一難

 沈黙の霧、イノセとルゼは歩みを進めていた。一寸先も真っ白でおぼろ気な視界の中、お互いにはぐれないように手を繋ぎあい、ただ真っ白な空間を歩いていく。

 音も方角も、時間すらも、確固たる要素が何一つとしてない空間。空白ではない「運命の書」の持ち主達の間では、この霧に入ると霧に溶けて消えてしまうと言う話が伝わっているのだとか。

 確かに、こんな空間にずっといたら、それこそ自分という存在すら見失ってしまいそうである。その表現は、あながち間違いでもないであろう。


 特にイノセは、この霧の正体を知っているのだから、尚更共感できる。


 ───意味消失


 この世界に、想区という概念もまだなかった頃、世界中を恐怖に陥れた現象。

 己のことを何もかもを忘れ、自分という存在事態が「いる」のか「いない」のか、それすらも不確定となる。誰からも忘れられ、自分自身にも忘れ去られたものはこの世界で姿を維持できず、いずれ、消えてゆく。

 それも、一人や二人ではなく、何千、何万、何億もの人間が己を失い、体も心も失い、実態のない「何か」となり、永遠にさ迷い続けることになる。

 その「何か」が集まって出来上がったのが、この「沈黙の霧」なのだそうだ。


 だがイノセは、そんなことよりも今現在、気になってしょうがないことがある。

 イノセは後ろを振り向いてみる。


「……………………………………………。」


 ルゼがさっきから一言も発していないのだ。いつもの騒がしさが嘘のように、ただイノセの手を強く握りしめながらイノセに遅れないように歩いている。


「姉様。大丈夫?」

「ひぇっ!?え?なに?」

「いや、さっきからずっと黙っているから、大丈夫かなっておもったんだけど…。」


 イノセは、カオステラーによる想区の崩壊を防ぐために行っている父とフォルテム学院の遠征に何度か付き添ったことがある。カオステラーの発生した想区に行くためには当然、沈黙の霧を辿って行く事になる。そのため、イノセは霧の中を歩くのに慣れているため、何事もなく進めるのだが…。


「…大丈夫。姉の私がついているから。イノセは怖がることなんてないのよ。」

「いや、さっきから手汗が酷いし何だったら手の力が半端なくて僕の手が潰れそうなんだけど…。」


 口では気丈に振る舞っているつもりだろうが、うつむいてばっかりの顔はすっかり青くなっているし、心なしか握っている手がブルブルと震えている。

 どうもルゼはこの沈黙の霧が怖くて仕方がないようだ。ルゼは日頃より鍛練に明け暮れていたため、想区の外に出る機会がイノセよりも少ないのだ。下手をしたら想区を出たことがないのではなかろうか。

 ルゼもイノセと同じようにフォルテム学院に通い、遠征に付き合うなりすれば、もう少し早く慣れることができただろう。ルゼ自身も昔、イノセが学院に行くことになったとき、


「イノセが行くならあたしも行く!!」


 と言って駄々をこねたことがあるが、学院の高い学力についていけず、泣く泣く断念したことがある。


 ともかく彼女にとっては、全てにおいて曖昧なこの「沈黙の霧」という空間事態が不気味で仕方がないのだろう。無理もないとは思うが、このままだと彼女と握っている手が握り潰されてしまいそうなので、いい加減やめてほしいところである。

 無理やりほどこうにも彼女の力には到底敵うはずがないし、口で言おうにも先程の微妙に噛み合っていない反応と今の様子から、あまり意味は無さそうだ。

 一体どうしたものかとか、どこかの想区に着いたらまず医者を探すかとか、手に走る激痛に内心悶え苦しみながら考えていた。


 その時…。


「あ…。」


 霧が、晴れた。


 今まで立ち込めていた霧の代わりに、目映い光が二人の視界を遮った。


 二人は思わず目を瞑るが、次第に目が光に慣れてくると、世界がその姿を露にした。。


 二人の目に映ったのは、体を焼くかのような強い日差しに照らされた砂漠の中にある町だった。

 泥や簡素な土レンガを使ったと思われる黄土色の一階建ての建物があちこちに建てられており、露点を開いているものも見受けられる。周囲には厚手の布で体を覆った人々が地面を覆い尽くさんと言わんばかりに往来し、相当な暑さにもかかわらず賑やかである。何かの祭りの最中であろうか。


「これが…外の世界…!」


 恐らくは初めて別の想区に訪れたであろうルゼは、フィーマンの想区とはまるで違うその想区の姿に目を丸くしている。

 建物も、人々の服装も、この強い日差しも、そのどれもがフィーマンの想区には無かったものだ。目移りするのも当然と言える。


「しかし暑いな…。まさかいきなり砂漠に出るなんて…。まずはどこかで着替えて…。」

「ねえ見て!向こうに人だかりができてるわ!」

「うわっ…ちょっと姉様!あまり下手にうろつかないで…待って!引っ張らないで!」


 初めて見るものだらけで興奮しているのか、イノセの手を繋いだまま走り出すルゼ。沈黙の霧の中で縮こまっていた反動なのか初めて他所の想区を訪れたからか、心なしかいつも以上にはしゃいでいるように見える。

 依然として、イノセの手をその怪力で握りしめたまま一際人が集まっている方へ駆け出すルゼ。その耳にはイノセの注意など、全く入っていないようだ。

 イノセの必死の訴えも空しく、人混みを掻き分けながら進む姉にしばし振り回される羽目になった。


 ~~~~~


 道行く人々の間のわずかな隙間に強引に割り込みながら進む二人。人混みの多い方へ進んでいくと、先程まで乱立していた建物の姿は少なくなり、さらに豪華な建築物が姿を表す。混みあう人々を納める広さを誇る綺麗に均された道、周囲に並べられた彫刻入りの一枚の壁や四足の動物を模したオブジェ。そしてその先にそびえ立つ一際大きく、凝った装飾や彫刻の入った城と思われる建物。

 均された道からはみ出しそうになる程に人々が溢れかえり、窒息しそうな程に圧迫される。

 とうとう進めなくなる程の密集地点に差し掛かったところで、やっとルゼの動きが落ち着いた。発言のチャンスを得たイノセが声を圧し殺してルゼに注意を促す。


「いきなり勝手に行動しないで!ここがどんな想区か、どんな状況なのかもまだ分かっていないのに!」

「大丈夫よ!弟の手を離したりはしないんだから!」

「そうじゃなくて!僕たちは『空白の書』の持ち主なんだ!他所の想区にとっては僕たちは『異物』なんだ!下手に動き回ったら想区の本来の運命が狂う危険性も十分にある!」

「そうなの?でも『フィーマンの想区』だと何をやっても何も起こらなかったでしょ?」

「それはそもそも住民のほとんどが『空白の書』の持ち主である『フィーマンの想区』だからこそだ!あの想区が異質だっただけだ!普通の想区で僕たちみたいな余所者が好き勝手やらかしたら、何が起こるか───────。」


 イノセが捲し立てるように怒る。本当なら声を大にして怒りたいが、こんなところで下手に騒ぎを起こすわけにはいかない。必死に声量を最小限まで押さえる。


 すると、ガヤガヤと騒がしかった人々が静かになっていることに気づいた。周囲の人々は皆、城の門前に視線を奪われている。それを見た二人は一旦言い合いを止めて、周囲の人々と同様に城の門へと視線を向けた。


 そこには、恐らく兵士であろう武器を持った人々に囲まれた、一際目を引く服装の男が立っていた。

 黒い服装に身を包み、黄金色に輝く帯と首飾り。頭には黄色と青の縞模様の変わった形状の頭巾を被り、その手には体の半分程の長さの黒い杖を持っている。


 周囲の人とは明らかに違う豪華な装飾品と服装、さらに兵士に厳重に守られていることから、恐らくはこの国の王族、でなくても高い身分の貴族であることは容易に想像できた。


 民衆が静まりかえったのを見計らったように、その男が声を高らかに上げる。


「我が民達よ!祭りの最中の召集、誠に大義である!此度集まってもらったのは、他ならぬ我らが崇めし神より、お告げが下されたからである!」


 王と思われるその人物から出た、「我らが神」というフレーズ。それを聞いた民衆は再びざわつき始める。


 ──我らが神からのお告げだと?──

 ──ファラオに信託が下ったということ?──

 ──「運命の書」に書かれてあった通りだわ!──

 ──神は我らのファラオに何を告げたというのだ?──


 あちこちから聞こえてくる雑音じみた声から辛うじて聞き取れた、そんな言葉。「運命の書」という単語が聞こえてきたことから、この集会もこの想区であらかじめ定められたことなのだろう。そしてその中から、「神」という単語が聞こえてきたが…。


(ストーリーテラーのことじゃ、ないみたいだな…。)


 ストーリーテラーは、その想区の住人の運命を定める。想区の住人からすれば、神にも等しい存在である。今演説している男───国民達はファラオと呼んでいた。───や国民は、ストーリーテラーのことを「神」と呼んでいると思われたが、ストーリーテラーが与える運命なら、既に各々の運命の書に記されているはず。わざわざ信託なんてものを言い渡す必要はないし、そもそもストーリーテラーが直接、想区の住人に声を掛けることはない。恐らくこの人々が言っている「神」とは、この国独自の宗教に由来するものだろう。

 頭の中で考えを巡らせているイノセを他所に、ファラオと呼ばれた男は演説を続ける。


「今日、天空の彼方より隼が我が元に駆けつけ、我にこのサンダルを渡したもうた!これは神より『このサンダルの持ち主を妻として娶るように』というお告げに違いない!これより我は国中を周り、このサンダルの持ち主を妻として迎え入れる!もしこの中にいるのならば名乗り出るがいい!!」


 ファラオが語り終え、しばし静寂に包まれる城前の広場。

 イノセはその語りにしばし気を引かれ、ルゼに至ってはこの空気に気圧されて口が開いたままポカンとした表情を浮かべている。

 少し間が空き、上の空だったイノセは少しずつ落ち着きを取り戻し、その頭脳が再び働きだす。


(神の使いの隼に、サンダルの持ち主に求婚…?重要そうではあるけれど…。そんな物語、フォルテム学院の資料にあったか…?)


 ここまで仰々しいイベントなのだから、何かの物語の1シーンとして語り継がれている確率は大きい。だが、この場面を語る物語があったか、今すぐには思い浮かばない。もしかすると、フォルテム学院でも確認していない想区なのかもしれない。あるいはただ単に自分が知らない物語なのか。


 しかし、考え事をしてるイノセのことなど気づくことなく、国民達が次第に騒ぎだし、広場が演説前よりも賑やかになっていく。


 ──何てことだ!とうとうファラオにも伴侶が!──

 ──サンダルが足に合う娘であればいいのか?──

 ──うちの娘を連れてこよう!ファラオにお近づきになれるチャンスだ!──

 ──おい!抜け駆けは許さんぞ!うちの娘も年頃だ!早くここへ!──

 ──ただのサンダルでしょ!?私にもチャンスはあるかも!!──

 ──こうしちゃいられないわ!すぐに名乗り出なきゃ!──


 家族を連れてこようと広場を一旦後にする者、自分でサンダルに挑戦しようとする者、各々がファラオの婚約宣言によって大慌てになる。大急ぎで思い思いの方へ次々と駆け出す国民達。あっという間に広場は大パニックに陥った。


(あっ…まずい!)


「イノセ!あたしの手を離さないでね!」


 イノセが危険に気づいたときには、既にルゼはさっきよりも強くイノセの手を握りしめていた。

 人々の波にもみくちゃにされる二人。ここで離れたら合流するのも一苦労どころではない。


 だが…。


 ドンッ!!


「「あっ!!」」


 パニックとなった人々の不規則で激しい動き。それらを全てかわせるはずもない。広場を行き交う人々が勢いよくぶつかってきて、二人の手が離れてしまう。


「しまった!姉様!!」

「待って!イノセ!!…ちょっとあなた達通して!!弟が…!!」


 慌ててイノセの方へ手を伸ばすルゼ。しかし力自慢のルゼでも、荒ぶる無数の民達にはなす術もない。


 そのままルゼは町の方へ押し戻され、イノセは身動きがとれないまま広場に取り残されてしまった。


 ~~~~~


 ようやく人も散らばってきた頃には、広場を大きく離れて、この想区で最初に見た簡素な作りの建造物が立ち並ぶ町まで流されてしまった。

 相も変わらず民達は大慌てで町を行き交っており、それに加えて、広場にいなかった町中の民達にもファラオの通達が行き届きつつあり、町の騒ぎが更に広がってきている。

 なんとか人波を抜け出してからだの自由が利くようになったルゼ。だがもう先程の城は背伸びをしてようやく見えるくらいの距離まで離れてしまった。

 周囲に弟が共に来ていないか、僅かな望みを託して周囲を見渡すも、それらしき人影はどこにもない。

 傍らに弟がいない。それだけでもルゼの顔からは血の気が引いて、嫌な汗が吹き出てくる。


「どうしよう…!このままじゃイノセが…!!」


 すぐに城に向かおうと踵を返すルゼ。


「…つっ!」


 だがその時片足に強い痛みが走った。なにか固いものを踏んだような痛みだった。足を見てみると、履いていたサンダルが片方脱げてしまっていた。どうやら先程の人波に揉まれているうちに、脱げてしまったのだろう。


「もう!こんなときに!!」


 悪態をつくルゼだが、今は気にしている暇はない。靴ならまた旅の道中で調達すればいい。だが自らの弟だけは絶対に失くしたくない。その思いが自身に発破をかけ、再び駆け出すルゼ。



「…あれ…?」


 しかし彼女の体に異変が起きる。

 突然足の力が抜けて、その場に倒れこんでしまったのだ。

 それだけではない。日に当たった肌が発熱し、更に視界がぼやけてきたのだ。


 ルゼの服は手足、腹周りが大きく露出している。そんな格好で砂漠の炎天下を歩き回れば、肌が焼けるのは当然である。加えて高い気温と、密集した人々の熱の中にいたのだ。始めての外の世界に対する興奮と、城前の騒動で全く意識していなかったが、ルゼの体は既に限界を訴えていた。


「嫌だ…。こんなところで休んでる場合じゃないの…!早く…見つけないと…!」


 足元がおぼつかなくなっても、気合いで持ちこたえようとするルゼ。だが、火傷と熱中症にやられた体では、そんな無理が利くはずもない。

 奮闘も空しく、ルゼはその場でうつ伏せになって倒れこむ。


(イノセ…!)


 なおもはぐれた弟を心配する姉の声。だがそれを言葉にすることすら叶わず、彼女は意識を手放した。

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