彼女は読書が好きなんですが……

「そろそろ、私の家に来る?」

 通学カバンを肩にたずさえた亜里沙の一言に、僕は得体の知れないドキドキを覚えた。僕たちは教室前の廊下で真正面から向き合っていた。亜里沙澄んだ二つの瞳に、僕が映っている。今にも桃源郷に連れていってもらえそう。

「本当にいいの? 家、どこなの?」


 僕は喜びと緊張が混じった気分で亜里沙に聞き返した。

「この学校から500メートルぐらい離れたところ。近くに花屋さんがあるの」

「知ってる!」

「あなたも近くに住んでいるんだ」

 亜里沙は嬉しい喜びを表した。


「じゃあ二人で読書会でもしよう。私、読書が好きだから」

 確かに彼女は前から、休み時間はC組の教室の角っこで本を読んでいる姿があった。でも表紙は本屋でこしらえてもらったような茶色いカバーに隠れて分からなかった。それが僕の想像力をくすぐっていた。


 ハーレムもののライトノベルを読んで、女子の気持ちになっているのか。10代でも読みやすい政治の本を読んで、社会情勢を学んでいるのか。はたまた夏目漱石が書いたような純文学をピュアな気持ちで楽しんでいるのか……。


「京くん?」

 亜里沙が僕の前でてのひらをワイプさせ、現実に引き戻した。

「ああ、ごめんごめん、また考えごとをしちゃってた」

 僕はいつもの調子で平謝りする。


「もう、付き合って3ヶ月なのに、そのクセったら治らないんだから」

 亜里沙はほんのちょっとだけムッとした顔を見せた。どこかおどけているような表情が、清純な可愛さの新たな一面を引き出している。

 そう、亜里沙は少なくとも、C組の中で僕がいちばんかわいいと思った人。ポニーテールの両端からわずかな前髪がこぼれ、バランスの取れた目鼻立ちが織り成すビジュアルは、中学時代までにはなかった透き通るような愛おしさを思わせた。


 彼女に意を決して告白してから3カ月、僕が高校デビューに成功したあとの学園生活も順調に進行中だ。


「そうだ、亜里沙、読書が好きだって言ったよね」

「うん」

 僕はカバンを廊下に置き、中から一冊の本を取り出した。

「図書館で借りた『新訳 ハムレット』。僕、俳優志望で、憧れの役者がミュージカル『ハムレット』で主演するから、予習にと思って」


「ああ、『ハムレット』!」

 亜里沙が目をらんらんと輝かせながら、『ハムレット』の表紙を食い入るように見つめた。

「私も好きなんだ、その手のストーリー」

「本当!?」

 趣味が合ったようで、僕の中で緊張感が吹っ切れ、肩の力が抜けた。


「それじゃあ、その本一緒に読む?」

「いいの?」

「私、年間300冊ぐらい読むから、部屋の中書斎みたいな感じになってるの」

 年間300冊ということは、毎日読書をしているのか。本のレパートリーも相当だ。一体どんな本が見れるのか、僕は急に知りたくなった。


「あらためて、私の部屋にくる?」

「うん、行く」

 僕は二つ返事で了承した。

「それじゃあ、ついておいで」


 僕は何も言わず亜里沙についていった。学校を出て、ひたすら彼女の背中から視線を離さずに、同じ轍を踏み続けた。目の前にいるのは公認の彼女だから僕は決してストーカーではない。帰り道では周囲の目がふと気になったので、そう言い聞かせ続けた。同時に、亜里沙の家までの距離が近づくことを、心の底から湧き出たドキドキで実感した。


 亜里沙が住んでいたのは、立派な一軒家だった。周囲の景色からは全く浮いていない、どこにでもあるような家だった。

 亜里沙が慣れた手つきで玄関の鍵を開けた。

「さあ、入っておいで」

「お邪魔します」

 亜里沙に導かれるように、僕は玄関で靴を脱ぎ、申し訳程度にすみっこで揃えた。


「ここの2階が私の部屋なの」

 亜里沙はそう告げると、先に階段を上がっていく。置いていかれたくない一心で僕もついていった。

 階段は右に曲がりながら終わる。そこから続く廊下のはじめの部分で、奥に扉があった。きっとそこでは多数の方で織り成した桃源郷が広がるんだ。


「入っていいよ」

 亜里沙が扉を開き、僕が先に入った。しかし真っ暗で何も見えない。戸惑っているうちに、電気のスイッチを押す音が鳴り、天井から真っ赤な灯りが部屋中を照らす。


 確かに部屋の中はそこかしこに本があった。壁一面に大きな書斎が三つ並び、反対側の勉強机の隣、机の上の小さな棚にも二段にわたりギッシリと本が詰まっている。

 しかし僕は、多数の本が織り成すひとつの雰囲気が、不気味に感じて仕方がなかった。


 何よりも部屋の壁のほとんどは黒いカーテンで覆われ、光も何もあったものじゃなかった。


 書斎に目を向けると、中段半ばにある一冊のタイトルが飛び込んできた。

「『完全自殺マニュアル』?」

 僕は物騒なタイトルを思わずつぶやいてしまい、目を背けた。しかし、別の気味が悪い題が視界に入ってしまう。


「『殺人犯はそこにいる』」

 また目を背けても、今度は、また目を移せば『殺すテクニック』『人殺しの息子と呼ばれて』『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』など、何かと命を奪うことが関わったキーワードが次々と目に入ってしまう。


「ねえ」

 亜里沙の無垢な声が、入口で聞こえた。僕はそこを振り向くと、彼女は僕に歩み寄る。

「どう? 何でこんなに人は人を殺しちゃうのか、不思議で仕方ないのよね~」


 亜里沙の清純な見た目の可愛さの奥に、妖しい狂気を感じた。

「ねえ、ここにあるのって、殺人事件をネタにしたミステリーとかだよね?」

「違う。全部ノンフィクション」




「ごめんなさ~い!」

 僕は地獄のような部屋から一目散に駆け出し、靴もはかずに家そのものを飛び出した。

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