第8話 クレアの一族 後編

 今上アングル王、ノルマンディー公ことエティエンヌは、もともと家族に問題を抱えていた。が、その一方、幸運な男でもあった。

 彼は征服王の娘で、アンリ一世の姉にあたるアデラと、ブロワ伯エティエンヌ二世との間に、4番目の男児として生まれた。三人いた兄のうち長兄は生まれつき白痴であったと言われており、後に名目的な家督のみが与えられた。エティエンヌ二世が十字軍で横死した後は、アデラが頭角を現して伯領の実権を摂政として握り、壮健な次男ティボーがブロワ伯の実権を握るように育て上げ、下の子供たちにはそれぞれが自立できるように教育を施したという。ノルマンディー公の家督争いが落ち着いて弟のアンリ一世が実権を握るや、アデラはティボーに主家を継がせる傍ら、弟の宮廷に四男坊を奉公に出すことにした。

「アンリは兄弟の中で末っ子だったのにあそこまで名を馳せました。あなたがあの人の下で研鑽を励めば、やがては領土持ちの騎士として名を上げることができるやもしれません。しっかり励みなさい」

 すぐ上の三男は夭折、長男は知的に問題があり、次男はブロワ伯として実質を握る。通常の下級貴族の家系であれば是より下の兄弟は食い詰めるのが必定だが、彼は幸運にも征服王の孫であり、頭脳明晰な母親の血を受け継いでいるばかりか、アンリ一世の宮殿に伺候して騎士となることができた。やがてアンリ一世に直接騎士叙任の儀式を受けると、エティエンヌは王宮付き騎士として名を挙げ始める。アンリも血縁にあって公家を盛り立てる一翼として彼を重用したが、運拙く、なかなか実質的な領土を得させられなかった。憐れに思ったか、アンリ一世はブーローニュ伯の娘とエティエンヌの仲を取り持ち、二人はめでたく結婚を果たす。エティエンヌは嫁資として膨大な資産とブーローニュ伯領を得て、母の予言を現実のものとしたのである。

「ようやっと箔をつけてやることができたな、エティエンヌよ。どうだ、嬉しいか」

 ブーローニュ伯に成りおおせた甥にアンリ一世は酒席で問いかけたことがある。エティエンヌは顔を綻ばせながら答えた。

「母上に面目が立つというものです。欲を言えば、叔父上のように大領土のレックスとなってみたいものですが」

「ぬかしおるわ、余のように実力を以て一国の主となるにはまだまだ修業が足りぬぞよ」

 エティエンヌは阿諛追従が得意であった。この時は、アンリの偉業を持ち上げ、自分を話の種にすることで、アンリ一世が喜べばよいと思ったのである。

 その後ノルマンディー公家を白亜号の遭難と言う一大事が襲うが、史実によれば、エティエンヌはこの船に搭乗する予定があったという。もともと胃腸が弱く、また乗り込む人々が多数で精神的に疲労をきたすであろうことを厭い、彼はこの船でのアングル領行きを取りやめていた。結果、彼は悲劇を回避して生き永らえたのである。

「俺には運がある」

 エティエンヌはそう思ったであろう。相続予定の無い四男坊が、伯の令嬢と結婚して領土を得て、更に事故から逃れることができた。その上、今やアングル領とノルマンディー公領を継承する権利がある者は、従妹のマティルダのみである。後継者問題に奔走するアンリ一世を補佐しながら、日々、「ひょっとすると、俺に叔父上の地位を得る幸運が起こるやも知れぬ」との思いを募らせた。上辺では王の差配に恭謙を誓いながら、ウィンチェスター司教にまで昇進した弟のアンリと密かに通じ、万が一の事態を「夢見て」策を練った。そして、時は来た―アンリ一世が急死したのである。

「叔父上を真似て俺も立身するのだ。俺は運がいい」

 またしてもエティエンヌの強運が巡ってきたと言うべきであろう。アンリ一世の急病から死没まで、国内の大勢力が準備するには余りにも時が不足していた。事あるを予見していたエティエンヌのみが、玉座への階梯を最短距離で踏破できたのである。

 しかし、当然ではあるが、それは彼にとっても急ぎに急いだ猪突猛進の動きであり、余裕の無さは隠せなかった。更に言うと、運のみに頼り過ぎて、国内の有力者たちが一度はアンリ一世によって「マティルダを後継者とする」ことを誓わされた約定を覆しうる、彼自身を中心にした貴族間の紐帯を、必要十分に強固なものへと築き上げる時間を用意できなかった。エティエンヌは見落としていたのである。アンリ一世がギヨム二世の狩猟中の事故死に至るまで、周到に国内の反ギヨム派に根回しをしていたこと、更にはギヨム二世が恣意的に領内の不和を招き、反感を買っていたことを。アンリ一世はアングル王位を奪う為の人の和と、天の時とを得ていた。更にいえば、競争者と言うべき兄ノルマンディー公ロベールが十字軍で遠く聖地に不在の間、アングル領に滞在すると言う、地の利まで得ていたのである。

 それはかつてアンリ一世が直接口にしたがごとき、甥御の実力の欠如であった。十分な根回しができない以上、エティエンヌは数少ない友人らを頼り、今は確実ではない未来の報奨を担保に、言い方を変えれば味方を増やすしかない。ボーモン家の双生児ワルランとロベールを即座に懐柔して後の栄達を約束すると、すぐさま領内の統合に並べて自らの登極の正当化を始めた。ところが、大陸側の貴族は表面的には祝賀を表明してくれるものの、さて実際に新王の下に参内するかという段になると、二の足を踏んでしまう。何となれば、一時はエティエンヌの兄ブロワ伯ティボーを担いで次代の王にするべきか逡巡していた程度の決断力、或いは興味しかないのである。更に、アンリ一世の庶子達は一度誓った制約を違えることに躊躇した。その筆頭格グロスター伯ロベールは、早々にマティルダと連絡を取り、今やアンリ一世の直系として一縷の望みとなったアンリを盛り立てるべく暗躍を始めたのである。その気になれば彼の祖父―征服王のように妾腹出の身から英雄になることも可能であった彼は、識見と冷静さで従兄弟に勝った。また、ティボー自身は、調子のよい弟が大金を送ってきたことと、ブロワ伯領の安堵を天秤にかけ、危険な競争に敢えて投機的に身を投じることを避けた。

 一方でエティエンヌは外敵に見くびられてもいた。スコット王ダヴィッド一世が先ず動いた。アンリ一世と言う蓋世の英雄が没したことで、それまで抑えていた領土欲を刺激されたのであろう。1136年初頭、彼はアングル領境界を侵犯し、かねてより自国領として主張していたカンバーランド地方に該当するカーライルとニューカッスルを略奪した。更に彼は、自らの妻が隣接地ノーサンブリア伯ワルシオフの娘であったことから、強欲にもその領土にも継承権を主張し、魔手を伸ばそうとしたのである。ダヴィッド一世もまた、先代スコット王の家では一番末の息子で、並み居る競争相手を追い抜いて王位を勝ち取った一代の梟雄であったのである。

 新王となったエティエンヌにとっては初めての外患への対処となった。急いで軍を招集して北上すると、アングル領北部ダラムで両者は対峙する。そして―ダヴィッド王が自らの非を認め戦よりも和議を求めると、それに応じてしまったのであった。付け加えると、ダヴィッドが他の領土は返上してもこれだけはと譲らなかったカーライルをスコット王の支配下にしても良いと認めてしまうという体たらくであった。

 これはエティエンヌにとっては騎士道、なかんずくアングル王として相手が譲歩したために見せた余裕のつもりであったが、臣下らには示しがつかなくなった。特に、奪われた領土の回復を求める者どもの落胆は酷かった。その代表が、第四代チェスター伯ラヌルフ・ドゥ・ジェルノンである。彼は第二代チェスター伯リシャール・ダヴランシュの従兄弟で、三代目として伯位を継承したラヌルフ・ドゥ・メシンの嫡子であった。父が実力で支配したカンバーランドをむざむざスコット王の手に取引とはいえ渡してしまった新王に彼は怒り心頭となり、王の側近を辞して出奔してしまったのである。貴族にとっての富の源泉である土地を非道にもスコット王に奪われ、更にアングル王にも裏切られた彼を擁護する声は、大きくはないが、予想以上に多く、静かに広まっていった。

「何のために兵を募って北限まで進軍してきたのか。無礼なスコット王を懲らしめて奪われた領土を取り戻すためではなかったのか」

「カーライルは守りの要であった。これを譲歩してしまっては今後のアングル領防衛に支障をきたすぞ」

 臣下は腹立ちまぎれにエティエンヌの不相応な寛大さを罵ったが、それで二人の王が行いを改めることは勿論なく、以後カーライルはダヴィッド一世とエティエンヌが他界するまでスコット王の領土となった。

 疑心暗鬼と動揺が、アングル領の貴族、特に辺境の支配者らに広がった。あのように外敵に屈してしまうようでは、今後エティエンヌを王とする上で懸念材料になりはしないか。何より、最初の王位継承こそ迅速であったが、国外の敵に対して睨みを利かせるに遅すぎはしないか。いずれ我らの領土が外敵から攻められたときに、報復もなく一部をくれてやるとまた言うのではないか、それが自分の領土ではないと誰が言えるのか…。

 この不安が内憂に直結するには、歴史が証明する通り、数年とかからなかったのであった。


「先のスコット王とのダラム協約、あれはまずかった。あのような場所で鷹揚さは不要であった。スコット王の戦力など、アングルの兵力を工夫すれば歯牙にもかからぬ。エティエンヌ殿は一気呵成に攻め、多少の犠牲を払ってでも北限一帯を回復するべきであったのだ。彼が犠牲を払えばその行いに報いようと北部の人々も忠誠を篤くする。それがあの結末では、誰もが王としての威信を疑うであろう」

 リシャールの批評は鋭く、要点を得ている。クレア家の一同は俄かに二の句を告げぬ。新王の寛大さは、どううまく繕っても、「成り上がり貴族の世間知の無さ」が滲み出ており、容易に武人たちが受け入れられるものではなかった。

「確かに名誉を重んじ、不要な戦を避けたという美点はあろうが、北部の貴族らの気持ちを思えば、やはり残念な行動ではあるな」

 顎に手を当ててやや重い口を開いたのは、リシャールの弟ボードゥワンである。声が太く、戦で役に立つ型の騎士で、本人もそれを自覚しており、ややリシャールのような物の見方を取ることが難しい男であった。

 と、会合の中でひと際白髪が目立つ老貴族が、ワインでしなびた舌を楽しませつつ、ゆっくりと語りだす。ワルトゥーの兄でロンドンに領土を持ち、アングル王家の家令を長年務めるロベール翁であった。

「毒を食らわば皿まで、という箴言があると聞く。エティエンヌ殿は先代殿の威光と業績を仰ぎ見るばかりで、これから自ら行おうとする理想や道程が定まっておらぬ。王になることばかりに目が眩んで、王になった後のことには思いが至っておらぬ。形はどうあれ、アンリ一世との約束を詐術で違えたことは間違いないのであるから、それを自覚して、いまさら正義を気取ろうなどと思うべきではないのだ。悪なら悪らしく、シシリーを奪ったロベール・ドートヴィルのように、最後まで狡猾に立ち回るべきなのだが」

 ロベール・ドートヴィルとは、征服王に先立つこと1059年、一介の傭兵隊長からイタリアのカラブリア・アプリア・シシリー公に昇りつめたノルマンディーの戦士の名である。彼は戦に勝つために様々な裏切りと悪辣な策略、軍事的な暴挙を重ねたが、結果的に分裂状態だったイタリア半島南部とシチリアを纏め上げ、その子孫は1130年に教皇から王の称号を下賜されたのであった。彼は寒村の貧乏貴族の出であったから、王家の血を引くエティエンヌと比べるにはいささか土俵が違うとも思えるが、苦境を潜り抜ける決然とした意志と、敵を欺き上げ足を取ってでも勝ちに行く粘り強い狡猾さは、今のエティエンヌに欠落していると思われる指導者の資質に違いなさそうであった。

「ロベール翁の仰る通りです。だからこそ、玉座に近く王を補佐する藩屏たる我らは、エティエンヌ王を支え、その政道を真っ当な方向に導き、真に臣下を満足させる行動をお伝えすべきでありましょうし、有事有れば兵を以て反対する者どもをねじ伏せる必要があるのです。このような時にワリアごとき辺境の動静に精力を割いては、今後の家門と王家の関係を続かせる好機を失いましょう」

 次期当主は朗々とのたまわった。ワルトゥーは苦々し気にそれを聞いている。隣に座るジルベールに向き、首を振ってみせる。

「一家の次期当主殿はさすがに見識がお高い。領地経営の最前線で蛮族と戦い、領土の防衛と貢税の安定も担っている辺境の治安は瑣末なことだとよ」

 次期当主はその声に些か紅潮して、料理の鹿肉を口に運んだ。そっぽを向いて肉を食み、葡萄酒でそれを飲み下す。右手の人差し指をこめかみに充てていた当主が、再び言葉を注いだ。

「4月には復活祭がある。そこでエティエンヌ王は初めてアングル領の臣下らを集め、御前会議を開くことになっている。我々には今のところ現王を支え、クレア家自体の存続とより一層の王権への寄与を深めるための行動を取るしかない。御前会議では憲章が起草されるが、そこに我々が正当な権威を持つことが記されれば、それを根拠に今後の自由が利くようになる。まずはその為の根回しと、権限の拡大に努めるべきだ。ワルトゥー殿のお気持ちと勇気には敬意を表すが、4月まで表立ったワリアへの進軍は控えよう。最小限の防備で、しかし領地の失陥なきようにお願いする」

 両者の意見を踏まえた、それは結論であった。ノルマンディー公にしてアングル王の宮廷、その政治中枢にかかわり続けるなら、遠くアンジューの地でアングル領に影響を与えようとする孫アンリの勢力よりは、エティエンヌの方が近い。ゲルマン言葉しか話せないマティルダよりはエティエンヌの方が意思は疎通できるであろう。エティエンヌに取り入って権力を強化すれば、領地経営に割く時間と費用にも余剰が生まれる。様々な未来予測から、今はエティエンヌの立場を強化していくしかないのだった。一同は嘆息や頷きと共に、もう一杯ワインを飲み進めたのであった。


「ジルベールよ、すぐ辺境領に戻る準備をするぞ」

 クレア城の酒席を辞したワルトゥーは、並んで馬を歩かせる甥に、溜息交じりに吐き出した。それほど酒に強くはない叔父が、今日は少し自分の酒量を超えてしまったようである。

「急ぎますか、叔父上。何やら気になることでも」

 ジルベールの問いに、ワルトゥーは首を振る。

「今回のゴワーの敗北だがな、あれは今までのワリア人の戦い方とはちと違う。事の顛末を聞くに、十分に組織立っており、戦術も洗練されている。おそらくワリア側の指導者によほど厄介な奴が現れたとみるべきだろうよ」

「厄介…確かに、巧緻な野伏戦術を用いたとは聞いております」

 ワルトゥーは酒気の強い呼気で一つ咳ばらいをすると、顎を左手で撫でまわした。

「それもそうだが、ワーウィック伯とて馬鹿ではない。その戦術に引っかかるだけの理由があったはずだ。策を講じれば、実施には手間がいる。その手間暇をかける頭と余裕のある奴がワリア側にいるということだ」

 確かに、叔父の言うことは正しそうだった。数百人に上るこちら側の死者の数が、今までのワリア人との戦でもなかなかない被害であることを裏付けている。完全に虚を衝かれて戦闘で後手を取ったのでない限り、その数字は出て来ようもない。何やら嫌な予感は、彼ら二人の仲に、見えざる黒い渦となって波紋を広げていた。

「或いは、今後何やら途轍もない災厄が辺境領に起きるかもしれぬ。せっかくここまで築いてきた領地と資産だ。ご当主はあのように仰ってはいたが、我らが自領の防衛に専念することを止めたわけではなし、本家がケレディギオンなどの防衛強化に着手するのは四月以降と言う意味で捉えて良かろう。ワリアに奪われる前に、能う限りの準備をしたいものよ」

 もともとワリア人の王国を滅ぼして領地を得た人物の言葉であるから、厚顔もいいところである。しかし、ジルベールはそれを批判する気はない。奪われたほうが悪い、とすら覚えている。この時代、無力であることは罪であり、救済は神に祈るだけではなく、自らで行わねばならないのだから。

 こうして、クレア家の二月の会合は終わった。復活祭の御前会議まで、彼らは各々の持ち場で職務に精励することになるが、事態は彼らが思うよりもかなり速い速度で悪化しようとしていた。しかも、その速度は、彼らの敵ワリア人の手で速められていたのである。


 

 

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