欧州回顧録「決着」

 勝利を得たのはこちらでした。


 透明人間がそれまでの闘志を完全に消しさったとき。

 ただこの刹那、この勝負への覚悟を決めたとき。


 彼は、精神も肉体も、あらゆる意味で消え去っていました。

 いくら心機をこらしても、捉えることはできなくなりました。


 このときばかりは、負けたか、と本気で思いました。


 ですが、その傾く均衡は、まったくの幸運によって破られました。


 雷が、私の全身をはっきりと見せてしまったのです。

 そして私の姿が見えたことで、新しい論理が彼の中に生まれてしまったのです。


 見えたぞ!


 きっと彼は心の中でそう叫んだことでしょう。

 見えないはずの姿が明星の如くに輝いているのですから。


 しかし、その事実は自らの姿も露わにしてしていました。

 完璧な戦士は、野生の動物に成り下がってしまいました。


 先ほどは透明人間と透明人間の立ち合いでした。

 それが今は、不透明人間と不透明人間の立ち合いにすり替わったのです。


 私の伸ばした右腕へと恐るべき速度で突っ込むのがわかります。

 ですがそれは彼にとって勝機ではなく、完全な油断でした。

 彼の見えない全身が大声で叫んでいます。


 見えたのだ!

 見えたからこちらのものだ!

 見えたから勝てるのだ!


 彼はその幻にしがみついていました。

 その強烈な獣の意識こそが、合気術の真価を発揮する条件でした。


 足音から距離とタイミングがわかり、雨滴から手の位置が読み取れました。


 意気揚々と組み伏せる勢いに乗じて、私は大きく身をひるがえして相手の両腕をとらえました。

 両手が彼の全身と一体になる感覚がありました。

 踏み出す方角を変え、全力を加えました。


 相手が何かを叫びました。

 それでも無我夢中で身についた技を繰り出します。

 壁の裂け目めがけて投げ飛ばしました。


 摩擦熱を皮膚に残して、肉体が離れていくのがわかります。

 巨体を投げつけた貨車の側壁は木っ端みじんに吹き飛びました。

 彼の体が完全に列車の外へ放り出されました。


 外は谷でした。

 坂道に彼の体が弾み、砂利をはじき飛ばしたようです。

 ごろん、ごろんと転がる姿が、へし折られていく枝の音でわかりました。

 その音は繰り返すたびに、少しずつ遠ざかっていきました。

 

 しばらくその場に立ち、じっと外を見つめました。


 雷がもう一度轟きました。

 真っ黒な雲の向こうから、誰かの声が聞こえたような気がしました。


『塩田が頑張ってるから、ちょっとだけ手を貸したんや』


 優しげなその声は、しかしすぐにまた雨の中へ消えてしまいます。


 私はしばらく壁の向こうへ残心をとっていましたが、それから床にどっと座り込み、大きく息をつきました。


 結局、私には光は見えていたのでしょうか?

 植芝先生は手を貸してくれたのでしょうか?

 それともすべて幻だったのでしょうか?


 誰も答えてはくれませんでした。

 蒼白であろう私の額から、雨水に混じった汗がとめどなく流れ続けておりました。

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