第8話 白百合4

「それでは行って参りますが……お嬢様、俺が帰るまで、誰が訪ねて来ても扉を開けてはいけませんよ」

「ええ、分かってるわ」

「ご不便でしょうが、お一人では外に出られませんように」

「大丈夫よ」

「部屋は暖かくして、お昼ご飯もきちんと召し上がって下さいね」

「もう、ジャンったら心配性ね。そろそろ出ないと仕事に遅れるわ」


 玄関先で毎朝飽きることなく繰り返される会話に、エリーズが小さな笑みを浮かべる。

 ようやく安心した様子で表情を和らげ、ジャンはエリーズの頭を遠慮がちに撫でた。そのまま手を滑らせ、これまた遠慮がちにエリーズの頬に触れる。

 エリーズは首を傾げるようにして、ジャンのその手に自分の頬を押し当てた。ジャンの掌の温もりが、冷えた頬にじんわりと染み入る。


 そっとエリーズから手を離し、いつものように家を出ようとして、ジャンはふと足を止めた。


「そういえば、質の悪い風邪が流行り始めているそうですよ。お嬢様も十分にお気をつけ下さいね」





 仕事に出かけるジャンを見送り、一人になったエリーズは、小さな台所へ向かう。水切り籠からカップを取り出し、小鍋に残った白湯を注ぐ。朝食時に紅茶を入れた残りのお湯は、まだほんのりと温かい。


 白湯の入ったカップを手に、台所の続きの居間に向かう。木製の小さなテーブルと椅子が二脚。その一つに腰掛け、カップの白湯を口に含む。今朝から感じている喉の違和感がほんの少し和らいだ気がした。


 本当は紅茶を淹れたいところだが、一人のときは我慢すると決めていた。だって、最も安い茶葉でも、エリーズ達にとっては贅沢な嗜好品なのだ。どうせならジャンと一緒に味わいたいし、それに、エリーズ一人ではまだ美味しく淹れられない。

 茶葉の良し悪しもあるのだろうけど、屋敷で侍女達が事も無げに淹れてくれていたものと、何かが根本的に違う気がするのだ。

 ジャンとて紅茶に詳しいわけではないので、二人であれこれ試行錯誤しながら紅茶を淹れる。いまいちな味になってしまっても、二人ならばその失敗すら楽しく感じられた。


 再び立ち上がり、暖炉の前でほんの少し迷う。結局、暖炉に火は入れず、寝室からショールを持って来ることにした。冬本番はまだ先だというのに、今日はなんだかずいぶんと冷える。


 居間の隅の床に直置きしていた籐の籠をテーブルに移動させる。籠の中には刺繍道具がある。

 テーブルの上に几帳面に刺繍道具を並べ、肩にショールを羽織ると、エリーズは昨日の続きから刺繍を再開した。




 ジャンに手を引かれて屋敷を出てから、まもなく二ヶ月になる。


 ジャンが用意してくれた住まいは、王都の下町の外れ、水路沿いに雑然と並んだ長屋の一室だった。

 小さな台所に居間と寝室が一部屋ずつの住居である。全部合わせても、エリーズが生活していた離れの寝室と居室にすっぽり収まってしまうほど狭い。

 家具は、居間のテーブルと椅子二脚の他には、寝室にベッドと造り付けのクローゼットが一つずつあるだけ。寝室はエリーズが使い、ジャンは居間に毛布を敷いて眠っている。エリーズは自分ばかりベッドを使うのが申し訳なく、交替で使おうと提案したが、ジャンは決して譲らなかった。


 ジャンとの生活は、慎ましいというよりも貧しいという言葉が相応しいものだった。

 ジャンが荷運びの日雇い仕事で稼いでくるわずかな収入が頼りの生活。

 本当は、屋敷を出るときにお金に替えられる物を持ち出したかったのだが、寝込んでばかりで外出することのなかったエリーズは、アクセサリーの類をほとんど持っていなかった。そもそも、鞄すら持っていない。

 結局、シンプルなワンピースと下着を二揃いと髪留め三個、それと愛用の刺繍道具を大判のショールでくるんで抱え、屋敷を抜け出した。それがエリーズの荷物の全てだった。

 エリーズは髪留めを売ってお金に替えようと提案したが、そこから足がつくことをジャンが心配し、いまだに売れずにいた。


 ジャンは、エリーズが体調を崩しはしないかと、それはもう過保護なほどに気にかけてくれた。

 けれど幸いにも、エリーズはこの二ヶ月、寝付くどころか熱を出すこともなく過ごしている。これはエリーズにとっては快挙だ。

 毎日が目新しいことの連続で風邪をひく暇もなかったのだと、エリーズはこの二ヶ月を思い出して口元をほころばせた。


 なにしろ、服を着替えるのも、髪を結うのも、自分でするのは初めてのことなのだ。

 服は、屋敷から持ち出したワンピースと、ジャンが買ってきてくれた木綿の古着のワンピースを着回している。複雑な作りのドレスを着るわけではないので、一人で着替えるのに不自由はなかった。

 苦戦したのは髪の方で、一つに束ねてリボンで結ぶだけのことが案外難しく、編み込むことなどは早々に諦めた。住まいに鏡がないというのも苦戦した理由かもしれない。


 食事は基本的にジャンが作ってくれる。エリーズもジャンに教えて貰いながら少しずつ練習しているが、まだ一人では何も作れない。それに、エリーズ一人のときに火やナイフを使うのをジャンはひどく心配したし、エリーズ自身にもまだ不安がある。

 だからジャンが仕事に出る日の昼食は、前夜のスープの残りとパンで済ませている。ジャンはいつも申し訳なさそうにするが、元々食の細いエリーズはそれで十分だった。


 洗濯はジャンが休日にまとめてしてくれる。

 洗濯をするには長屋の共用の洗濯場に行かねばならず、長屋の人々に顔を曝すことになるからだ。

 さすがに下着だけはジャンに洗って貰うわけにはいかないので、日が落ちてからジャンに付き添って貰って自分で洗うようにしていた。


 ジャンに料理と洗濯を負担させる分、エリーズは積極的に掃除を担当している。屋敷の侍女達がしていたのを思い出しながら、固く絞った布で床や家具を拭くのだ。

 うまくできているか分からないが、ジャンが褒めてくれるのでエリーズは満足していた。


 不便があるとすれば、自由に外出できないことくらいだろうか。

 グラニエ伯爵家の追っ手から逃れるため、エリーズは人目につかないよう細心の注意を払って生活していた。

 まず一人では家から出ない。誰かが訪ねてきても居留守を使う。

 ごくまれにジャンと近所まで出かけるときには、古着を着て、ショールを頭から被って髪を隠した。ジャンが言うには、白金の髪は平民では極めて珍しく、エリーズの容姿はとても目立つのだそうだ。


 とは言え、実のところエリーズは、自由に外出できないことも、昼間一人で過ごすことも、ジャンが案じるほど苦痛に感じてはいなかった。

 元々、寝込んでばかりで外出することなど滅多になかったし、それに、屋敷の離れにいるときだって、エリーズは独りぼっちだったのだ。侍女達が必要最低限の世話をしに訪れる以外には、独りで黙々と本を読むか、刺繍をして過ごす。それがエリーズの毎日だった。


 むしろ、常に人の気配があるこの長屋にいる方が寂しさを感じずにいられた。

 表を走り回る子ども達の笑い声、洗濯場でお喋りに興じる主婦達の話し声。刺繍をしながらそれらの声に耳を傾ける。

 それによれば、越してきて二ヶ月になるのに滅多に姿を見せないエリーズの存在は、近所の人々の好奇心を大いに刺激しているようだった。

 子ども達は白い髪の女の幽霊だと断定していたし、主婦達は禁断の恋の末の駆け落ちに違いないと、鋭い推理を展開していた。




 白いハンカチの隅に刺していた、小さな赤い薔薇の刺繍が完成した。目の前にかざしてじっくりと見つめ、歪なところがないかを確認する。

 綺麗に畳んで籠に戻し、次のハンカチを手に取る。その隅にまた小さな赤い薔薇を刺繍していく。


 半月前からエリーズは、昼間一人で家にいる時間、刺繍の内職をして過ごしている。エリーズが強く希望し、ジャンが見つけてきてくれた仕事だ。

 幼い頃からエリーズは、部屋に引きこもってばかりいた。部屋で一人でできることと言ったら、読書を除けば刺繍くらいのものだったから、エリーズはかなりの時間を刺繍に費やしてきたのだ。


 昔――義姉が嫁いでくる前は、エリーズは家族のために刺繍していた。両親や兄の好みを考え、刺繍し、それをプレゼントすれば、褒め言葉と共に笑顔が返ってきた。それが嬉しくて、エリーズはまた刺繍に励んだ。自然と腕前は上がった。

 離れに移ってからも刺繍は続けた。けれど、笑顔で受け取ってくれる人はもういなかった。贈るあてのない刺繍を、エリーズは仕上げては解き、また刺した。刺繍はただ時間をやり過ごすためだけの、虚しい作業になった。


 だけど今は違う。

 自分の刺す刺繍が僅かでもお金に変わり、ジャンとの生活の足しになるかと思えば、自然と気合いが入った。


 エリーズにとっては、生まれて初めて自分の力で稼ぐお金。

 それを手にするのを、エリーズは心待ちにしていた。

 買おうと決めているものがある。

 白い木綿のハンカチだ。

 それに刺繍を刺して、ジャンに贈ろうと計画しているのだ。

 図案は、ジャンのイニシャルの「J」を花で意匠化したものを考えている。男性の持ち物に花を刺繍するのは一般的ではないだろうけど、花を愛するジャンにならば似合うはずだ。

 刺繍する花も決めている。

 スターチス。

 『変わらぬ心』を持つ花。

 ジャンのような花。

 思えばエリーズはジャンから与えられるばかりで、ジャンに何かを贈ったことはない。

 初めてのプレゼントを、ジャンはどんな顔で受け取ってくれるだろうか。

 想像しただけで、エリーズの心は弾み、温かいもので満たされる。


 口元に微笑を浮かべ、一針一針丁寧に刺す。

 このときエリーズは、確かに幸せだった。

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