第二条 第二項

 考えても埒が明かず、念のため、外に出られないか試したが、もちろん開かず、仕方なく元の部屋に戻ってきた。女子二人は向かい合って座り、どうやらチェスをしている。しょっちゅうやっているんだろうか。

 ハチは記憶力がいいらしいし、相手はあのへぼである。さぞひどい盤面になっているだろうと、気になって後ろから覗いてみると、想像以上だった。ハチの駒がほとんど残っていない。残っているキングが上手く逃げ回っているが、さすがに駒の数に差があり過ぎて、チェックメイトは時間の問題だろう。素人目にも分かる所謂、接待プレイ、というやつだ。下手の横好きさんは、うきうきと上機嫌である。

「ハチ、わざと負けてやっても、かえってためにならねーぞ。」

 いきなり名前を呼ばれたからか、図星だったからか、勢いよくこちらの顔を見上げる。対戦相手から野次が飛ぶ。

「余計な事は話しかけないでって言ったはずだけど。」

「そりゃ、お前は勝てりゃなんでもうれしいんだろう。けど、そもそもこんな分かりやすい手抜きに勝てても意味ねーだろうが。そんなのだから、俺にボロボロに負かされてるんじゃねーのか?」

 これは図星だったようで、ギロッと睨み返される。

「大体、ハチもなんでも覚えているなら、定跡だったか、みたいなやつを覚えてだな、勝ちにいきゃいいんだよ。というか、覚えなくても駒の動かし方が分かってたら、普通、こんな奴には負けようがねーぞ。」

「う…分からない…です。」

「は?」

「か…かち?まけ?…する遊び…なんでしょうか?」

「…お前、何考えてやってんだよ?」

「あの…ミュウちゃんが、喜ぶ、から。」

 さすがに、不憫である。ハチのここでの立場、筋金入りの奴隷根性を垣間見たような気がして、心がざわついた。それは自分の過去の経験からいうと、とても許す事ができない事だった。そのあたりをひっくり返して、チェスの本を手に取る。

「これ、ちゃんと読めよ。遊びだって、結局、勝とうと思わなきゃ面白くないんだよ。」

「あの…、」

「相手の機嫌をうかがうような遊び方があるかよ。言いなりでやるくらいなら、一人でやってろ、ってもんだろうが。自分でしっかりと考えてやらないと、勝負事の意義というか、一緒にやる意味がないんだって。」

「あの、私、…文字…読めない…です。」

「え?なんで?」

 予想外の事に困惑する。ハチは俺以上に困惑して、黙り込んでしまう。「ハチ、数字は分かるもんね。」というどうでもいいフォローは聞き流して、一つ決心する。

「じゃあ、俺が教えてやるよ。読み書きくらい。それで、チェスとかのルールもちゃんと覚えろ。」

「命令?」

「命令じゃなくて、いや、命令になっちまうのか、これ。じゃあ、とりあえず覚えてみませんかって、提案だ、これは。んで、つまらなかったら、やめちまえばいい。」

「ハチと私がどんな風に遊んでても勝手でしょ。いい加減に喋らないでくれる?」

「お前には聞いてないし、ハチが嫌だって言うなら、俺だってこれ以上なんにも言わないよ。なあ、ハチ、お前が決めろ。」

 どうだろうか?ハチは瞬きもせずに、ぴたりと動かなくなってしまった。何か、まずい事を言ってしまったのだろうか?まるで人形のように動かない。期待が心配にかわってきたあたりで、いきなり小さな声でブツブツと喋り始めた。早口で何か意味不明の単語、数字を暗唱している、と思う。ほぼ電子音に近いそれは数十秒続き、ピタっと止む。

「了解。…覚えたい…です。」

「こえぇよ、それ。そうしないと駄目なのか。」

「…はい。」

「まあ、いいや。じゃあ、…何から教えりゃいいんだ?」

 ともかく、不貞腐れている主人を尻目に、ざまぁみろと思いながら、ハチに読み書きを覚えさせ始めた。とは言っても、教え方など知らないし、まともな教材もない、意思疎通も取れないしで前途多難である。適当に本を見繕って、それを参考に指で書かせてみる。平仮名、カタカナの字体の違いとか、濁点や半濁点の位置がどうこうだの、俺自身もよく分からないような所でまごつくので、「そんなものは適当でいい」とアドバイスしながら、音を教えていく。漢字はお手上げだが、俺が思いつく限りでニュアンスを説明する。文体、アクセント、同音異義語、エトセトラも同様に。相変わらずの話し方もあって、質問の意図が汲めない事もままあるし、その都度納得させるのに手間取るが、さすがというか、基本的にすぐ覚えていく。別に俺でなくとも、誰かがちゃんと教えればもっと早く覚えただろう。要するに、今まで誰も教えなかった、という訳だ。やり取りしながら気付いたが、数字と記号、アルファベットは平気らしい。英語が話せるとはとても思えないけれども。あと、思ったよりは色々と考えている。むしろ明らかに考えすぎていて、俺の役割といえば、教えるというよりは、それを落ち着かせてやる事だった。

 そうやって四苦八苦しながら、何時間かかけて、『初めてのチェス』を読み終えた。一息つこうと思って、ハチに尋ねてみる。

「なあ、隣の部屋で少し休んでもいいか?」

 ここだと一人将棋をしている奴が、不機嫌そうに駒で音をたてているので落ち着かないのである。再び、ハチの案内で隣の部屋へ。食器などが片づけられていて、ひょっとしなくとも、監視されている。今更だが、気に留めないよう心掛ける。椅子に腰掛けると、ハチが申し訳なさそうに切り出した。

「あの…命令…で…伝言が、あります。」

「それ、ひょっとして、最初からずっとか?」

 忘れていた訳ではなく、ずっと言い出せないでいたらしい。伝言係としてどうかと思うが、心境は今となるとなんとなく想像がつく。誰からの伝言か、も。

「聞きたくねー。」

 ハチの動きがピタリと止まる。

「待て待て、分かったよ、聞けばいいんだろ、聞けば。」

 ハチはニッコリと笑う。背筋が、寒くなる。

「『君は説明されるのが嫌いなようだが、どうしても事情を理解してもらいたい。可能な限り端的に話そう。もう会っただろう、彼女が私の娘だ。名前はミュウ。彼女の体はカルマによって、名前をつけたものをなくす度に浸食されつつある。君には彼女にとって『大切な人』となって、その浸食を止めてもらいたい。浸食の程度は彼女がそれを重要に想っている程大きくなる。逆に言えば、他に重要視しているものがあれば、相対的に小さくなる事が分かっている。結婚は私の推す一つの方法だが、具体的な方法は君に任せよう。できるだけ、仲良くしてほしい。君には期待している。さて、この子の名前はハチという。彼女がつけた名前だ。その部屋には彼女が名前をつけたものしか入れないという規則があるんだ。ハチには観察、連絡が任されている。内気な子だが、邪見にはしないでくれ。君の味方になってくれるはずだ。以後、質問や要請があればこの子に伝えてくれればいい。以上だ。』」

「ハチ、伝えといてくれるか。」

「伝言をどうぞ。」

「…こんな胸くそ悪い事せずに、テメーが直接来い。」

 胸の中に兆した不安が、表面に出ると怒りのような感情になる。

「ハチ、お前は、命令されたから俺の言う事をきいてくれるんだよな。」

「え……優先…変更、はありました。」

 考えれば当然の事だ。けれど、今自分が苛ついているのは、心のどこかでハチが俺の考えに共感している事を期待していたのだ。そう思うと、途端に今度は惨めな気持ちがしてくる。俺が教えてあげたのではなく、命令されたので仕方なく教わってやったという訳だ。

「読み書き覚えたりするのはさ、やっぱり、面白くなかったか?」

「おもしろく?…分からない、です。」

「いや、正直言って、いい迷惑だったんじゃないのか。お前ら二人で仲良くしてれば、いちいちやる必要もない事だし。」

「そんな、こと、ないです。」

 ハチは微笑んだ。

「ミュウちゃんも、一生懸命、教えてくれました。」

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