第2章「ひねくれアイザック」


 アイザックは、いつもどうり朝の6時頃に目を覚ました。そしていつもどうり髪にブラシをかけ、ぶら下げてあった仕事着に着替え、洗面を済ませてからお茶の支度の出来ているテーブルに向かうまでの時間、自室から見える外の景色に、ぼんやりと目を合わせた。外は明け方の日が強く差して、濃い湿り気を含んだ影がさしていた。季節はもうほとんど夏だった。今年は5月から夏らしい天気が続いていて、日照りに近かった。アイザックは、いつもどうり「ああ、今日も晴れる。いい天気だ。」と思った。なぜならかれは、いつもどうりなんて大嫌いなのに、それでもそう言うのが好きだからだ。

 ふと思い当たって、かれは本やノート類が無造作に突っ込んである棚へと向かうと、いちばんうえに積んであった本を手に取った。ぱらぱらと興味もなく文字を拾っていると、とつぜんある言葉が目に飛び込んできた。そこにはこう書かれていた。


「……たとえようもない話をするとき、ひとは言葉を選びがちだが、そのようなときほど自分の言葉に忠実に従うことが肝要で、そのとき口のはしから上った言葉こそ、そのときの真実を最も言い表している。しかしながらそれを行っている本人としては、一体自分が何を言っているのかということは、そのとき本当にはわからないだろう。」


 アイザックはきれいな口のカーブをつくって、笑みのようなものを浮かべた。つまり、とアイザックは思った。これを書いているあなた自身でさえも、自分が今言っていることが一体なんなのかということは、ほんとうにはわからないわけだ。かれは役者のように片っぽの眉を上げると、本をぱたんと閉じて、棚の上にほおった。

 さて、とかれは体をぐんと上にのばして、昨日の自分とは違う今日の自分についてを、これからはじめることを思った。それがかれの朝の習慣であり、ときおり忘れたい習慣でもあった。アイザックにとって死とは、眠りにつくこととなんら違いはなく、短い時間も長い時間もどちらもかれにとっては同じことだった。つまり、短かろうが長かろうが、時間から得られることというのはほんのわずかで、そのわずかなものをかれは大事にしていた。そして、あしたの時間はありません、と言われても、かれには望んで得たいものなど何一つないので、べつに困りはしないわけだった。

 アイザックは変わり者とみなされていたが、周りの人間はだれもが本当はかれになりたがっていた。なぜなら彼は何も気にしないし、何もあてにしないし、自分のことにさえ無頓着に見えた。いつか年老いれば、だれでもある程度はそうなる、そう思ってひとは生き続ける。でも違うのだ。年を取ろうがとるまいが、そのひとの本質というのはそう変わりはしない。そのことにひとはやがて気が付く。まわりをみれば、そんなふうに時間を過ごしていったものたちばかりだ。だから憧れる。風のように生きるひとたちに。そんなふうになりたいと、そんなふうに装ってもみる。だってそれが出来たら、この退屈と人の都合のうえに生きている愚痴だらけの人生におさらばできる、そうひとが考えても不思議ではなかった。でもそう思うひとは、アイザックが本当は何を思っているかを知らないからそう思う。かれが本当に思っているのは、自分はいったいなぜこんなことをしているのかという、ただそれだけだったのだから。



 からりと晴れ上がった夏のような天気の日がしばらく続いて、日差しがつくる影が木々の下に映っていた。レイダンはそれに目を留めて、目が慣れてくると列からはみ出ているような蟻を見つけた。そのそばには野ばらが群生していた。白い花があたりを迫るようにして繁っていた。レイダンは野ばらが好きだった。白い花はすべて好きだった。それからこの夏のような天気も。

「お好きであれば、あとでお部屋にお持ちしましょうか。」レイダンのそばに立っていたその青年は言った。レイダンは驚いて振り向いたが、すぐに落ち着きを取り戻して、「いや、ここにこうして咲いてるほうが、綺麗ですから。」と断った。

 青年はレイダンの言葉に、にっこりと笑った。

「あなたは花がお好きなんですね。ぼくは駄目なんです。なんだか扱いづらい感じがして。」

 レイダンはなにか引っかかるように思えたが、その青年の親密な目つきにつられて、それ以上は考えなかった。青年は野ばらの垣に近寄ると、手前に咲いていた満開の野ばらをぽきぽきと手馴れた手つきで摘んだ。「こうしないと、根っこが駄目になる。」そう言って自分の着ていただぶだぶの仕事着のシャツのポケットに、花を指し入れた。

「さあ、ここでいつまでもこんなふうにしていると、日射病になります。行きましょう。」

青年はすたすたと先を歩いていって、くるりとこちらを振り向いて、愛想笑いをした。

 おもしろい子だ、とレイダンは思った。それにしても、ここはほんとうに暑いなと、首のホックをひとつ外した。レイダンは歩きながら、「なにもさえぎるものがないからだ。こんなところで日々暮らしてくというのは、どんなにくたびれることだろう。とても、陰惨なことが忍び寄るようにも思えないのだが。」と考え、先を歩いている青年の、全身から発せられるようなさわやかさとみずみずしさに目を留めた。



 『農園の木』という総称がつけられているこの村の以前の名前は、ノーザアイランドという名前だった。ノーアザー、アイランド。孤立した村、という意味だ。誰も訪問しないというわけではない。むしろ農産物などやそれを加工した製品を通して、シティとの交流や物流はさかんだった。村の人々は畑を守り、家のそばで牛や鶏を飼い、花や蜂蜜を育て、伝統的な編みの籠や、コースター、キッチン用品、木靴などを作り、それを駅のそばの店で観光客相手に売ったりもしていた。ホテルの類はなかつたが、家の一部を人に貸している民宿は村に三軒ほどはあった。本来孤立とは無縁だが、それでも口の悪い老人などは、民宿の待合居酒屋で、よくこういったものだ。「ここに住んでいる若者は、ひとり残らず気が狂う。」

 村の景観は、写真集にたびたび取り上げられるほど、見事なものだった。黒っぽい木とレンガで組み立てられた家々と、よく手入れされた畑には農産物だけでなく、果物や花の木々があり、それらがひっそりと道の傍で影をつくっている。村の奥には森があり、夏でも涼しい風が流れ、澄んだ緑が静寂を生んでいた。ここに休暇に過ごしに来る人は、その景色を見て、手放しに賞賛する。ここはほんとうにすばらしい。自分が今まで住んでいたところなど、人の住むところではない、と。しかしそんなふうに言っていた人も、10日もすれば、その人の住むところではない町に帰ってしまう。なぜなのか。それは訪れてみれば自明だった。そんなにもきれいな場所で一生を終えるということに、ほとんどのひとは耐えられないからだ。うつくしい音楽も、詩も、絵も、村を前にしては赤子の遊戯のようなものだ。一瞬にして、そんなことなど吹き飛んでしまう。圧倒的なうつくしさというものは自然にはない。あるのはこころからこころへと気もそぞろに浮かぶうつくしい連想と目に切り取られたうつくしい光景。日が刻一刻と時計のように正確に、少しずつ影として移動し、生き物たちはお互いの気配と視線を敏感に感じ取り、ただ口を開け無鉄砲で無邪気な散歩をするものはひとりもいない。その緊張のうつくしさ。それが最もうつくしい自然の行為なのだ。そんなふうに一日を終え、はたまた人生の終わりまで正気で過ごすことは、大抵のひとにはできない。人間は自然に生きているだけではない。自分の人生という、なんだかよくわからない幻想と、絡まりあって生きていたいとも思っているからだ。…







 

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