餓狼Ⅲ

 この辺りの地域では必ず歴史の授業で習うマーシアの悪法。主に人権問題に対する警鐘として古今語り継がれているのだが、それにも元々は道理があった。

 医療大国、そのブランドを確立する以前、この国には多くの医家が存在した。高名な医家から、それこそ認可されていない医家、でたらめを振り撒くヤブまで、入り乱れ玉石混交といった有様であった。

 ネーデルクスの肥大化、技術革新により、富んだ土地との差がさらに広がったことで、国力競争への限界を感じ、マーシアは医療を国策として推していくと決めた。

 そのためにはまず、医療分野の整理が急務となったのだ。でたらめを振り撒くヤブはもちろん、レベルの高さを売りとするためにはレベルの低い民間療法すら駆逐する必要がある。そのためマーシアは玉の保護に全力を注いだ。

 認可された医家には補助金を出し、土地も融通する。薬の材料も優先して卸すよう商家を法で縛り、その時点で認可されていない医家は死んだも同然。

 認可された医家たちの技術を国策で統合、整理し、そのための学び舎まで設けた。ここまでは民間療法で食べていた者たちこそ犠牲になったが、医療の発展だけに着目するとかなり適切な政策であった、と後世の歴史家は判断する。

 だが、その後が良くなかった。

 医療大国マーシアと言うブランド化には成功したが、それで国を支えるためには知識、人材、全ての質が高く、だからこそ全てが高価でなければならない。技術の安売りをしては国家の運営が立ち行かなくなる。これは道理である。

 ただ一本の足で立とうとすれば、そうするしかない。

 そもそも国家の運営を一本の柱でしようと言うのが間違っているのだ。後世でマーシアが医療の発展には大きな貢献をしたが、国家としては端から間違えていた、と揶揄されるのはそれだけで生き抜こうとしたから、である。

 その歪みが、医療自体を高尚なものとし、下層民はもとより中流層にすら行き渡らなくなった原因、とされていた。

 そんな中生まれたのは世紀の悪法、下層民に対する医療行為を禁ずる、というものである。医家の診察代、薬の価格低下、などを抑制、ブランドイメージの向上、維持するという考え方に基づき生まれた法は、下層民をターゲットにしていた闇医家たちを完全無欠に一掃した。死んだも同然だった者たちが完全に殺され、その結果マーシアはクリーンなイメージを獲得したのだ。

 そう、これは元々の建前はともかく、ブランドを汚すまがい物を潰すための一手であった。当時の政治家は当然そのことを理解していた。次代くらいもそうであっただろう。だが、次第に時が経つにつれ、法に込められた意思は薄れ、文面だけが法の中に残ってしまった。それが長く続く悲劇の始まりである。

 下層民は医療行為を受けられない。受けさせることも出来ない。どれだけ善良な者でも、法に反する施しなど出来ないだろう。何処に誰の目があるかもわからない。医家たちも名門たる家を守ろうとルールを順守する。

 その結果、マーシアには医家側も、市民側も、下層民に対し医療行為を施すことが出来なくなってしまった。ルールが根付き、常識となってからは特に。


     ○


「……すまぬな」

「いえ。仕方ない、ので」

 奥方と同じ病にかかったリーリャは、しばらく隔離されていたが中々快方に向かわず、エスケリネン家は彼女を追い出すしか手が無くなってしまった。両親の時と同じ、家人と関係が良好であっても、こうなってしまえばどうしようもない。

 このまま病に侵された者を家に置けば、他の家人にも広がる恐れがある。だから両親は追い出されたし、妹もまた同じ道を辿ることになった。

 この国では当然のこと。むしろしばらく様子を見てくれていただけ、彼らは善良なのだ。今こうして顔を歪め、当主自らが申し訳なさそうに見送ってくれる。過分な対応である。本当にこの家は、温かかった。

「今まで世話になりました」

「……治ったら、当家に戻ってきなさい」

「ありがとう、ございます」

 咳をする妹を背に、ヴォルフは頭を下げる。泣きはらしたのだろう美人が台無しのニーカがずっと当主の背後で目を伏せていた。抗弁してくれたのかもしれない。診察は出来ずとも母親の薬を分けてやることなら、とか。

 そんな小さな親切すら、この国では御法度なのだから仕方がない。薬は貴重で、かかりつけの医家は使用量を把握しているもの。

 バレるとは限らないが、バレない保証も、無い。

 これが親切心の限界。そんなことはヴォルフが一番わかっている。両親が病に侵された時も、御屋敷の人たちは長年仕えていたこともあってか裏では良くしてくれた。エスケリネン家を紹介してくれたのも彼らであった。

 あの時、自分は反発したが、今はあの時よりも少し大人になった。彼らは充分善良で、出来る範囲のことをしてくれた。

 それでもどうしようもないのが、この国なのだと。

「ヴォルフ!」

 ニーカの呼びかけに、ヴォルフは何も答えずに去る。今、口を開きたくはない。開けばきっと、嫌なことを口走ってしまうから。

 国が悪い。ルールが悪い。彼らは悪くない。わかっているからこそ、ヴォルフは口をつぐむ。自分の感情を抑え込み、吐き出さぬために。

 それでも背中は、その無情に対する悲哀を、浮かべていた。


     ○


 咳が止まらない。熱も、治まったり、上がったり、そんな繰り返し。妹は見る見ると衰弱し、細くなっていった。ヴォルフが食料を調達して来て無理やりにでも食べさせようとするが、胃が受け付けないのか食べたそばから咳込み、吐いてしまう。ヴォルフは途方に暮れていた。食えば治る。寝れば治る。

 何処か、楽観していた部分はあったのだ。

「食べろよ! リンゴ好きだったろ? な?」

「……ごほ、ごほ、ごめん、なさい」

「……っ」

 ただ、幸いにもヴォルフはこの一年で定職、と呼ぶにはあれだったが、職を手に入れたことで金を得て、昨年の大寒波で空き家になったぼろ屋をタダ同然で入手し、自らの手で多少なりとも過ごしやすいようリフォームしていたのだ。

 そのおかげで家が無くなるという最悪の状況は避けられたが、妹が介抱に向かわないのであれば意味が無い。

 うな垂れるヴォルフは信じてもいない神に祈る。ネーデルクスが信仰する愛の神か、槍の神か、聖ローレンスの神か、土着の信仰か、詳しいことなど学のないヴォルフにはわからない。それでも祈る。とにかく、祈る。

 出来の悪い自分は良い。だから、とにかく妹を助けてください、と。

 しかし、状況に好転の兆しは――

「きゃあ!」

 少し離れたところで悲鳴が聞こえた。治安の悪いこの辺りでは珍しくもないことで、ヴォルフは微動だにしなかったが、

「……ごほ、お兄ちゃん」

「どした?」

「今の声、ニーカ、だった」

「……そんなわけないだろ。お嬢様がこんなところに来るわけ――」

「たすけて、あげて」

 半信半疑で妹の言葉に従い、外に飛び出すヴォルフ。声のした方に足を向けると、この区画には不釣り合いなほど、綺麗な服を着た少女と線の細い少年が一緒にあらくれ者たちに絡まれていた。それを見てヴォルフはげんなりとする。

「おい、そいつらは俺の客だぁ」

 彼女らを囲むあらくれ者どもの背に、ヴォルフが声をかける。

「ヴォルフ!」

 少女の反応を見て、一段のリーダーは顔をしかめた。

「……ちっ、ヴォルフかよ」

「手ェ出すなら容赦しねえぞ」

「……貴族の犬がよ。けっ、割に合わねえ。退こうぜ」

 彼らは嫌でも知っている。最近でこそ大人しくなったが、少し前までは狂犬として裏通りでは名の知れた男であった。群れる彼らにとっては目の上のたんこぶ、であると同時に一種の憧れもあったのだ。

 狂犬の個が持つ力に憧れ、だからこそ最近の狼に物足りなさを感じてもいた。彼らが怖れ、憧れたのは狼であり、ただの忠犬ではないのだから。

「こんなクソみたいなとこに、何しに来た?」

「ヴォルフ、あのね、私、どうしても納得出来なくて、それで、お医者さんを連れてきたの。リーリャは私の友達、だから!」

「……はぁ?」

 ヴォルフは眉をひそめる。医者が貧民を、奴隷を診てくれるわけがない。そういうものを全て根絶やしにしてきたから、今のマーシアがあるのだ。

「紹介しますね、彼が――」

「ユラン・キール。医者の、卵だ」

 ムスッとした少年はヴォルフを睨み、ヴォルフもまた癖で睨み返した。


     ○


「話と違う。僕は君の友達を診て欲しいと言われたから足を運んだんだ。それが、姓を名乗ることを許されていない層なんて……出来るわけない」

「嘘はついていません! 私のお友達です」

「法に反する! そもそも免状を貰っていない僕が一人で診察をすること自体、法に反する恐れもあるんだ。だけど僕は君の頼みだから――」

「ユラン!」

「許されないことなんだよ、ニーカ!」

 口論する二人を見て、ヴォルフはため息をつく。

「口喧嘩するなら出て行ってくれ。リーリャの体に毒だ」

「ご、ごめんなさい」

 苦しそうに目を瞑るリーリャを見て、ニーカは申し訳なさそうに俯く。

「つーか、別にお前らには何の期待もしてねえよ。俺らは違う生き物なんだろ。奴隷族ってやつだ。いつもそうだった。今回も、同じだ」

 ヴォルフの突き放すような一言にニーカはさらにうな垂れる。そんな気持ちはない。だけどこの国の法律はそうなっている。明確に区別を、差別をしている。

 そうではないと、胸を張って言えない。

 自分が貴族の生まれだから。

「お兄ちゃん、だめ、だよ。そんなつめたい、言い方」

「リーリャ、寝てろ」

「ニーカは、ともだち、なの。わたしの、そして、お兄ちゃん、の」

 咳込むリーリャ。それを見て顔を歪めるヴォルフ。そんな二人を見て、何も出来ない無力にうな垂れるしかない、ニーカ。

 そんな三人を見て、

「……診察じゃない。いいか、今から行うのは診察じゃなくて、ただの相談だ。僕は今、医者ではない。相談を受けるくらいは、許されるはずだ」

 ユランは、折れた。

「ユラン⁉」

 ユランの発言に、ニーカよりもヴォルフが驚愕した。希望なんて抱いていなかった。彼らに期待などしていなかった。

「初めまして、お嬢さん。身体の調子はどうかな?」

「ごほ、せきが、止まらなく、て」

「うん、そうだね。少し体を触らせてもらうけど、いいかい?」

「はい、おねがい、します。ありがとう、ござい、ます」

「……どういたしまして」

 ユランは慣れた手つきで触診をしていく。もうどう見ても診察でしかないのだが、彼は相談で押し通すつもりであった。まだ医者ではない。家を背負う医家ではない。だからこそ許される、グレーゾーン。

 いや、誰が見てもこれは真っ黒で、ユランのそれは詭弁でしかない。

 それでもやる。幼馴染のため。そして何よりも――

(熱発して、長期的に咳も止まらない、か。これは、たぶん――)

 ユランは腹部に軽く触れる。かすかにリーリャが顔を歪めるのを見て、さらに確信を深めた。ユランは顔に出そうになるのをこらえ、笑みを浮かべた。

「エスケリネンの奥方様から貰ったのだろうね。薬はなくとも体力次第で治る病だ。食事をとって、しっかり休めば、きっと治る」

「ありがとう、ごほ、ございま、す」

「お大事に」

 彼女の頭を撫で、ユランは背後の二人に視線を送る。話がある、と。

 それを見てヴォルフは、ふらりと倒れ込みそうになるほど、絶望してしまう。何故なら彼の、医者の卵の顔が、とても険しいものだったから。

 家を離れ、三人は外に出る。

「……今回の流行り病で一番重篤なケースだ。合併症、病によって体力が落ちた際にかかる、二次被害。おそらく、肺に炎症が出来ている」

「治るのか⁉」

「人によるとしか言えない。でも、死因としては多い。肺炎もおそらく何種かあると考えられているし、薬もてきめんに効くものは、ないんだ。どんな病気も、結局なその人の生命力に依存するケースがほとんどだ。薬は、その一助でしかないから」

「でも、効く薬はあるかも、しれないんだな?」

「……ああ。でも、君たちは――」

 ヴォルフは勢いよく頭を地面につけた。頭を下げ、這いつくばり、土下座をする。希望がある。目の前に、諦めていたけれど、もしかしたら――

 そう思うと、我慢できなくなった。

「何でもする! だから、薬をくれ! 死ぬまで働く。力はあるんだ。人よりも、ずっと。役に立つ。何でも言ってくれ。だから、頼む!」

 ヴォルフは地面に頭を擦りつける。

「……で、出来ない。薬の処方は、もう言い訳が出来ないんだ。何処も在庫は厳重に管理している。免状を貰っていない僕が、誰かの指示もなしに触れること自体、許されちゃいないんだ。それがこの国の、ルールだ!」

「頼む!」

 ユランは恥も外聞も捨て、土下座をするヴォルフを見て顔を歪める。今まで当たり前だと思ってきた。医療の価値を保持するためには必要なルールなのだと教わり、そこに疑いを抱いたことなどなかった。

 そうした層に、触れる機会もなかったから。

「ユラン、お願い。私の友達を、助けて」

「……僕に出来るのは、助言までだ。食欲が無くとも、出来るだけ飲食をさせること。咳が落ち着いた時に食べ物を細かく刻んで食べさせる。誤嚥は症状を悪化させる可能性があるから気を付けて。咳がひどい時も水に塩を入れて、少しでも水を補給した方が良い。砂糖や果物の果汁を入れるのも、効果的だ」

「ユラン!」

「……ありがとよ。試して、みるわ」

 ヴォルフは顔を伏せながらも、立ち上がる。グッと、色んなものを飲み込み、堪えた。だってそうだろう。この少年はルールを逸脱してでも妹を診てくれたのだ。あまつさえ助言までくれた。これ以上を望むのは、間違っている。

 この国では、それが当たり前なのだ。

「安全なところまで、送る。二人とも、ありがとな」

「……すまない」

「感謝こそすれ、謝られる筋合いは、ねーよ」

「すまない」

 ヴォルフは二人を送る。その間、会話は一度も、なかった。


     ○


 ヴォルフは懸命に妹の看病を続けた。出来る限りユランの助言通りのことをして、少しでも生きる可能性を高めようと努力した。

 だけど、

「ごほ、げほ、ごほ」

「大丈夫だ。兄ちゃんがついているからな。ずっと一緒だ」

 治る気配はない。咳が止まらず、とにかく色んなものを混ぜた水を飲ませるのが精一杯。それだって失われた民間療法の一つで、彼ら下層民の知恵からも失われた工夫であったから、簡易な助言でも大いに役立ったと言える。

 それに、

「リーリャ、来ましたよ」

「テメエ、またか。何しに来やがった! 移るかもしれねえだろうが!」

「私はリーリャに会いに来たのです。ヴォルフには関係ありません」

「んだと、このクソアマが」

「リンゴを持ってきました。他にも屋敷にあるものをいくつか」

「……ありがとう」

 毎日のように屋敷を抜け出し、ニーカが果物などを持ってきてくれたのだ。正直これにはヴォルフも大助かりであった。金が全部なくなったわけではないが、蓄えと呼べるほどの金はない。果物一つ、このマーシアでは安くないから。

「役に立てなくて、ごめんなさい」

「充分だよ。充分、過ぎるさ」

「そんなわけ、ないじゃないですか」

 痩せたリーリャを抱き、ニーカは涙を浮かべる。あんなに元気だったのに、生気を失った姿となってしまった。彼女は何も悪いことなどしていない。それでもかかるのが病で、それを治せないのが、医療大国マーシアの歪みである。

「……ぐがぁ」

「んもう、ヴォルフったら。お昼寝なんてのんきに」

「夜おそくに、わたしのせいで、おこしちゃってるから」

「そっか」

「ねえ、ごほ、ニーカ、おねがい、してもいい?」

「何でも言って」

「わたしはもう――だから――その――ダメ、かな?」

 息も絶え絶えに、それでもひねり出した小さな願い。ニーカは涙を浮かべながら友達を抱きしめ「任せて」と一言約束した。

 それを聞き、リーリャは満面の笑みを浮かべる。

 そして、ヴォルフもニーカもいない時を見計らい――

「……失礼する」

 こっそりと怪しげな風体の男が家に入り込み、リーリャの枕元に現れる。それを見てリーリャは相好を崩した。

 男は懐から粉末を取り出し、リーリャの口の中に水を用いて流し込む。

「ありがとう、ございます」

「……お大事に」

 そして名も告げずに、その場から去って行った。リーリャは思う。自分は何と恵まれているのだろう、と。こんなにも自分を心配してくれる兄がいて、友人がいて、お医者さんにまで診てもらえたのだ。

 幸運である。幸せ者である。

 それなのに――

「ごほ、げほ」

 一向に良くならない自分を恥じる。皆の善意に応えられない弱い身体を、恥じる。治って、またお屋敷に務める。今度は兄と一緒に、大好きな友達の下で。

 そんな夢が、

「あ、あああ、ああああ」

 届かないのだと、直感する。


     ○


 ある日、ヴォルフは女同士で話があると言われ、家主なのに家から追い出されてしまった。憤慨するヴォルフであったが、何か体に良さそうなものを買いに行こうと思い直し、その辺を散策していた。

 その道中、

「肺炎は苦労されると思いますが。お大事に」

「薬、感謝する」

 ヴォルフの耳が会話を捉えた。雑踏に消え入りそうな声量だったが、狼はそれを聞き漏らさない。ぎゅるりと視線を向け、衣服を着こんだ怪しげな男を見る。

 彼が持つ袋の中に薬がある。肺炎、ユランがこぼしていた病名である。あれが効くとは限らないが、あれが効かぬとも限らない。

 だからヴォルフは、

「おっさん、それくれよ。金ならやるぜ」

「……やれんな」

「まあそう言うよな。だから、まぁ、奪うぜ!」

 奪うことを選択した。杖をついた男など大人であっても敵ではない。誰の善意にも期待しない。だから、力ずくで奪う。

 それが元々の、狼の流儀であった。

「……好かん、眼だな」

 だが、ここから先は狼にとって未知の領域。速い動きではなかったのに、気付けば杖で突かれ、吹き飛んでいた。

「あ、が、なん、で」

「マーシアでは武にも会えぬか。まあ、そうしたのは、我が祖国なのだろうが」

「く、そが」

 大きくなった。子どもの頃は何度か不覚を取ったが、ここまで成長してからは負け知らず。自分は無敵なのだと勘違いしていた。

 自分は最強なのだと、考え違いをしていた。

「そいつを、寄越せェ!」

「……意気や良し」

 それでも諦められない。相手の方が強いとわかっても、このままやり合えば殺されかねないと思っても、それでも足掻く。

 目の前に希望がぶら下がっているから。

「これ以上やれば、死ぬぞ」

「薬を、寄越、せ」

「……何がために?」

「妹の、ため」

「……そうか。マーシアは、そうであった、な」

 男はフードの下で顔をしかめる。国策のことは正直わからない。自分を拾ってくれた男と共にこの国が医療を高めているのは事実である。しかし、同時にこうして取りこぼしもある。まあ、祖国であっても貧民層が薬の値段に手が届くかと言えば、とてもではないが届かぬだろうが。

「その意気に免じ、くれてやる」

 薬の入った袋を男はヴォルフに向かって投げつける。それを受け取ったヴォルフは目を白黒させていた。

「旦那! それはまずいです。奴らに薬を処方すれば――」

「処方されたものをどうしようが客の勝手だ。主人、金はもう一度払うゆえ、同じものを用意してくれ。色も付けよう」

「へ、へえ。そういう、ことなら」

 男は杖をつきながら、身を翻す。

「あ、ありがとう!」

「気にするな。属国であるこの国が富めぬのも、もとを糺せば我らのせいなのだから。謝るべきは、弱き槍でしかなかった、我らの方だ」

 そう言った後、男は立ち止まり、

「強さを求めるなら国を出よ。貴様の眼に、この辺りの国は馴染まぬ」

 国を出ろと言い残し、店の中に戻っていった。言われたことの意味は分からずとも、ボロボロになったが得たモノを見て、ヴォルフは微笑む。

 これがあれば何とかなるかもしれない。希望を携え、ヴォルフは家路につく。


     ○


 だけど、人生はそこまで都合よく出来ていない。

 希望を得てしまったからこそ、

「帰ったぞ、リーリャ! 薬を――」

「がほ、げぼ、ごぶ!」

 絶望は、より色濃くなる。

「……は?」

「ヴォルフ! リーリャが、急に咳が激しくなって、止まらなく、なって」

 妹が吐血しながら咳込んでいた。今までも何度か血を吐いたことはあったが、ここまで激しいのは初めてで、ヴォルフは目の前が真っ暗になりそうだった。

 どうすれば良いのかがわからない。

 どうしたら――

「リーリャ、兄ちゃんな、薬を手に入れてきたんだ。結構話の分かるおっさんでさ、タダでくれたんだぜ。これで治るんだ。兄ちゃん耳が良いからさ、ちゃんと聞いたんだ、これが肺炎の薬だって。飲めば治る。薬屋が言ってたんだ、間違いねえ」

「ごぼ、がは」

「ニーカ、水取ってくれ! これを飲ませりゃ――」

「うん!」

 水と共に薬を流し込もうとするが、

「ごほ、げほ」

「リーリャ!」

 気管が受け付けないのか、水ごと吐き出してしまう。どうすべきか、どうすれば救えるか、考えて考えて、何も出てこなくて――

「無理やりにでも突っ込めば――」

「やめろ!」

 力ずくで解決しようとしたヴォルフを、怪しげな服装をしたユランが、止める。

「咳をしている時に無理矢理飲ませようとしても悪化するだけだ。落ち着くまで、医者にも出来ることはない。今は、待つしかない!」

「……落ち着くって、これ」

 落ち着くのか、ヴォルフの問いかける視線を、ユランは視線をそらして答えた。この先は神のみぞ知る。何故変装したユランがここにいるのか、今のヴォルフはそんなことにも頭が回らなかった。

 激しく咳込み、そしてふと、何かが静止するように、咳が止まる。

 その顔色を見て、ユランは静かに目を伏せた。

「……おにい、ちゃん」

「お、落ち着いたのか。はは、さすが俺の妹だ。当たり前だぜ、この俺の妹だ。こんなとこで死ぬわけがねえ。今薬を飲ませてやるから――」

「手、にぎって」

「薬を飲んだらな。すぐに――」

「おねがい」

「……あ、ああ」

 出来た妹だった。昔からあまり人に、特に兄に向かってお願いなどほとんどしなかった。数少ないお願いも全部、紐解けば誰かの、兄のことを想ってで――

「さむいねえ」

「そうだな。今年は夏だってのに全然暑くならねえ。やっぱこの国はダメだ。治ったらさ、国を出て旅をしようぜ。金ならよ、多少はある。俺の腕っぷしがあればたぶん、何処でも食える。兄ちゃん頑張るからさ、遠くへ行こう」

「あったかいところが、いいなぁ」

「南の島だな! そこで一生懸命働いて、食い切れないほどのメシに囲まれて、それで毎日笑って暮らすんだ。南の島だから、寒さなんて無縁だぜ!」

「たのしそう」

「楽しいに決まってる。兄ちゃん頑張るから、だから――」

「でも、もう、がんばらなくても、いいよ」

「は? なに、言って――」

「わたしがいなくなれば、おにいちゃんは、お屋敷にもどれる。ニーカといっしょに、あたたかい場所で、くらせる、から。わたしは、いなくなった方が――」

「ふざけんな!」

 ヴォルフは妹を力いっぱい抱きしめる。一昔前はあんなに大きくなったな、なんて思っていたのに、今じゃこんなにも痩せて、細くて――

「俺は絶対に諦めねえからな! お前が自分を諦めても、俺がお前を諦めねえ。俺の妹が死ぬかよ! こんなとこで、死んでたまるかよ!」

 あんなにも悩まされた熱が、腕の中に無い。

 むしろ、どんどん冷たくなっていく。

「おにいちゃん、いたいよ」

「弱音を吐くからだ! 痛くされたくなきゃ、強気で笑え!」

「……いきたい」

「そりゃそうだ!」

「しにたく、ない」

「死なせねえ!」

「おにいちゃんと、いっしょが、いい」

「ずっと一緒だ! 絶対に、俺たち兄妹は離れねえ!」

「……おにいちゃ、ん――」

「なんだ、何言ってんのか聞こえねえぞ?」

 ヴォルフは抱きしめていた力を緩め、妹の顔を見る。そこには音無き言葉があった。口だけがかすかに動き、それが音となることはなかったが、その形は、

『お兄ちゃん、大好き』

 に見えた。

 そして、

「…………」

 最愛の妹は兄の腕の中で短き生涯を終えた。

「……助けて、くれ。何でも、する、から」

 ヴォルフの縋るような眼に、ユランは少女の手首に触れ、少女の眼を見つめ、顔を歪めながら首を振る。もう、死んでいる、と。

「あ、ああああ、ああああああああああああああッ!」

 狼は崩れ落ち、慟哭する。


     ○


 ヴォルフは一人、旅支度を済ませ家を出た。妹を失った狼にとってこの国はもう、いるべき場所ではなくなったのだ。何度も考えた。何度も何度も考えたけれど、やはり納得がいかない。世の中大勢が理不尽に亡くなっているのは知っている。自分も少し前に死にかけた。それが当たり前なのだと飲み込んできた。

 だけど、本当にそうなのだろうか。

 飢えて、凍えて、病んで、死ぬ。ただ腹一杯食べたかっただけ。温かい場所が欲しかっただけ。医者に診てもらって薬が欲しかっただけ。

 それは贅沢なのだろうか。望んではいけないことなのだろうか。

 悩んで悩んで、そして至った。

 そんな当たり前はクソだと、狼は結論付けた。

「見とけよリーリャ。兄ちゃん、負けないからよ」

 何と戦えば良いのかわからない。どうすれば変えられるのかもわからない。自分に出来ることと言えば、喧嘩ぐらいのもの。それで世界をどう変えられるのかなど想像もできないが、とりあえず自分が贅沢をして、周りも贅沢をさせて、そうしたら何かが変わるかもしれない、と狼は考えた。

 だからまずは――

「全部に、勝つ!」

 これから先の喧嘩、全部に勝って上り詰めてやる。馬鹿ほど贅沢をして、暖かい国に居を構えて、リーリャが見ていて楽しめるような光景を創る。

 そのために狼は、旅立つのだ。


     ○


 何も出来なかった少女は、色々と考えた。友達だと綺麗ごとを言っていた自分は、常に安全圏に居続けた。あの場で泣く資格なんてない。ルールを侵してでも付き合ってくれた幼馴染にすら劣る自分に嫌気がさした。

 自分が許せない。

 胸を張って彼女と友達だったと、親友だったと、言える自分が欲しい。

 エスケリネン家は国内で見れば豊かな土地を持ち、広大な畑を持っている。そのため色んな家から妬まれ、世代の近い友達はずっといなかった。リーリャが初めてだったのだ。主従を越えて、名前を呼んでくれたのは。

 世代の近しい同性の友達は、彼女が初めて。

 だから、彼女の親友だと、胸を張って言いたい。

 そのために彼女は、自らの長い髪を切った。

「……行ってきます」

 それに親友の気持ちを届けなければならない。あの日、伝わり切らなかった気持ちと、親友の想いを、彼に。

 少女もまた巣立つ。揺り籠の中から。


     ○


 少年は彼女の旅立ちを遠くから見つめていた。父から殴られた痕が、未だに疼く。言い訳としては不格好。自分の手で薬を調合して見たかったから、などと宣う息子を父は全力で殴打し、嘆いた。

 キール家の恥だ、と。

 だが、少年は思う。貴族も、下層民も、同じ人間であった。あの兄妹の末期を見て、それでもこのルールが正しいと自分は胸を張って言えるか、少年は首を振る。ルールには正しい側面がある。医療を守ることも大事だ。

 しかし、そもそも大原則として医家は、医療を守るのではなく命を守るために最善を尽くすべきなのではないかと、少年は考える。

 少女の最後に何も出来なかった己の未熟さ。貴族だろうが下層民だろうが、みんな必死で生きている。誰もが心を持ち、同じ人間なのだと、少年は知った。

 次は間違えない。間違えてなるものか。

 少年は初恋の少女を見送り、一つの覚悟を決めた。

 次同じ機会があれば迷うまい、と。そして今度は必ず救って見せる、と。

 そう、決めた。


     ○


「ヴォルフ」

「あん? って、おま、髪が⁉」

「……似合いません、か?」

「うん」

「……正直ですね」

 息を切らせながらヴォルフに追いつき、ニーカは彼を見つめる。

「私もついていきます」

「ハァ? んなもんありえねえだろ。お嬢様には無理だ。俺の旅はそりゃあすげえもんになるんだ。喧嘩しまくって天辺を取る旅だぜ。女には無理!」

「行きます!」

「絶対無理だ!」

「行くの!」

「無理!」

 口論は平行線。苦虫を噛み潰したような表情のヴォルフはニーカに問う。

「同情か?」

「いいえ。同情などしません。でも、納得も出来ません。私はあの国でなければ、母と同様にリーリャを救えたと思います。あの国は間違っている。それを示さねば、リーリャに、親友に、顔向けできません」

「しなくていい」

「私が、するのです! ヴォルフは関係ありません!」

「この、わからず屋が」

 本気かどうかは眼を見ればわかる。だからこそ、ヴォルフは顔を歪めているのだ。このお嬢様の無駄な骨太さを彼も理解していたから。

「俺はテメエを守らねえぞ」

「結構です。自分で強くなります。これでも剣の腕は達者だと褒められたこともありますから」

「本当かよ」

「五つの頃ですが」

「参考にならねえよ」

 説得は不可能。一応、エスケリネン家は恩のある家である。そこに対して砂をかけていくようなことは避けたかったのだが、彼女を放置していくのも見殺しにしたようで後味が悪い。仕方ない、とヴォルフはため息をつく。

「俺が死んだら国に帰れよ」

「死ぬんですか?」

「……死なねえけど」

「なら、帰りませんからね、私は」

「勝手にしろ」

 ヴォルフは折れた。折角の門出が台無しだと不貞腐れるが、その貌にはほんの少し笑みを浮かんでいた。それをちらりと見て、ニーカも微笑む。

「あと、これを渡そうと思って」

「何だ、これ」

「ロケットです。中を開けてみてください」

「……これ、は」

 ヴォルフの目が丸く見開かれる。金色のロケット、その中には小さな絵が描かれていたのだ。小さ過ぎて顔なんて潰れてほとんど見えないけれど、雰囲気は間違いなく元気だった頃の妹のそれで。

「あの日、リーリャが貯めていたお金で絵描きの人を呼んで、描いてもらったんです。私がお金を足せば、もっと大きな絵も描けると言ったのですが、小さい方が良い。お兄ちゃんが持ちやすい方が、一緒にいられるから、と」

「……んだよ、だから、追い出されたのか、俺」

「はい。ロケットに収めたのは私の判断です。この細工に時間がかかって、こんなタイミングになってしまいました。ごめんなさい」

「むしろ、良いだろ。はは、小せえけど、これはリーリャだ。なら、運んでやる。一緒に見ようぜ、天辺を。兄妹二人で旅をするんだ!」

「私もいますけど」

「ちっ、水差し女が。とりあえずしゃべり方変えろよ。たぶん、旅してる奴にそんなしゃべり方してる奴誰もいねえからな」

「……え、普通の話し方、では?」

「ないない。底辺には気取って見えるわ」

「そ、そんな」

 二人は、いや、三人はこれより彼らの想像をも超える長き旅に出る。その道筋は決して楽なものではなかったが、それでも彼らは一つの天を掴んだ。

 どん底から、辿り着いて見せたのである。

 これは黒き狼の始まり。餓えた狼は天を目指す。


     ○


「……見下ろしてんじゃねえ!」

 見上げる者全てに敵意を振りまく小さな狼。まだ何の力も持たぬであろう弱々しい身体から、何故こんなにも凄まじいプレッシャーが放たれているのか。ラロのそれとは違う、暴力的な気配。それは彼らが敬愛するあの男に似ていた。

 戦場を焼き尽くす太陽のような、熱。

「待って、ヴォルフ。すいません、ごめんなさい!」

すれ違っただけ。すぐに小さな彼らは人垣に飲まれ、二人の視界から消える。

「……ひゅー、あのガキすげえ眼してたぜ。この辺のガキかな? 今度見つけたら俺の部隊に誘ってみるかな。絶対鍛えたらものになるぜ、ああいうガキは」

「ああ、そうだな。私なら……殺しておくがな」

「何でだよ、可愛いもんじゃねえかあれぐらいの跳ねっ返りの方が」

 セルフィモは何も言わず、黒髪の少年が消え去った方を見つめていた。天に太陽は二つと存在しない。してはならない。

 マーシアから南下し、エスタードの王都に辿り着いた少年は彼らとすれ違う。今は体に見合わぬ野心、心ばかりが燃えている少年など彼らは恐れない。

 だが、少年が大きくなり、力を蓄えた時、果たしてどうなるかは――

 少年はズンズンと進み、目的地にたどり着く。ここが一番大きな酒場だと聞いた。大きな酒場には色んなものが集まる。情報も、そしてそれを携えた人も。

「ロジェ君、うおおおおおおん」

「な、泣くなよアスター。今生の別れじゃあるまいし」

「うおおおおおん」

「アスターの奴なんで泣いてんだ?」

「ロジェが傭兵やめてガリアスに行くんだと」

「へえ。それで。つーか、あの男にもそういう感情あったんだな。てっきり愛と正義以外何もねえのかと思ってたわ」

「確かに」

 ここは世界をまたにかける傭兵たちが集う場所でもあった。

 そこに、

「戦場に出たい! どこでもいい、俺を雇ってくれ! 力には自信がある!」

「ヴォルフ!」

 一匹の小さな狼が現れた。それを見て多くの傭兵たちは笑った。ゲラゲラと、ガキが来る場所じゃないと大笑い。

 だが、

「……今笑っている連中より、よっぽど伸びるだろ、あのガキは」

「うおおおん、確かに」

 ロジェは目を細める。アスターもまたぴたりと泣き止み、狼を品定めする。丁度いい機会だから自分のローレンシア騎士団に入れてあげようと思ったが――

「戦場に出たい、だと。ガキが、戦場の何を知る?」

 奥で昼間から泥酔する一人の男が立ち上がり、狼を睨みつける。

「知らねえから出るんだろうが! 酒臭ェ野郎だな。この距離でも匂うぞ」

「……嫌な眼だ。弱者がその眼を携えていることが、不愉快極まりない」

「あン? 因縁付けてんのかテメエ」

「そうだと言ったら?」

 睨み合う両者。それを見て笑っていた男が立ち上がり、

「まあまあ、ガキに対してムキになるなよ。ここは穏便に」

 泥酔した男を止めようとした。だが、

「黙れ」

 泥酔した男は止めようとした者の足元を払い、何の抵抗もさせず倒してしまう。その足払いを見て、この場全員の眼の色が変わった。

「名は?」

「聞いた方が名乗れよ」

「……ユーウェイン・オブ・レオンヴァーン」

 その名を聞き、幾人かが噴き出す。ロジェも、アスターも、その名に対し絶句した。戦場に生きる者ならば誰もが知っている。ガルニアの伝説、あの『烈日』の喉元にまで迫り、危うくエスタードを落としかけた騎士の侵略者たち。

 その中の一角、『獅子侯』の名であったのだ。

「俺はヴォルフだ。あんたは戦場を知ってんのか?」

 知らぬから、狼は臆せず睨み返す。その名を知った者たちは皆、我関せずの姿勢を取った。あんな怪物と関わり合いになるのは御免だと、全員の眼が言う。

「ああ。もちろん」

「なら、教えてくれよ。働くぜ、俺は」

「……何も知らぬ、ガキが。良いだろう、この私が教えてやる」

 酔いが醒めたとばかりに、殺気剥き出しの獅子が立つ。

「戦場を」

「上等だ!」

 これが狼と獅子の出会い。酒場の一角で、彼らは出会った。そしてこの先、獅子によって彼らは戦場を知る。酸いも甘いも、全てはここから。

 今この場より、世界を震撼させた最強の傭兵組織、『黒の傭兵団』が始まった。

 まだそれを世界は知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る