ハンス・ユンゲの手記(3)

 結局、狼の巣から離れた者は誰もいなかった。


 仕方がないことはわかっていた。東部戦線ではクルスクの戦いでスターリングラードに次ぐ大敗北を喫し、ハリコフが奪回された。前線に近いこの場所の人数を減らすわけにはいかなかったのだ。


 われらが総統アドルフ・ヒトラーの焦燥は手に取るように伝わってきた。掩蔽壕ブンカーの打ち合わせでも怒鳴り声が増えていた。

 

 我々は戦局とは無関係な透明人間の対策に、さらに力を入れ続けていた。


 幸いなのは、この本営が透明人間には割れているとはいえ、英軍にも赤軍にもまだ伝わっていないだろうという見積もりだった。ここは周囲を地雷原に囲まれており、出入り口の密閉により、透明人間は確実にこの基地の内部に閉じ込められているはずだ。それにあの鉄仮面ことシュミット大尉のたびたびの進言により、総統の護衛も倍増した。


 だが敵もこれに応じて作戦を変えてきた。彼らはその主な行動を暗殺ではなく、夜中に手榴弾を投げ込んできたり、夜間に窓へ投石をしかけてきたりなど、細かく様々なハラスメントをしかけることに切り替えてきた。厨房の食材を食い荒らしてから汚水をかけたり、便所の水を詰めたりなど、とにかくやり口が姑息なのだ。地味に苦しいのが洗濯に出した軍服と下着を泥だらけにされることだった。


 長期にわたって護衛の人数を取られ、総統の移動にも常に神経をすり減らすこととなる。下賤なやり口と言い捨てるのは簡単だが、見事な知略戦と認めるほうが正確だった。我々の疲労は目に見えぬ形で、刻々と蓄積させられていた。


 その晩、我々は壕のドアに張り付いていた。背後の会議室では総統が閣僚と軍議を続けていた。コーヒーを飲みながら小声で雑談を続け、眠気にあらがった。


「バドリオ政権は休戦交渉に入るそうだ」

「総統は知っているのか」

「当然だ」

「明日からイタリアは敵かもしれんな」


 いつかもしたような話題だったが、以前とは意味が違う。雑談にふけっているように見せかけているが、話し声は小さく、眼はそれぞれが担当する砂利へ向けている。油断しているという見せかけだ。


 現在、我々は3人で行動しており、何かあればすぐに8人が駆け付けられるようになっている。目立つように行動して相手を牽制するよりも、隙を見せて攻撃を仕掛けさせ、もみ合ったところで周囲から駆けつける作戦だった。


 地面は足跡が残り音が鳴るように水と砂利をまいてある。少しでもそこから音が聞こえたら、靴の踵を二度鳴らし、銃を抜くという取り決めだ。



 今のところあたりを見渡しても変化はなく、紙巻タバコの煙も動いてはいない。だが、いつ彼らが近づいてくるのかと考えると、自然にふるまうのは容易ではない。


「ユンゲ」


 同僚の一人がつぶやいた。私は目を向けて答えの代わりにした。


「夫人には本当に会っていないのか」

「何を言っている?」


「……すまない。失言だった」

「ふざけすぎだ」


 私は舌打ちを鳴らして視線を切り、同僚の言葉を脳裏から振り払った。親衛隊員とは思えない発言だ。思いつかないからと士気を下げてどうする。時と場合次第では殴りつけてやるところだ。


 私の配偶者、トラウデル・ユンゲは総統の秘書をしている。


 知り合ったのも付き合ったのもこの大本営で、7月までは機会があれば常に一緒にいたが、この極秘裏の任務に就いてから、私は書類上は最前線にいるということにしてあり、現在は彼女に会っていなかった。


 親衛隊に属している以上、党は、国は、一個人の上にある。遂行しなければならないのは、例の怪人を始末することだ。そのためであれば、自分の妻であっても欺く必要がある。


 同じ場所にいながら話すことも触れることもできない。それは事実だが、良いドイツ人でありたければ、それを悲しんではならない。耐えられなければ武装親衛隊ではない。そう頭の中で繰り返した。


 その時、果たして物音が響き、私たちは一斉に武器へ手をやった。今晩の怪異現象の始まりだ。


「現れたか」

「現れてはいないがな」


 ガシャン、と、まずは遠くで窓が割れる音が聞こえた。それからしばらく静寂が続く。近づいていないということか、それとも忍び足で来ているということか。


「落ち着け。どうせ裸だ。たいしたことはできん」


 私がつぶやいたが、気休めなのは全員にもわかっていた。刃物で斬り、銃で撃てば死ぬのは間違いないのだが、接触できた者は私以外にいないのだ。


「今日も子供のいたずらで終わりか……」


 同僚がつぶやいた。


 だが、今晩はいつもとは様子が違った。背後にいた兵士の一人が両手を首の前に出して奇妙なうめき声を出していた。


 遅れて喉から鮮血が噴き出した。そこであっと私は声を出した。宙に、何かがかすかな光を反射した。ガラスだ。ガラスで作ったナイフが同僚の喉を切り裂いたのだ。


 遅れて隣の男も泡をふき始めた。何かが首を絞めている。ピアノ線のような、透明な武器で絞殺を仕掛けてきている。武器を持参してきたのだ! わざわざ透明な素材を加工して!


 撒いた砂利へ目を走らせ、そして息をのんだ。端の部分だけが丁寧によけられている。どれだけの時間を使ったのか、奴らはゆっくりと時間をかけ、見えない武器を携えてここまでたどり着いたのだ。


「畜生が!!」


 私は拳銃を引き抜き、無色の怪人がいそうな場所へ打ち込んだ。弾丸は虚しく石の壁を破壊してめり込んだ。次の瞬間、私の背中に何者かの手がかかるのを感じた。


 間髪を入れずに前へ転がり、叫びながら銃を三方へ向けた。さっきまで話していた兵士が全員床へ倒れ、口から泡と血を噴いている。


「どこだ!」


 私は拳銃をホルスターに戻し、飛びのきながらそれまで座っていた屋外用の折り畳み椅子を振り回した。なんの手ごたえもなかった。騒ぎに気付いて、詰所から兵士たちが集まってきた。


「透明人間だ! 撃て!」


 親衛隊員たちは私の声に足を止めて小銃を構えて腰だめに撃とうとしたが、それよりも早く、次々に頭を柱にたたきつけられた。応援を先に狙われたのだ。見えざる襲撃者は倒れた兵士の銃を奪っていった。なめらかな曲線を描いて銃口が兵士の額へ定まり、次の瞬間には、彼らの脳天が赤く染まっていった。透明な彼らにとって、多数へ突進するのはいとも簡単なことなのだ。


「三人以上いるぞ」


 誰かがそう叫んだ。明らかにこれまでと違う大胆な接近戦だ。一人が色水を入れたバケツに手を伸したが、つかむ前にふわりと浮いて、逆にこちらへ目つぶしを食らわされた。私たちの準備が、相手にとっての準備になっていた。


 恐怖というのは不思議なもので、一人がそれを発すると全員に伝搬する。高度な教育を受けたはずの親衛隊でもそれは変わらなかった。一人が狂ったように小銃を振り回して発射した。別の一人が取り押さえようとする。そこで殺された兵士の腰から拳銃が浮き上がり、重なる二人の額が撃ち抜かれた。


 混乱に拍車がかかっていった。私たちの相手は、透明なだけの愚鈍な酔っ払いではない。熟練の兵士なのだ。


「落ち着け! 勘に頼るな! あたりがつくまで撃つな!」


 叫んだが、それが無理なのは自分でもわかっていた。


 予測の立てられない方角から頬に熱い感覚が走った。刃物で斬られた。耐えようとしたその瞬間、別の方角から椅子が飛んできた。私は鈍器を食らって無様に地面へ倒れた。


 起き上がる。


 目の前に私の血が浮いている。


 いや、その血がついた、透明な刃物が浮かんでいる。


 かわせない。


 恐怖と混乱に包まれる私の耳に、かすかな笑い声が聞こえた。


 目の前にいるであろう、見えざる敵の声だ。嘲笑している。私をあざ笑っている。殺せることを愉しんでいる。圧倒的に有利な立場から、易々と私の息の根を止められることを。


 腹の底から怒りが沸き上がった。恐怖も驚愕も体中から抜け落ち、狂奔が私の全身を駆り立てた。


「なめるな、下衆が!」


 ポケットに入っていたペンを声の方角へ投げつけた。不幸中の幸いか、それは空中を回転してから奇妙な角度で跳ね返った。


 私は相手の立ち位置を予測し、全身の力を込めて飛びついた。運よくガラスの刃物を握った腕をがっしり捕まえることができた。


 渾身の拳をたたきつけた。手に鈍い痺れが走ったが、私は殴る手を止めなかった。二発、三発。


 これで仕留められればとは思ったが、相手はひるまず、私の鼻っ柱に強烈な突きを返してきた。離すまいと力を込めたが、私の指から見えない腕が抜ける。目の前で光が反射した。ガラスの切っ先が私の目に突っ込んでくる。かわせない。


「トラウデル」


 断じて言うまいと思っていた名前が口をついた。私はナチス・ドイツの武装親衛隊だ。軍服に袖を通したら個人ではないのだ。そのはずが。


 死ぬというのはこういうことか。光る刃先の中に、その言葉が脳裏を走った。


 その交錯する私の思考を、タタッという軽快な足音が振り払った。


 はっと左へ目を向けた。ほぼ同時に、私へ向いた刃先もさっと逸れ、止まった。何者かの手が私の前に割込み、見えざる右腕を握りしめていた。

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