第6話 浄土は遥か

――海の向こうには楽園があるんだって。

「だから昔の人たちは小さな船に乗って、遠海へ出ていったんだって」

 小学校のころだったか。そんな話を聞いた覚えがある。あとになって調べると、その話は仏教の捨身行のことで、そんなおめでたい話ではなかった。生きながら浄土を目指し、海へ。どんな気持ちで船を出したのか、まったく知れない。

 浄土なんて存在しない。結局は、生きては帰れぬ死出の旅だ。孤独な海の上で、小さな船の中で迎える最期は、きっと……。


「本当にそう思うかい?」


 単調な生活を繰り返すだけ、そんな日々に飽きていた。夢を抱いて上京したはずなのに、あの田舎にいた時よりも停滞している。そんな気がしていた。

 東京には空がない。というのは高村光太郎の智恵子抄だったか。天を仰ぐと、ビル群が空を突き刺し、光が地上に降り注ぐのを阻んでいた。そんな時だ。彼に出会ったのは。白黒の都市の中でも浮いて見えるほど黒づくめの男。彼はいつのまにか目の前に立ち、深層を暴くように問いかけてきたのだ。


「――本当に、そう思うかい」


 その瞬間、世界はぐにゃりと変節した。




「そう、思わない」


 空には暗雲が陰り、海から吹き付ける風は冷たいのにどこか湿っていて、何かが腐ったようなにおいをしている。低い堤防に打ち付ける波は鈍色の泡を立て、飛び散った潮は風に乗って漂い集落を白ませている。昨日とはまるで違う街の様子を見下ろしながら、神倉は満足げにつぶやいた。


 山の中腹ほどにある、古い家の縁側から眺める景色はいつも退屈だった。青い海が広がるだけで何もない景色。いつかはここを出ていくと決めて、やっと都会に出たのにまた戻ってきてしまった。年月に傷んだ家には、もう自分以外の人間はいない。かつては家族が園芸に興じていた小さな庭は荒れ果て、雑草が生えるがままになっている。


 雑草の上には真っ赤なペンキで、直径3メートルほどの円と梵字のような模様が描かれており、その上には刻まれた魚や頸を掻き切られた鶏が散乱している。流れ出した血は不安を掻き立てる臭いを発し、神倉しかいない古びた家を覆っていた。


「これで、やっと報われる」


 深く息を吸い込み、絞り出すように出した声には安堵の色が含まれていた。





 雨粒が風の勢いを受けて地上に降り注ぐ。

 歩行者はもちろん車すらまったく通りに出ていない。ガラガラに空いた道は、アスファルトに弾けた雨粒で白くなっていた。降りしきる雨の中、一台の黒い車が風にあおられ、ふらつきながら山を下っていた。


「ここで事故れば、全部台無しだ。ゆっくりでいい、“目”までに海につけばいいんだ。……焦るなよ」


 運転席の男は、逸る気持ちと風にあおられる車体を落ち着かせるようにハンドルをぎゅっと握りしめていた。

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