、小数点だマイナスだ方程式だといった数学、物理や天文、歴史なんてものは実生活での使いどころがない。今日の飯を手に入れる助けにはならない。

 それでも僕が、疲れた体に鞭打ってでも学ぼうとするのはなぜなのか。それは学ぶのが楽しいとか知識欲を満たせるとか、そんな前向きな理由でもない。

 だいたい割り算の計算ぐらいで苦労している程度の僕だ。なにか崇高な学問が身について役に立つ、なんて期待してるわけじゃない。だから、この気持ちをなんて説明すればいいだろう。

「そうなんだけど。でも、学ばなければ、僕は自分が知らないってことも知らないままだ」

 自分が知らないということさえ知らない。僕の親や居住区で周りにいた大人たちは、みんなそうだった。だけど、僕は彼らが“知らない”のだということを知った。

「同じ共同住宅コミューンに退役軍人の人がいて」

 右腕と右足が吹っ飛んでいた傷病退役の軍人さんは、工場で働くこともままならず保障の配給でなんとか食べている人だった。時間を持て余していて、ほんの少しの謝礼イモでも喜んで僕ら兄弟にいろいろ教えてくれたのだ。

「だから、つまり、僕は、僕がなにを知らないのかも知らないままで死ぬのは嫌だ」

 伝わったんだろうか。思案する顔で視線を落とした皇女様は、しかし突然「あ」と声をあげた。

「この問題、間違えている」

「……え、まじで?」

「うむ。まじだ」

 なんてことだ。僕よりこの皇女様の方が勉強ができるだと!? なんかムカつく。

「ふふん。私は授業など飽きるほど見ているからな」

 この人は本当によその部屋を覗く能力でも持ってるのか。

「だがまぁ。そういうことなら、私がよいことを教えてやろう」

「……なに……?」

 皇女殿下のご教示、なんかムカつく。

「この基地には図書室がある。そこでお前も好きに本を借りることができるぞ」

 皇女様のもたらした情報は、僕の腹立たしさを見事に吹き飛ばした。

「え、本当に?」

「ああ。生活のしおりにも書いてあるはずだ。読んでないだろう」

 さすがにあれを隅から隅まで読むほど僕は暇ではない。全然知らなかった。

「あちらの本部棟の方だからな、少々遠いが。そこそこ本は揃っている。一度行ってみるがよい」

 本に触れられる機会なんてそうそうあるもんじゃない。本当にいいことを教えてもらった。皇女様もたまには役に立つ。

 と本音をうっかり漏らしたらぶたれた。

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