第四三段 口之津

私の父は以前、長崎で生まれたと述べた。

これは私の長崎観からすれば問題ないのであるが、狭義の長崎という観点からすれば問題のある表現である。

父の出身は口之津という島原半島は南端の漁師町であり、長崎市街からは遠く離れた場所で生まれた。

その証拠とでもいうべきであろうか、私が姉と喧嘩をしていると酒に酔った父がよく、


「あまらん、あまらん」


という謎の呪文を唱えては私たちの目を丸くしたものである。

一度、思い切ってその意味を尋ねたことがあるが、その訳を父は一瞬呆けてから「暴れるな」という意味だと教えてくれた。

この一瞬の間は、この言葉が通じないのかという父の驚きであったのだろうが、その後も父はその言葉を臆面もなく使った。


やがて父は先述の通り鬼籍に入った。

その手続きに必要と勘違いして、私は単身口之津の地を訪ねた。

正しくは南島原市加津佐庁舎が目的地であったのだが、そのような些細なことはどうでもよい。

いずれにせよ、私は生まれて初めて父の祖となるべき地を訪ね歩いたのである。


着いてすぐに、風が違うと思った。

その前の晩は茂木に泊まり、港町である長崎にその前はいたのだが、この南の漁師町は生粋の潮の香りと穏やかな時を残している。

町並みに現代社会の影はあるが、その根底に流れる時が全く以て違い、雲の行き来がより穏やかに見える。

茂木の一夜も確かに良かったが、それとは異なる剥き出しの温かさというべきものがそこに息づき、幼少から青年にかけての父が闊歩したであろう海がそこに見えるような気がした。

そして、その父が親戚を気にして訪ねたあの灼熱の長崎はどのようなものであったのか。

楽園と地獄の表裏が私を呼んだ気がして、微かに震えた。


 人は死して 名を遺すべし 父は今 されど豊かな 時を遺せり

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