第10話 れいにー
――れいにーは退屈そうに窓の向こうを眺めて欠伸をしていた。と言っても窓の外は鬱蒼とした木々しか見えない。木々に愛らしい小鳥が止まっている、なんてロマンも無く、目をこらして見れば虫が這っていて、溜息をつきたくなる。前で授業を終えたばかりの大学の講師はイケメンでもなく気難しそうな中年男性で、授業後の質問から先生と生徒という禁断の恋が発展する予感を欠片も感じさせない風貌。卒業単位は取り終えているから休めば良かったかもしれない。将来はコネで決まっていたし、周りは就活や院試でピリピリしていて恋愛ごっこをしようにも付き合ってくれそうな人もいない。と、不意に目の前に憧れの存在が現れて笑った。高校生の時から同じクラスで友達の中心で笑っていた女の子。大好きで、ユニドルでもセンターだった彼女がファンでしかなかった自分に……アイドル活動しよ、と。――
それは突然の出来事だった。
「ビ、ビッグニュースだっ。」
あれから数日後、公民館の中にある会議室を借りて早苗とひかりんがステップを合わせていた時、汗だくでウォッチャーが飛び込んできた。次のライブは2週間後。それまでにちょこちょことイベントに出させてもらったりすることも決まっていた。お陰で時間的余裕も無いのだが、彼の輝かんばかりの笑顔で二人は練習を中断する。二人の動きを眺めていたマスクマンも振り向いた。
「どうした。」
「さなたん、いきなり地上派デビューのチャンスが巡って来たっ。」
彼がその言葉を吐いた時、早苗が何か言うよりも早く、ひかりんが公民館中に響き渡りそうな大きな声で叫んだ。
「はああああああああっ。」
――某地方テレビ番組『僕らは君に奢りたい』。これはオタクとアイドルがデートをするという3分程度の企画番組である。視聴者であるオタク達がテレビ局宛てに『推しのアイドルについての想い』と『デートプラン』を提案した手紙を送り、選ばれた企画が実際に番組として成立するというもの。当然、大手アイドルのファンの方が圧倒的な応募数であり、その番組の多くの回は大手アイドル特集のようなものになってしまっていて、ヤラセも噂されていたのだが。
「信じられない。」
マスクマンが珍しく表情を変えていた。目を白黒してわなわなと震えてもいる。
「とうとう俺の手紙が運営に届いたのか……。」
「いや、お前のじゃないらしい。」
サラッとウォッチャーが否定し、マスクマンの腰は砕けたようにぺたん、と地面についた。
「え、じゃあ、アオケンの、とか。」
早苗が尋ねるものの、ウォッチャーは首を横に振って否定し、さなたんのSNSアカウントに載せておいた彼の電話番号にかかってきたという内容のメモを読み上げた。
「日時は1週間後の2月25日。昼の13時には現地……新橋駅に来てくれ、と。メイクはいるらしいが、服は自前で、とのこと。台本はまだ仕上がっていないからもう少し待ってくれ、だって。分からないことがあるなら電話はかけて来て良いらしい。それと、一応過去の番組放送回の載ったホームページも聞いておいた。」
「さ、詐欺じゃない、よね……。」
「そうでもなさそうだが、詐欺ならまぁ俺らも着いて行くし、その場でちょっと観光して帰ろうぜ。」
うん、と早苗が頷く。近くではマスクマンが頭を抱えて横になり何かを呻いている。
俺ら、とウォッチャーは言ったが、正直、4人全員が来るかどうか怪しかった。アオケンは作詞作曲に集中しているから仕方ないとして、透が明らかに『さなたん』に興味を失い始めていた。彼はれいにーが悩殺マリアの桃に夢中になっているということが明らかになると、掌を返したように桃の投稿ばかりを拡散するようになっている。
「コロナで弱小地下アイドルは壊滅させられる。」
ぐ、とウォッチャーは拳を強く握りしめていた。
確かに世間では「外出禁止」を政府が命令するべきだ、そうすべきではない、なんて意見があちらこちらでぶつかり合っている。少し前まではコロナなんて風邪みたいなもの、と笑っていた人達が多かったのだが、国内で感染者が死亡したことで様子が変わっていった。万が一外出禁止を国から命令されてしまってはファンがライブハウスに来られない事になり、地下ドルにとっては死活問題である。
「地下から地上へ逃げ切るぞ。」
彼が強く、宣言した時、先程からわなわなと震えていたひかりんが再び大声で喚いた。
「なんで、ずっと活動してきた私じゃなくて、あんたなのよおおおおおっ。」
早苗が慰めようと、ひかりんの頭を撫でて、さらにひかりんに怒られていた頃、マスクマンはようやく立ち直り、あぐらをかいていた。スマホをいじって何だか不機嫌そうである。
「なんで俺のは通らない……。」
毎回観ているんだぞ、と彼は呟いていた。その姿にウォッチャーは苦笑しながら、早苗に声をかける。
「一応、さなたんは燃えたばかりだし、ストーカーとか変な相手だったら困る、ということで名前と相手の写真送ってもらえるか確認しているけど。」
ありがとう、と早苗は笑う。いえーい、とウォッチャーが手を出して、二人はパンッと掌を重ねた。
練習も一段落し、さなたんとひかりんが練習のために、と端においやられていた長机の上にそれぞれ転がる。マスクマンのように床に直接転がるのは何となくはばかられた。頭の上のクリーム色の天井には、年月とともにできたと思われる茶色い染みが不思議な模様を描いていた。
二人で活動する事になったものの、グループ名も決まらず、今のところ『さなたん×ひかりん』という形でライブを開いている。が、そろそろ決めなければいけない。ファンも二人で活動をし始めた途端、じわじわと増えてきている。
「練習風景、ちゃんと良いの、撮れたわよね。」
ひかりんの声に、勿論、とマスクマンが答えた。そのやり取りを聴きながら、早苗はれいにーのSNSアカウントを眺めていた。彼女がさなたんから悩殺マリアに推し変した、と言って早苗から離れていった日から、彼女は堂々と悩殺マリアの布教活動を行うようになっていた。さなたんの投稿にはほとんど反応する事も無い。彼女は楽しそうに花畑桃とのツーショットを載せている。どうも悩殺マリアのファンが集うオフ会にも参加しているようだった。
「れいにー、なんで、あんないきなり、」
ぼそ、と呟くと、ふんっとひかりんが鼻を鳴らす。
「あの子は結局、アイドルオタクを盾にした面倒な寂しがり屋ってことでしょ。」
「どういうこと、」
「だから、アイドルオタク、それもマイナーな地下ドルオタクって多くが男達なの。その中に女、しかも美人で自分と同じ趣味の子が来てみなさいよ。ただでさえ女に見向きもされない男達ばかりよ。ちやほやするしチャンスさえあれば付き合いたいって思うでしょ。それで彼女自身が、彼氏欲しい、とかまで呟いちゃってさ。透を見れば分かるじゃない。ずっとれいにーの背中追っている。」
「……そうなのかな。」
ちやほやされたいだけであれだけアイドルについて語れたり、親身になれるのだろうか。早苗にはしっくり来なかった。けれど、確かにアイドルとのツーショットを載せて楽しそうな彼女はひかりんの言う通りにしか見えなかった。
マスクマンの方を見るとスマホをじーっと眺めている。恐らく、さなたんとひかりんが一番綺麗に見える練習風景の写真を選んでいるのだろう。
――『オタク失格である』
確かに彼が放ったコメント。ひかりんについて彼はオタク失格の烙印を押していた。このことを指していたのか。納得がいく一方で現実のれいにーを知った今は反論したくて、けれど、反論するにはあまりにもれいにーのSNSでの行動がその通り過ぎて無力だった。
撮影日の前日は居酒屋でのイベントだった。イベントと言ってもその多くはハッキリ言ってしまえば人間関係で何とか開いている状態で、行きつけの店に頭を下げて取り付けていた。飲食店で次のライブの宣伝チラシをお客さんに手渡したり、ファーストライブの時に作ったグッズを増産して売ること。ついでに今日の居酒屋ではビール10杯で生ライブ鑑賞できるというサービスやプラス300円でアイドルにお酒をついでもらえるというメニューも用意していた。
居酒屋が開店する30分前の15時半に早苗はある居酒屋の前に立っていた。黄色い暖簾にテーブルや椅子が所狭しと並んだ店内。奥には小さなテレビ。ここは4人と出会った場所。何の変哲も無い、東京の飲み屋の一つ。あれからたった3ヶ月程度しか経っていない。けれど、確かに転機となった場所。
早苗はくいっと顎を上げると笑みを作った。
「こんにちはーっ。」
「いや、まさかあの時だいぶ飲んでいた君がアイドルになっているとはねぇ。」
店長の声に、えへへ、と早苗は照れ笑いする。早苗は私服の上に店のエプロンを羽織っていた。その様子を後から来たマスクマンが撮影している。ウォッチャーは開店したら客として来店し、サクラをやるつもりらしい。つまりは、さなたんからわざとDVDなどを購入してみせることで、周囲にもそれを促す役だ。今日は作曲作詞の気晴らしで、ということもあり、アオケンも途中で来るらしい。
筋肉質の身体に少し髭を生やした店長は首をひねる。
「一緒に活動している子……誰だっけ、ぴかぴか、」
「ひかりんは今日は大学があるらしくて、講義が終わってから来てくれるみたいです。なので、18時半過ぎ、19時とかになるかも。」
「あぁそういえば言っていたね。」
店長の曖昧な時間管理に早苗の心には一抹の不安がよぎる。早苗とひかりんは臨時のバイトとしての扱いにしてくれて、働いた分の時間給を貰える手筈であった。勿論、グッズ販売をさせてもらえるだけでも有り難いのではあるのだが。
早苗が居酒屋で1日店員として働くことをSNSで発信したところ、行きます、といったコメントが複数来ていた。その半分以上は実際には来ないであろうが、そういうコメントが来るだけでも嬉しかった。
開店するから、と店長が扉を解放する。と、待っていました、とばかりに3人の男性客が店内へと入ってきた。一様にスーツを着崩していて、奥の席に座るなり、くるり、とカウンターに向かって声を出す。
「ビール3つ。」
「はいよー。」
店長は答えながらも手を動かし、ちゃっちゃっとサーバーからジョッキにビールを注いでいく。その間に早苗は冷蔵庫から今日のお通しであるほうれん草の胡麻和えを3人の席に置き、すぐに厨房に戻った。厨房のテーブルには既にビールジョッキが3人分出来上がっている。これを泡が消えてしまわないうちに運ばなければならない。両手に一つずつ落とさぬように慎重に……。
「3つとも一緒にすぐに運んで。」
店長の声にその考えは早くも打ち砕かれる。慌ててテーブルに置き直し、持ち手を内側にして、右手に2つ、左手に1つ持つことにした。右手に、ズシ、とした重みを感じたものの、筋トレをしているせいかそこまで重くはない。ジョッキも泡で液体が蓋されているかのように想像より揺れてこぼれそうになることは無かった。
「お待たせしましたーっ。」
早苗が笑顔で3人の前に現れると、彼らはそれぞれの前にビールを置いて持ち上げた。
「「「かんぱーい。」」」
その後もお客は途切れなかった。途切れない、と言ってもお客さんが殺到しているわけではなく、常連そうな顔つきの中年男性団体がずっと座って注文し続けていたり、女子会とおぼしき若い女性の数人組がテーブルを囲んで長い間談笑しながらたまにまとめて注文してくるといった様相。初めは誰もさなたんを意識していなかったが、ウォッチャーの作戦通り、彼がサクラとなって早苗からグッズ購入や日本酒を注いでもらうサービスを受けているところを見せることで、周囲もさなたんに視線を向けるようになっていた。お客さんのさなたんに対する注意が無くなると、その役割はマスクマン、途中から来たアオケンへと移っていった。が、そのうち、本当にさなたんのファンがぽつりぽつりとやって来て、さなたんからグッズを購入したり、握手をすることで、店内には『確かに今の店内は特別な状態なのだ』という認識が広まっていった。
「明日テレビ撮影なんですか。」
若い女性の集団が目を輝かせて、注文を聞き終えた早苗に話しかけた。たった3分の番組だけどね、という言葉は喉の奥に押し込み、笑顔で「はい。」と答える。
「えーっ、凄い。サイン貰えませんか。」
「サインならサイン入りプロマイドを売っているのでよければ、」
「うーん、ちょっと考えておきますー。」
タダで記念にサイン貰えたらラッキーだったんだけどな、なんて雰囲気が漂う。彼女らは、酒が入ってはしゃぎつつも冷静だ。
早苗は内心残念がりながらもオーダーを厨房に伝えに行く。と、途中で別の男性客に声をかけられた。
「やっぱりコロナでお客さん減りましたか。」
「えぇっと、」
店の客入れ事情までは聞いていないしどう答えるべきか指導されていない。厨房に訊いてきます、と言おうとしたところで店長の声がした。
「えぇまぁ。こうやって助っ人でアイドルが来てくれたお陰で久々の活気ですよ。」
「へぇ、アイドル。道理で騒がしいと。見たこと無いけど近頃はテレビもアイドルだらけで見分けつかないしねぇ。」
悪気の無いであろう感想。あはは、と苦笑いしながらも早苗は厨房に戻っていった。仕事は途切れない。
早苗が働き始めて2時間も経ち、ようやく仕事に慣れ、ひかりんが来るまであと少しとなった頃、見慣れたひょろりとした背格好の男が店内に入ってきた。
「透じゃん。」
アオケンの嬉しそうな声で早苗も気付く。店内には確かに透がいた。作詞作曲に集中していたアオケンは透がしばらく早苗達の打ち合わせに来ていない事を知らない。マスクマンは表情を変えず、ウォッチャーは怪訝そうな顔をしていた。
――『私、さなたんは本日1日居酒屋店員をやります!』
さなたんのSNSアカウントの投稿に載せた文言が脳裏に浮かぶ。エプロン姿の写真をつけたあの投稿を彼は見てやって来たのだろうか。もう一回さなたんを推してサポートしてくれるつもりなのだろうか。
ともかく今の早苗はアイドルさなたんであり、居酒屋店員だ。笑顔を作り、カウンターに座った彼に、注文を、と言いかける。が、彼は注文を言う前にさなたんの袖を掴んだ。途端、ウォッチャーとマスクマンが、ガタッと椅子で音を立てて立ち上がるが、彼は構わず言葉を続けた。
「このままじゃ、れいにーが怖い目に遭っちゃう……。」
れいにーが怖い目に遭っちゃう。その言葉を脳内で反駁した時、彼は頭を下げていた。
「助けて……ください……。」
その声は小さかったが、切実な響きを伴っている気がした。――れいにーが怖い目に遭いそう。それは、どうして。
早苗の袖を掴む手は男らしい骨が浮き出たものであったが、その手は震えていた。どうしたの、と尋ねようとしたところでウォッチャーが透の近くまで来た。
悪いけど、とウォッチャーは透に声をかけ、そのまま何かを言おうとして口を閉ざし、早苗の方に顔を向けた。
「大丈夫、俺らがどうにかしておくから、さなたんはそのまま頑張れ。」
うん、と早苗は頷く。注文良いかー、という声が背後からしていた。
ひかりんが途中で合流すると、店内に残っていたさなたんファンも再び活気づいたようで、二人に幾らかお金を渡してグッズを購入したり、仲間を呼び寄せる人達もいた。れいにーのことは気になっていたが、次から次へと注文は途切れない。二人のファンが集ったテーブルではあっという間にビールが消費され、二人に生ライブを注文している。生ライブが注文されるたび、二人はカウンターの奥でマイクを握り歌う。
何曲かのリクエストを終えた時、店長に手招きされ、二人は揃って店長の前に立っていた。彼女らに店長は歯を出して笑った。
「明日、撮影なんでしょ。早めにあがりな。」
「「えっ。」」
二人の声がシンクロする。店長はズボンのポケットから二枚の茶封筒を取り出し、二人に手渡した。背中を向け、中身を確認するひかりんを尻目に早苗は店長に確認する。
「でも、まだ私達、30分くらい残っていますし、」
「いいのいいの。もう十分貢献してくれたし、明日撮影なんでしょ。それに、ほら、君達の仲間の一人、放っておいていいの。」
店長がちらり、とカウンターの端に目を向ける。そこにはぐすぐす泣く透と背中を撫でて宥めながら苦笑いしているウォッチャーの姿があった。
「ありがとうございますっ。」
早苗がガバッと勢い良く頭を下げると、彼はぐっと親指を立てた。
「凄い、私、時給5,000円ねっ。」
東京駅方面へと歩きながら2時間ちょっと働いただけで貰ってしまった1万円札の入った茶封筒をひかりんはぎゅーっと胸元で抱き締めている。早苗の茶封筒にも一万円札が入っていた。恐らく最初からあの店長は二人に一万円を渡そうと決めていたのだろう。有り難い。早苗は中身を確認するなり、落とさぬように鞄の中に仕舞い込んだ。
二人の前を男4人が歩いている。そのうち、透は酒もだいぶ入ってか足下が覚束ない。アオケンに担がれている透の代わりに彼から事情を訊き出したウォッチャーが早苗に何が起きているかを説明する。
――さなたんから再び悩殺マリアの花畑桃に推し変したれいにーは花畑桃のファンの集いであるオフ会によく顔を出すようになった。それも選り好みせずに顔出ししている。となると、当然変な男もいるオフ会にも顔を出したりしてしまっていることになる。そこでれいにーを知った厄介そうな男達がネットでれいにーをヤれないか、なんて裏で話している状態で、こっそり聞いているうちに本当にれいにーが危ないんじゃないかと思い始めて怖くなってしまった、という。
「お、俺が止めても、言うこと聴かないし、どうしようって、」
いつの間にやら少し回復したらしい透がアオケンの背中で必死に訴えた。夜遅いと危ない、感染症もテレビで報道されているし行かないほうがいい。様々な理由で引き留めても聞き流されている状態らしい。
「れいにーのオフ会好きは昔からじゃん。大丈夫だろ。」
アオケンが苦笑いする。そうそう、とウォッチャーが頷くが、何かを考え込むかのような顔をして立ち止まった。
「次のオフ会はいつだ。」
「明日……2月25日。」
その2月25日、撮影日がやってきた。番組制作会社に指定された時刻は13時。早朝に布団から這い出た早苗はいつも通り、走ろうとTシャツにジャージズボンといういでたちでアパートのドアを開ける。と、目の前にむすっとした顔のひかりんがいた。
「ぬわっ。」
奇声をあげて驚くと、彼女は小さく溜息をついた。
「ちょうどインターホン押そうとしたところ。驚き過ぎでしょう。」
「えぇっと、」
「薄手の格好で朝走っているって聞いたから。一人だとこの辺何があるか分かんないでしょ。それにあんたのことだから撮影だーって張り切って走る距離無茶して増やしそうだし。」
全く、と呆れたような口調でひかりんは靴を脱ぐとズカズカと部屋にあがり、持っていた鞄を部屋に放り出した。早苗はこの背中をどこかで一度見たような気がしていた。――そうだ、ファーストライブ3日前。彼女は肩をピンッと張りながら早苗を見ること無く部屋にあがりこんでいた。今日のひかりんは肩を張っているものの、早苗の方に視線をやっていた。
「何笑っているのよ。」
「いや、ふふふ。笑っていないって。」
「笑っているじゃないっ。」
何なの、もう、なんて彼女は言いながら玄関に戻ってくる。
二人して息が軽くあがる程度のランニングをした後は、折角なので、と朝から営業しているカフェに入り、簡単な朝食をとることになった。朝からやっている飲食店は少なく、カフェの中は人で結構埋まっている。席取りはひかりんに任せて、早苗は昨日のことを思い出していた。
居酒屋から皆で帰りながら、すっかりアオケンにおぶられている透の言うオフ会についてマスクマンがスマホで調べていた。透もそのオフ会に参加する予定でメンバーも分かっていた。
透のスマホで参加予定者を眺めていたマスクマンが立ち止まる。何事かと全員足を止めると、彼はぼそっと呟いた。
「……ナイスだ、透。」
彼は透を褒めるなり、一人の参加者を指差して説明し始めた。――メンバーにいたアニメアイコンの男。彼は他のアイドルのライブで出禁を食らっていた。理由はハッキリとしないが、そのアイドルのファンである女性をオフ会名目で呼び出し、襲おうとしたとされている。結局、警察沙汰となっているのは確からしい。普段から女性を馬鹿にするようなことを口にしていて、仲の良い人には『女に厳しい』なんて笑われているが、実際は女に相手にされなくて管を巻いているだけのオタクだ。けれど厄介なのはいつもそういう発言を支持するようなオタク達と一緒に行動していて、気が大きくなれば彼らが何をするか分からない、と言われていること。
「怖い……。」
気付いたら早苗も透と同じように怯えていた。ひかりんが黙り込んでいる。透は必死で訴えた。
「それだけじゃない。れいにーの相方を潰した因縁の相手だよ。」
因縁って、と早苗が訊き返す。その声に被さるようにして透は説明する。
「れいにーは昔、友達と二人で地下アイドルをやっていた。けど、そいつはれいにーを褒めるふりして相方の女の子を叩いたんだ……。」――
早苗はレジまで辿り着き、ひかりんに言われたメニューと自身の気になったメニューを口にする。店員に番号札を渡されたところで、テーブル席に目をやる。ひかりんがこっち、と言うかのように一つのテーブルの椅子から立ち上がった。
なんでひかりんが早苗と一緒にランニングしようだなんていきなり思ったのか。彼女も昨日の話が頭のどこかにこびりついてしまって、早苗と話したくなったのかもしれない。
番号札を持ちながら、早苗がテーブルの方に向かうと、ひかりんは椅子に着き、スマホを弄り始める。早苗が椅子に座ったところで彼女はスマホを眺めながら呟いた。
「……昨日の件だけど、」
「うん。」
「あんたは今日は撮影に集中しなさい。絶対に気にしちゃダメ。分かっているわよね。」
「でも、」
「気持ちは分かるわよ。でも何も起こらない可能性だってある。」
テーブルに置かれていた水を彼女はごくり、と飲んだ。そういえば喉が渇いていた気がして、早苗も水を飲む。――れいにーは長年応援していた大学生アイドルの子に誘われて二人でユニットを組んで地下ドルとして活動していた。れいにーは見た目も良く、何よりお嬢様育ちで他のアイドルとは明らかに違う高貴な雰囲気でどんどん人気になっていった。伸び悩んでいた相方の女の子に対し浴びせられた罵詈雑言。れいにーと比較して嘲笑う言葉に耐え切れず、彼女は地下ドルを辞め、れいにーもショックで地下ドルを辞めてしまった。
早苗はスマホに視線を落としたままのひかりんを見る。少し間が空いて、早苗は呟く。
「前に、れいにーに、アイドルやらないのって聞いちゃったことがあって、」
「そう。」
「私はさなたん推しですからって流された。」
「そうとしか言えなかったんでしょうね。」
「でも、本当はやりたいんじゃないかって、どこかでずっと思っていて、それなのに聞けなかった。」
「……。」
ひかりんが黙り込む。彼女はギュッと冷水の入ったコップを握り締める。コップは汗をかいていた。
「れいにーをオフ会行っちゃダメだってやっぱり止めないと、」
「あの子がね、アイドルになられたら私達が困るの。」
早苗の声をひかりんが遮る。苦しそうに彼女は言葉を紡いでいく。
「あの子は凄く人を惹きつける……他のアイドル数人分の魅力を1人で放ちかねない。そんなこと気付いていた。気付いていたわよ。けど、あの子自身が身をもって分かったように、あの子が目立てば確実に私達も含めて、彼女が推してきたグループはいくつも潰れるし、一緒に活動したら私達もきっと彼女の輝きに押し潰されて消えてしまう。」
だから私達には救えないの、と小さく呻いた。早苗の脳内に昨晩、アオケンにおぶられて帰っていく時の透の声がした。早苗はテーブルの下、膝の上で拳を握っていた。
――『さなたんにしか救えないんだよ、れいにーは。僕じゃ、ダメなんだ……。』
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