餓狼Ⅰ

 マーシアと言う国は基本的に寒い。冬は長く、夏は短い。餓死者と凍死者であれば後者の方が間違いなく多いだろう。雪解けと共に死体が出て来ることなどざらである。綺麗なのは光射す表通りぐらいで、裏通りに行けば飢えと寒さに苦しむ浮浪者などいくらでもいた。ただでさえ薄暗い国の、昏い場所。

 そこが狼の住処であった。

「テメエ⁉」

「死にさらせ!」

 相手の鼻っ柱をへし折る容赦ない拳。一撃で相手を昏倒させた少年は笑みを浮かべながら集団を挑発する。ヴォルフ少年は群れる連中が嫌いだった。弱いくせに群れて粋がる。そんな連中に現実を突きつけてやるのが大好きだった。

「ごくろーさん」

「ちく、しょう」

 最初に売ったのか、売られたのかも忘れたが、どんな喧嘩でも買うし、何となく気に食わなかったら売るような生活を続けていれば、当然敵はどんどん増えていく。四方八方敵だらけ、それでも少年はげらげら笑う。

 同世代になぞ負ける気がしなかった。

 いや――

「おう、テメエがヴォルフか。うちの弟を随分痛めつけ――」

「死ね」

「ぶふぉッ⁉」

 年上だろうが関係ない。腕っぷしなら誰にも負けない。戦うことを捨てたこの国で負ける気などさらさらなかった。勝てるもんなら勝ってみろ。

 喧嘩上等、これが小さな狼の日常であった。

 そんな狼にも守るべきものがあった。

 それは――

「お兄ちゃん、またけんかしたの?」

「おう、リーリャ。今日も全部勝ったぜ。負ける気がしねー」

「んもう」

 大きなお屋敷の中に住む妹、リーリャの存在であった。かつては別の屋敷で他の貴族の奴隷として両親も、その子である二人も働いていた。だが、両親が病にかかり親子揃って追い出され、両親はそのまま死去。何とか器量の良かった妹は今の御屋敷に雇われることが出来たが、元々素行の悪かった兄は引き取り手がいなかった。本人も最初から乗り気ではなく、今は日がな一日喧嘩を売り買いして相手から金品、食料を奪い取る喧嘩屋(自称)で生計を何とか立てていた。

 妹は当然良い顔をしていない。

「ねえ、お兄ちゃん。わたしね、ここのお嬢様のお付きになったの」

「ほーん」

「それで、お兄ちゃんも雇って欲しいってお願いしたんだけど」

「……いいって。俺は俺で生活出来てるから」

「けんかばっかりなのはダメだよ!」

「俺は最強だからいいの」

「でね、お嬢様がお兄ちゃんに会ってみたいって」

「だからいいって。俺がいるとお前まで変な目で見られるだろ? こうして柵越しに会えりゃあそれで良いよ。りんご食うか?」

「……いらない」

 ぶすっとした妹の顔を見て、ヴォルフはにんまりと笑う。笑った顔も好きだが、こうしてぶすっとした顔も可愛いのだと、妹馬鹿のヴォルフは思っていた。

「もうすぐ冬が来るんだよ!」

「大丈夫だって。去年も乗り越えたろ? 今年も余裕余裕」

「お兄ちゃん!」

 こうして柵越しにしか会えないが、それでもいいのだとヴォルフは思っていた。自分みたいな暴れん坊の近くにいると、余計な怪我をするかもしれない。そう考えたらこの柵は、自分と妹を隔てるモノであると同時に、妹を守るための堅牢な壁に見えてくるのだから、悪いばかりではないだろう。

「じゃ、またな」

「お兄ちゃんのあほたれー!」

「くく」

 これで良いのだ、とヴォルフは嗤う。最悪自分が死んでも、あの柵が、大きなお屋敷が彼女を守ってくれる。それならそれで、良い。

 狼はそう思っていた。


     ○


 その冬は、例年よりも遥かに厳しいものであった。何処ぞの誰かから毛皮を奪ったヴォルフは、路地の隅っこで覇をガチガチと鳴らしながら懸命に寒さに抗っていた。おそらく、自分に毛皮を奪われた相手は死んだだろう。そもそも毛皮があっても厳しいのだ。しかも、外は風が吹き荒び、火を起こすことも出来ない。

 こうして比較的、風の通り道ではない場所を確保するか、かまくらなどをこさえて風を防ぐか、そうでもしなければ三日と持たないだろう。

 これだけ工夫を重ねても、死ぬときは死ぬ。

「……何てことねえ。俺様がこんなとこで死ぬかよ! いつか絶対、クソほどデカい雨風なんてへっちゃらな屋敷で、暖炉でアホほどたき火して、たらふくごちそうを食べてやる! シチューとか、パンだって、カビの一つもないやつだ!」

 そんな想像をしながら、ヴォルフは必死に寒さをこらえていた。この場所を確保するのも楽ではなかった。最初の一週間ほどは、生存可能な領域の奪い合いであったのだ。食糧も、服も、全部を奪い合って、籠る。

 喧嘩屋を自称するヴォルフも、冬ともなれば休業状態。何せ、外を歩く者がいないのだ。喧嘩を吹っ掛けることも出来ない。

 そんな余裕など、無い。

「堅ェパンより、柔らかいのが、いい。酒とかも飲んでみてえ。塩漬け肉じゃなくて、新鮮なやつをかぶりつきてえ。いや、いい。あったかけりゃ、何でも――」

 昨日まで元気だったやつが凍って死ぬ。それがこの世界の日常。

「死なねえ。俺は、絶対に、死んで、たまる、か――」

 今日、自分の番が来ただけ。

 畜生、そう言って狼は、眼を瞑った。この吹雪である。明日、その眼が開くかの保証はない。いや、開かない可能性の方が大きいだろう。

「俺は!」

 それがこの国の現実。住居を持たぬ浮浪者に、この冬を乗り越える術はない。国も守ってはくれない。むしろ医療しか取り柄のないこの国では、溢れた貧民など積極的に間引きたいのが本音である。だから守らない。守る気がない。

 彼らもまたそんなものに期待は、していない。


     ○


 狼が目を覚ますと、そこには薄暗い国には似つかわしくないほど、光に溢れた世界があった。とうとう死んだか、と思う狼であったが――

「お兄ちゃん!」

 妹の声で現実に引き戻される。すぐさま起き上がろうとするも、いつも思う通りに動く身体がまともに機能してくれなかった。

「……何が、あった?」

「こんなに吹雪が続いた冬はなかったから。いくらお兄ちゃんでもたえられないと思って、さがして、見つかったら、ぜんぜん、動いてくれなくて」

「……悪い」

 本当に凍死の一歩手前だったのだろう。妹が探してくれなければ死んでいた。その事実にヴォルフは情けなくて、涙が出そうになった。

「でも、お前が俺を運ぶなんて、無理だろ? 雪もあるし」

「それは――」

 リーリャの背後で扉が開いたような音がした。

「お兄様、目が覚めました?」

「はい。お嬢様のおかげです。本当に、ありがとうございます」

「いいのよ。他ならぬリーリャの頼みですもの」

 綺麗な服を着たお嬢様。髪の色こそヴォルフ兄妹と同じ黒色だが、艶めきと言うか、さらさら感が違う。ヴォルフが前に家族で仕えていたお屋敷の人間よりも、おそらくいくらか高位の貴族なのだろう。

 まあ、屋敷の大きさである程度想像はしていたが。

「初めまして、リーリャのお兄様」

「……どうも。妹が、世話になって、ます」

「お名前はヴォルフさん、ですよね。リーリャから聞きました」

「……あん、あ、貴女は、誰、ですか?」

「私はニーカ、ニーカ・エスケリネンと申します」

「ヴォルフ、です」

「はい。よろしくお願い致しますね」

「は、はい」

 花のような嗅いだことのない匂いが、狼の鼻腔をくすぐる。

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