第四一段 多比良港

熊本に居を構えるようになってからというもの、長崎へ戻る際には長洲港のフェリーを利用している。

近くの熊本新港から行くのも良いが、安さと程よい車窓とが相まってどうしても少し遠回りをしてしまう。

そして、その先にあるのは多比良港であり、今では私にとっての敷居となってしまっている。


多比良港は島原半島の北東に位置し、長崎と熊本とを結ぶ交通の要衝である。

しかし、周囲に目立ったものが何かあるかといえば閉口せざるを得ず、茫漠と広がる有明海にただただ呑まれるばかりである。

とはいえ、有明海はその潮位変化の激しさは比類がなく、その変化を日がな一日眺めているだけでも飽きることはない。

子供を連れてとなると難しいのかもしれないが、大人が一人でいる分にはこれほどまでに無為に時が過ぎていくのを忘れされさせる空間は他にない。


さて、このような港は精々が修学旅行の思い出話で出るのがいいところであろうが、私にとっては劇的な場となっている。


まずは父の死の報を受けて降り立った時、どこか浮世離れしていた脳味噌がこの地で初めて現実を受け入れた。

涙が出る、という感傷的な行いこそなかったものの、ハンドルを握る手は確かに強くなっていた。


次いで、父の火葬なり諸々の手続きなりを終えて熊本に戻る時、もう暫くは長崎の土を踏むこともあるまいと強く思っていた。

鴎が穏やかに鳴くというのであれば絵になるが、ヒッチコックの映画もかくやというほどの盛り上がりでは、出てくるものも苦笑であった。


そしてその三日後、熊本地震の本震を受けて長崎へと避難をした。

前述の感傷は何だったのかと朝日に笑われている。

ただ、多比良の港が見えた時、私の深奥に湧き上がってきたのは生の喜びであった。


 朝ぼらけ 彼岸を越えて 現見る 長崎の陽の ありがたきかな

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