第19話 スターチス2

「……はい」


 消え入りそうな声でようやく返事をし、サラはのろのろとワンピースのポケットを探る。

 自ら望んだ婚約解消だというのに、サラの全身は絶望で凍りつくようだった。

 オレールとの楽しかった思い出が、脳裏に次々と浮かんでは消えていく。思い出の中のオレールはいつだって優しく微笑んでいた。くしゃりと目尻に皺を寄せて。彼はもう二度と、サラにその笑顔を向けてはくれないのだろう。


 ようやく探り当てた金のブレスレットを、サラは静かにテーブルの上に乗せた。

 小さく震える指先で、そっとオレールの方へ押し出そうとした、その時だった。


 不意に、オレールの両手がサラの手を包み込み、その動きを止めた。

 顔を上げたサラの目に映ったのは、思い出の中のものと同じ、いや、それ以上に優しいオレールの微笑みだった。


「あぁ、そういう意味じゃないんだ。返す必要はないよ。それはサラにプレゼントしたものだから。そうではなくて、『契り』を交わすのを止めようと言いたかったんだ」


 オレールの言葉の意味を捉えかねて、サラは無言で目を瞬く。


「サラ……僕にはサラと違って前世の記憶なんて全くない。だから正直に言って、サラの気持ちはよく分からない」


 サラは小さく頷いた。

 オレールがそう言うのも無理のないことだと思う。サラ自身、エリーズの記憶が戻るまでは、前世の記憶を持つというのがどういうことなのか、真剣に考えたことなどなかった。ただ漠然と、何か素晴らしいこと、ロマンティックなことと考えていたのだ。前世が輝かしい人生だったとは限らないのに。


「それから、これもこの際だから正直に言うけど、僕は来世にもたいして興味はないんだ」


 え、とサラは思わず声を洩らす。だって、『契りの腕輪』を交わすことを提案したのはオレールの方なのに。

 その疑問がそのまま顔に出ていたのだろう、オレールは苦笑を浮かべた。


「サラが『契りの腕輪』に憧れているのを知っていたから、サラが喜ぶかと思って」


 あざといよね、と自嘲してから、オレールはサラの手を包む手に力を込めた。


「だけど、サラが前世や来世に囚われるくらいなら、『契りの腕輪』なんてやめよう。僕にとって大事なのは、今世だけなんだよ。そして僕はこの今世を、サラと一緒に生きていきたいと思ってる」


 オレールの眼差しは、真剣そのものだった。

 冷え切ったサラの身体の奥底から、ふつふつと温かいものが湧き出す。

 その心地良さに身を委ねてしまいたい。そんな願望を、サラはぐっと胸の奥に押し込めた。


「でも、わたしは……」

「サラの言いたいことは分かる。でも、前世は前世、今世は今世だよ。エリーズ・グラニエという伯爵令嬢とサラ・ブロンデルは別の人間だ」

「別の、人間……」


 本当に、そうなのだろうか。エリーズの記憶は、こんなにも鮮やかだというのに。


「僕はそう思うよ。サラの話では、エリーズ嬢は家族に愛されずに――少なくとも家族の愛情を感じられずに、孤独に過ごしていたんだよね。じゃあ、サラはどう? サラのお父上とお母上は、サラを愛してくれなかった?」

「いいえ、まさか!」


 サラは即座に否定する。これまで父と母の愛情を疑ったことなど、ただの一度もない。それに、母が亡くなった後も、ネリーが母親のように寄り添ってくれた。父やネリーのおかげでサラは悲しみから立ち直ることができたのだ。

 そう、サラは優しい人達に囲まれて生きてきた。孤独という名の湖に身を沈めていたエリーズとは違う。


「それに、サラはエリーズ嬢と違って健康だよね。屋敷に引きこもったりなんかしていないし、社交界にだって出入りしてる。もしもサラが考えているように、サラとエリーズ嬢の魂が同じなんだとしても、これだけ違う環境で育てば、ずいぶん違う人間が出来上がるはずだよ」

「そう、なんでしょうか……」


 オレールは確信に満ちた表情で頷いた。


「だいたいさ、同じ一人の人間だって、色々な人との出会いや出来事を経験して変わっていくものだと思うんだ。例えば僕だって、サラに出会ってから別人のように社交的でマメになったと、家族からは言われているしね」


 サラと出会う前のオレールを、サラはうまく想像することができない。初めて出会ったときからずっと、オレールは紳士的で優しくて気配りのできる人だったから。

 自分はどうだろうか、とサラは顧みる。オレールに出会って、自分は変わっただろうか。そうであればいい、変わりたいと、サラは自然にそう思えた。


「仮に魂が同じだったとしても、サラはエリーズ嬢とは違う。だから、サラがエリーズ嬢の言動に責任を感じる必要なんてないんだよ」 

「……わたし、幸せになってもいいんでしょうか? ジャンに償いもせずに……」


 あぁもう、と溜め息混じりに呟き、オレールは苦笑した。


「サラは本当に真面目だなぁ。まぁ、そんなところも好きなんだけどさ。償うと言っても、サラがジャンのためにできることは、冥福を祈ることくらいだと思うよ。サラはエリーズ嬢ではないのだから。でも、そうだな……万が一、そのジャンの生まれ変わりの男がサラを恨んで危害を加えようとするなら、僕がどんな手を使ってでもサラを守るよ」


 気付けばオレールはいつの間にかサラの隣に腰掛けていて、力強い光を湛えた瞳がサラをじっと見つめていた。その熱で、サラの心の奥に最後まで残った氷を溶かそうとするかのように。


 ああ、もうだめだ。やっぱりわたしはこの人が好き。この人の隣にいたい。共に生きていきたい。


 懸命に押し込めていた思いが溢れ出すのと同時に、オレールへの申し訳なさや情けなさが募り、サラは顔を赤くしてうつむいた。


「ごめんなさい、オレール様……。わたし、恥ずかしいです……。一人で思い込んで、婚約解消だなんてとんでもないことを言い出して、それなのにすぐにまた流されてしまうなんて……」


 サラの言葉に、オレールはくしゃりと目尻に皺を寄せた。


「いいんだよ、安心して流れておいで。大丈夫、流れ着く先は元いた場所なんだから」


 ぐいと力強く腰を抱き寄せられ、耳元で甘く囁かれて、サラは先ほどとは別の意味で顔を赤らめた。


 ジャンへの罪悪感が消えたわけではない。けれど、サラとエリーズは別の人間なのだというオレールの言葉を、今は信じたいと思った。自分でも自信を持ってそう言えるような人間になりたいと。ブロンデルの娘として、オレールの妻として。

 そしていつの日か、ジルがジャンの記憶を取り出したその時は、エリーズの代わりに、エリーズの行いを謝罪しよう。例え受け入れて貰えなくても。

 そう心に決めて、サラはオレールの胸にそっと身を寄せた。


 指で髪を梳くように頭を撫で、こめかみに何度も口づけてから、オレールはようやくサラを抱きしめる腕を緩めた。


「でも……さっきはああ言ったけど、もしジャンの生まれ変わりが僕の想像どおりの人なら……彼がサラに危害を加えるとは思えないけどね」

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