7

 目を開けると、見慣れない天井があった。

 手を伸ばすと硬いものが指先に当たる。茅野は躊躇いなくそれを引き寄せた。眼鏡をかけて、辺りを見渡す。慣れ親しんだ景色がそこにあった。ゆっくりと起き上がり、洗面台に向かった。

 鏡の中の自分は少しやつれているように見えた。ショックを受けるだけの人間性が残っていたのかと、茅野は内心自嘲した。顔を洗って髪を整え、シャツに着替える。洗面所にあった洗濯機に寝間着とタオルをまとめて放り込み、時計を見た茅野は洗濯を諦め、部屋を出た。


 オフィスの前で、茅野はくぐもった怒号を耳にした。扉に耳を寄せると、声はどうやら鵜ノ沢のもののようだった。恐る恐る扉を開ける。

「あ、おはよう美鶴くん」

 奥に座る東堂の手前、見知らぬ男と鵜ノ沢がデスクを挟んで言い争っていた。東堂の声で茅野に気付いた鵜ノ沢が、気まずそうに頭を掻いて茅野を見た。

「……はよ、茅野。悪いな、朝からやかましくて」

「へえ、夏生ってちゃんと謝れるんだあ? えらいえらーい」

「っせぇな! だいたい誰のせいでこんな叫ぶ羽目になってると思ってんだよ!」

「えー? 誰のせいだろう、俺わかんなーい」

 舌の根の乾かぬうちに、鵜ノ沢は再び声を荒げた。茅野は勢いに圧倒され、反射的に上体を反らす。一呼吸置いて、男のほうを見た。

 鵜ノ沢に舌を突き出し愉快そうに笑った男は、燻んだグレーの髪をヘアバンドで押さえつけ、モスグリーンのコートのポケットに右手を突っ込んでいた。男が茅野に顔を向けると、垂れた目から覗くブルーグレーが真っ直ぐに茅野を捉えていた。男が茅野に歩み寄る。茅野は体を強張らせた。

「やー、君が新人の茅野くんだね、俺は暮千弘くれちひろ。千弘でいいよ、よろしくね!」

 男──暮は満面の笑みを浮かべて茅野に手を差し出す。捲し立てられた茅野は、圧されて思わずその手を取った。瞬間、強く握られ激しく上下に振られる。

「やぁっと会えたぁ、ずっと気になってたんだよね君のこと! 社長から面白い子が入ったって聞いてさあ! 仲良くしようねー! あっ俺も下の名前で呼んでいい? 名前なんていうの?」

「え、か、茅野美鶴、です……」

「うんうん、美鶴だね、いい名前じゃん。ねえ、俺の名前もちょっと呼んでみて」

「いい加減にしろ暮テメェ!」

 話を遮った鵜ノ沢が茅野に駆け寄り、茅野を暮から引き剥がした。暮は動じることなく、にやにやと鵜ノ沢を見る。

「ふうん? すっかり保護者じゃん夏生。そんなにこの子がお気に入りなんだー、嫉妬しちゃうなー」

 暮の言葉を鼻で笑い、鵜ノ沢は茅野の肩を引っ掴んだ。

「茅野。よく聞け。こいつはまじで頭おかしいやべーやつだから、できる限り近づくな。顔を見たら即逃げろ」

 酷いなぁと言いながら未だにやつく暮を、鵜ノ沢は睨みつけて威迫する。東堂が立ち上がり、二人を制した。

「はいはいそこまでー。夏生くんも千弘くんもはしゃいじゃって……」

「はしゃいでねぇ!」

 鵜ノ沢の怒声に、東堂は肩を竦めて深く溜息を吐いた。

「そんなんじゃ困っちゃうな。次は千弘くんと夏生くんと美鶴くん、三人に出てもらおうと思ってたのに」

「はぁ!? なんで俺がこいつと」

「社長命令だよ夏生ぃ。あれぇもしかして嫌なの? 社長の言うことに逆らうの?」

 歪んだ笑みを浮かべる暮に、鵜ノ沢は言葉を詰まらせる。茅野はただ見ていることしかできずにいた。

 手招きに気付き、茅野は睨み合う鵜ノ沢と暮を避けて東堂の元に向かう。東堂は微笑んで、引き出しから書類を取り出しデスクに広げた。

「美鶴くん、高校卒業してないでしょ? 一応ここ、高卒以上っていうことになってるから。通信制だから人と会う心配もないし、通ってた分まではパスできる。何より一人で外に出る必要もない。登校日はあるけど少なめだし、僕が保護者として付き添うよ」

 東堂のデスクには通信制高校のパンフレットや出願書類が並べられていた。手渡されたパンフレットの表紙を眺め、茅野は数度瞬きをした。

「……俺、入学金とか払えないです。お金ないんで」

「そんなの気にしなくていいのに。こっちの都合で行ってもらうんだから」

「でも……」

「美鶴くんってば、真面目なんだから」

 東堂は肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。

「それなら、こういうのはどう? 今は僕が立て替えて、それを美鶴くんのお給料から天引きさせてもらう。勿論分割だから安心してね」

 茅野は東堂の提示した条件を飲んだ。東堂に借りを作るのは、何としても避けたかった。

「さてさて。大事な話も終わったし、お仕事だよ皆。千弘くんは引き続き取材に行ってもらって、夏生くんは美鶴くんの朝ごはんと、それが終わったら美鶴くんに仕事のこと教えてあげてね。美鶴くんは質問があったら夏生くんに聞くこと」

「はぁーい。んじゃ、行ってきまぁす」

 暮は黒いショルダーバッグを手に、早々とオフィスを出て行った。暮の姿が見えなくなるまで睨みつけていた鵜ノ沢が、溜息を吐いて給湯室に向かった。手持ち無沙汰となった茅野は自分のデスクに向かい、引き出しにパンフレットを投げ入れた。


 しばらくして、鵜ノ沢は白いランチプレートとフォーク、マグカップを手に戻ってきた。茅野の前に置かれたプレートには、表面に焼き色のついたトーストが二枚重なってふっくらとしており、焦がしたバターの香りが茅野の鼻を擽った。その隣には小さなガラスボウルにつややかなコールスローサラダが、マグカップにはコーヒーの黒い水面が天井の明かりを反射して煌めいていた。彩り豊かな朝食に茅野はたじろぎ、同時に腹の虫が存在を主張した。

「……いただきます」

「おう、召し上がれー」

 トーストを齧る。表面はかりかりに焼けていて、内側はしっとりと卵の甘さを染み渡らせている。中からはチーズがとろりと溶け出し、厚切りのハムが塩気を添えて、パンの甘みとチーズの味を引き立てていた。

「おいしい、です」

「はは、よかった。なんかリクエストあったら言ってくれ。材料さえありゃあいつでも作るからよ」

 穏やかに笑う鵜ノ沢に、暮がいないだけでこうも違うものかと驚いた。そう口に出せばまた機嫌を損ねるだろうから心の中に留めておいた。

 コールスローをフォークでつつきながら、茅野は口を開く。

「……あの、三門さん、は」

「紅くんにはちょっと別のお仕事を頼んでるんだ。もう少ししたら僕も出るから、戸締りお願いね」

 茅野は小さく目を見張った。

「東堂さん、も出るんですか」

「社長って呼んでよ。そっちのほうが慣れてるから」

 東堂は軽快に笑った。

「ここは結社としても会社としても少数精鋭だからね。僕もちゃんとお仕事しないと間に合わなくて」

 眉尻を下げた東堂は、別の書類を取り出して鞄にしまい込んでいく。デスクに向かう東堂と鵜ノ沢を見ていると、結社や異形、能力者などとは無縁の空間に見えた。

 茅野が朝食を終えて給湯室に空いた食器を片付けた頃、東堂がコートを羽織った。

「それじゃ、行ってくるよ。あとはお願いね、夏生くん」

「へーい、いってらっしゃいやせー」

「美鶴くんも。頑張ってね」

 油断していた茅野は言葉を発することができず、慌てて頭を下げた。




「教えるっつっても、食ってすぐ動いたら脇腹んとこ痛くなるもんな。ちょっと食後休憩しようぜ」

 デスクに片肘をついた鵜ノ沢に促され、茅野は椅子に腰を下ろした。

「……昨日は、ちゃんと眠れたか?」

 穏やかな声で投げかけられた質問に、茅野は首肯で返した。直後、鵜ノ沢がデスクに突っ伏し、驚いた茅野の肩が跳ねた。

「よかったぁ……あんな、その……色々あったから。寝れてなかったらどうしようって……つっても、俺にはどうしようもないんだけどな」

 鵜ノ沢は苦く笑う。茅野は居た堪れなくなって膝を睨んだ。鵜ノ沢は息を吐いた。

「いっぱい食っていっぱい寝ないとなんとかなるもんもならねえからな。俺は飯作るくらいしかできねえけど、力になれることがあったら言ってくれよ」

 茅野が顔を上げると、鵜ノ沢の細められた目と視線がかち合った。何故こうも鵜ノ沢は関わりを持とうとしてくるのか、茅野にはその目的が読めなかった。しかし、ひとつ確かなことがある。

「……心配かけて、すみません」

 恐らくこの男は、いわゆるお人好しというものに分類される。それならば、相手が誰であっても気になってしまう性質なのだろうと、茅野は判断した。

「それと、ありがとうございます」

 何か言いかけた鵜ノ沢より先に礼を述べる。途端、鵜ノ沢は顔を綻ばせた。謝罪より感謝を好むらしい鵜ノ沢に、せめて出された食事の分は真摯であるべきだと考えた。せめて、茅野の礼が必要なくなる程、借りを返せるまでは。

「よし。そんじゃ、うちの仕事が何かっていうの教えてやるよ。ついてきな」

 そう言って立ち上がった鵜ノ沢に、茅野は首を傾げながらも倣う。ジャケットを羽織った鵜ノ沢を見て出掛けるらしいと察した茅野は、鵜ノ沢に断りを入れ自室から薄手のカーディガンを取って戻った。

 車と、恐らくビルのものだろう鍵を指に引っ掛けた鵜ノ沢は、駐車場までを先導した。




 茅野は助手席の窓から外を眺めていた。市街地を走る車は、ぐるぐると似たような場所を巡回している。

「あの、鵜ノ沢さん。どこに向かっているんですか」

「どこにもー」

 想定外の答えが返ってきて、茅野は口を噤む。鵜ノ沢はからりと笑い、続けた。

「うちの目的が戦争を止めることと、被害を最小限にすることってのは言ってあったよな」

 茅野は頷いた。車は走り続けているが、外の景色は変わらない。

「三門も言ってたろ。町ん中にも時々出てくんだよ、異形ってのは。被害は何も能力者のに限らねえしな。町ん中にいるはぐれのⅠ型やらⅡ型を片すのも立派な仕事ってわけ」

「その、型って……昨日も言ってましたけど」

「ああ、そこも説明要るよな。異形にも種類があってな」

 正面から視線を逸らさず、鵜ノ沢は茅野に見せるように人差し指を立てた。

「Ⅰ型ってのが、丸っこい小せえやつ。一番弱えし、動きも鈍い。Ⅱ型がそれよりちょっとでかくて、腕が生えてる。引っ掻いてきたりもするな。Ⅲ型は大きさによって結構違ってて、トロトロ歩くやつから走り回ったり喋ったりするのもいる」

 鵜ノ沢の手の親指以外が開かれた。

「Ⅳ型からはあんまり見ねえな。数は少ないから見かけることはほとんどないが、今のお前じゃ相手するのはしんどいかもだ。このへんになるとかなりすばしっこいし、はっきり喋ってくる」

 手がすべて開かれる前に、鵜ノ沢は両手をハンドルに戻した。車は緩やかにスピードを落として止まる。信号が赤を光らせていた。

「Ⅴ型っていうのも一応分類としてはあるんだが、俺は見たことねえ。数字がでかくなるほど異形そのものもでかくなるんなら、Ⅳ型よりでけえんだろうな」

 車が動き出す。茅野は窓の外を見た。町の中心からは少し外れ、マンションが立ち並ぶ地区を走っている。

「今日は何もいなさそうだな。……よし、茅野。ちょっと付き合え」

 鵜ノ沢はそう言うと、車を再び市街地へと走らせた。

「昼には皆一回帰ってくるだろうしな。飯の買い出し。手伝ってくれんなら、今日の昼飯は茅野の好きなもん作ってやるよ」

「……手伝いはします。お昼は……なんでもいいです」

「なんでもいい、が一番困るんだよなあ」

 茅野には、そう言う鵜ノ沢が大して困っていないように見えた。車は大型スーパーの駐車場に停まる。鵜ノ沢がシートベルトを外したのを見て、茅野は外に出た。

「なんかねえの? 食いたいもん」

 楽しげに聞かれて、茅野は知る限りの料理を思い出し、答えを絞り出した。

「……カレー、で」


 買い物を終え、ビルへと戻る車の中で、茅野はアームレストに乗せた手を握り締めた。

「鵜ノ沢さんは、」

「ん?」

「どうして、俺に話しかけてくるんですか」

 言って、後悔した。理由は茅野には分からなかったが、言わなければよかったと強く感じた。恐る恐る運転席を見ると、鵜ノ沢は気にした素振りもなく笑っていた。

「なんでだろうなー。久々にできた後輩が嬉しいのかも」

「……いたんですか、後輩。俺以外にも」

 途端、苦々しい顔に一転する。暮が鵜ノ沢の後輩にあたるのだろうと考え、茅野は口を閉じた。鵜ノ沢は咳払いをした。

「あとはまあ、お前が暗い顔してるからかなあ」

「よく、分かりません」

「……俺はな、俺の周りにいる人間には、できるだけ笑ってて欲しいんだよ。全世界の人間に、なんてのはスケールでかすぎるし、俺にそんな力はねえから。せめて、周りの人達だけでも」

 鵜ノ沢の目は遠く、ここではないどこかを見ていた。視線の先を辿ってみても、茅野には何も掴めなかった。

「だからお前にも笑ってて欲しいってこと。お前が俺のこと嫌いっていうんじゃなきゃ、俺はお前に構い続けるから。覚悟しといてくれな」

 悪戯っぽく言った鵜ノ沢に返す言葉を見つけられないまま、車はビルの駐車場に到着した。荷物を半分受け取り、茅野は先にエントランスへ入りエレベーターを呼んだ。

 オフィスに入り、荷物を置く。買いすぎたかもな、と笑う鵜ノ沢が給湯室へ消えたのを見送って、茅野は目を閉じた。

 鵜ノ沢は、かつての友人と似ていた。人付き合いの苦手な自分にも明るく接してくれた。その人は茅野を友人と呼び、茅野もまたその人を友人と呼んだ。共に過ごしていて、楽しいと思えた。そんな人間に裏切られた時、酷くこころが痛むのだと、茅野は知っていた。

 手伝いを求める声が聞こえ、茅野は軽く頭を振って給湯室へ向かった。鵜ノ沢の願いは自分がいる限り叶わないのだろうと、茅野には確信があった。

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