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 熱したバターととろける卵の甘い匂いの下に、焦がしたケチャップの香りが隠れている。飾られたパセリは白い皿と輝く黄色に色彩を加え、それは控え目ながら見た者を視覚的にも楽しませる。隣には瑞々しいレタスとミニトマトに滴る艶めく白が、黄色の甘さの隙間からほんのりと柑橘系の酸味を添えていた。

 半熟オムライスと、フレンチドレッシングのサラダ。茅野は、ここは隠れたレストランであったのかと錯覚した。

「手間かけてなくてごめんなー、こんなんで良かったら好きなだけ食ってくれ」

 その言い方に、茅野にある可能性が浮かぶ。

「これ、全部鵜ノ沢さんが作ったんですか……?」

「おう。……あっ! もしかしてお前完熟派か!? それともフレンチよか胡麻ドレ派!?」

「いえ……その、大丈夫です」

 全く別のベクトルで慌てる鵜ノ沢をなだめて、茅野は顔が映るほどに磨かれた銀のスプーンを手に取った。

「……いただきます」

 おう、と応えた鵜ノ沢の声を合図に、スプーンを鮮やかな黄色に埋める。抵抗なく切り開かれた卵の下には、濃く色付けられたケチャップライスが覗いていた。掬い上げると、ほろほろと崩れるライスと共に、赤く彩られたみじん切りの玉ねぎやにんじん、鶏肉が転がり出る。一緒に口に運べば、甘く味付けされた卵は見た目通りに柔らかく、しかし芯の残ったしっかりとした米粒と具材とが、食感の楽しみを奪うことなくケチャップの甘みと酸味を主張した。

「……おいしい」

「そりゃあよかった! もう皆慣れちまって感想なんて久々に聞いたから、俺も嬉しいや」

 再び茅野の正面に陣取った鵜ノ沢は、食前の挨拶もそこそこに食事にありついた。その隣で既に食べ始めていた東堂が「僕だっていつも感謝してるよー」と呟くも、その目がオムライスから離されることはなかった。

「夏生くんなんでもできるから、つい頼っちゃうんだよねえ」

「いやあ? 俺にできんのはこんくらいっすよ、はは」

 明らかに照れている鵜ノ沢に優しく微笑み、東堂は続ける。

こうくんは料理苦手だし、千弘ちひろくんは何もしないしねえ」

 瞬間、鵜ノ沢が固まった。茅野は人生で初めてこれほどまでに、まさに『カチンときた』人を目の当たりにした。

「社長」

「んー?」

「次ィそれを口に出したら、社長といえど容赦しねぇぞ」

 目の前にいるのは本当に鵜ノ沢かと疑いたくなるほどの殺気。低い声で発せられるそれに、茅野はただ震え上がることしかできずにいた。

「あーほら、美鶴くんびっくりしてるよ。落ち着いて夏生くん、どうどう」

 はっとした鵜ノ沢は、しかし眉根を寄せたまま「誰のせいで……」と小さく零した。

「悪いな、驚かせて。気にすんな」

「あ、はい……」

 歪な笑顔を向けられた茅野は、漂う気まずさから目を伏せる。東堂のみが変わらず明るく味わう横で、二人は微妙な空気の中昼食を終えた。


 片付けの作業を挟みすっかり平常心を取り戻した鵜ノ沢が、大きな欠伸を落とす。茅野がふと視線を投げたオフィスの床は、先の紙吹雪などなかったかのように綺麗になっていた。どうやら、この数分で簡単な掃除まで済ませてしまっていたらしい。

「で、この後は部屋の案内だろ。そっからは?」

「早速研修に入ってもらおうかなって思ってるよ」

「はー……展開の早ぇこって」

 進む会話の少しも掴めていないまま、茅野は食後に出されたコーヒーを口に含む。初めて味わう深いエスプレッソも、鵜ノ沢が淹れたという。

「その、部屋、なんですけど」

 口を開いた茅野に、東堂と鵜ノ沢の視線が集まる。

「住み込みのこと、親に言ってなくて」

「ああ、そこは君のお母様にきちんと話してあるよ。安心して」

 即答した東堂に、茅野は却って警戒心を強めた。この男は、どこまで自分のことを知っているのか。いつから、自分をここに呼ぶ計画を立てていたのか。

「ちょうどいいし、部屋に行ってみようか。君も少し、一人で考える時間が欲しいでしょ」

 人の良さげな笑みを湛えて、東堂はデスクに向かった。東堂の通るスペースを空けるため立っていた鵜ノ沢が、茅野の座るソファーの横に屈み込む。

「信頼はするな。けど、信用はしていい。あの人はお前に危害を加えたりはしねえよ」

 ごく小さく囁かれたそれにどう答えるべきか考えあぐねていると、鍵の束を指の先に引っ掛けた東堂が戻る。茅野の横で立ち上がる鵜ノ沢を見て、東堂は「あーっ!」と声を張り上げた。

「夏生くんずるーい! 僕だって美鶴くんと仲良くなりたいのにい! 美鶴くんを先に見つけたのは僕なんだからね!?」

「……誠心誠意っつーのを覚えたら仲良くなれんじゃないっすかね」

「ひどいなー。僕はいつだって誠心誠意、一所懸命一意専心、天上天下唯我独尊だよー」

 最後のはちょっと違う気がする。茅野は心の中で呟いて、わざとらしく足音を立てオフィスを後にする東堂に続いた。

 振り返ると、盆にカップを乗せてテーブルを拭く鵜ノ沢と目が合った。親しげな笑顔と振られた手に何を返すべきか悩んで、茅野は頭を下げた。




「はい、ここが君の部屋。趣味のもの以外なら経費で落とせるから言ってねー」

 茅野は言葉を失った。。異なるのは部屋に続く短い廊下と、扉に向かい合うかたちで簡易的なキッチンが備え付けられた程度で、見知らぬ場所に見慣れた部屋がある現実に、頭痛が茅野を襲った。

 茅野の様子に構うことなく、東堂は廊下の扉を開けて中を指差す。

「こっちが洗面所で、奥にトイレとお風呂場があるよ。シャンプーとかこだわりがあったら自分で買ってきてもいいけど、慣れないうちは誰かに付き添ってもらってね」

 襲われたら、大変でしょう?

 にこやかに告げる東堂に、未だ身動きのできないでいた茅野はただ東堂を目で追う。東堂は軽い足取りで、部屋の隅に置かれた机に数枚の紙を並べた。

「非常口とか、ここで暮らす上のルールとかはこれに書いてあるよ。と言っても厳しいものじゃないから安心してね。あとこっち、社内規定。これも簡単だから大丈夫。給料は家賃光熱費各種保険料もろもろ差し引いて振り込みになるけど、遊ぶには困らないくらいは払えるつもりだから。細かい数字もこれに書いてあるからね」

 指で紙越しに机を叩き、一方的に話し終えた東堂は、茅野に視線を移し軽く溜息を吐いた。

「……とはいえ、説明書読むだけじゃあんまり面白くないでしょ? 実践実戦で慣れたほうが早いし、状況も掴みやすいと思う。今晩、早速仕事に出てもらう予定だから、15時にはオフィスに来てね。ミーティングするから。あとはい、これこの部屋の鍵。一応戸締まりはしっかりとね?」

 それじゃあまた後で、と部屋を出る東堂を止めることもできず、茅野は受け取った鍵を握り締めたまま立ち尽くす。扉が閉まる音で自分を取り戻した茅野は、頭を振って部屋の奥に足を踏み入れた。異常な現実に、慣れ親しんだ日常が飛び込んできたことで、だからこそもう戻れない、戻るべきはここだと突きつけられたような息苦しさを感じた。机の上に鍵を投げつつ置かれた時計を見ると、14時前を指していた。アラームを14時50分にセットして、茅野はベッドに飛び込んだ。

 慣れたにおいに、数分と待たず泥のように眠った。




 けたたましいアラームに、茅野の意識が浮上する。ついさっき目を閉じたように思えて、眠れた気がしなかった。のそのそと起き上がり、アラームを止める。シャツに皺がついていたが諦めて、洗面台に向かい顔を洗う。洗面所や風呂場は初めて見るもので、用意されていたタオルは新品の匂いがした。それだけでも、救われた気がした。

 外に出て部屋の鍵を閉めると同時に、隣の部屋から鵜ノ沢が顔を出した。

「お、そういやお前の部屋はここだったか。隣同士、よろしくな」

 軽く手を振る鵜ノ沢に会釈を返し、茅野はエレベーターを呼んだ。鍵が閉まる音の後、鵜ノ沢は茅野を通り過ぎて、ちょうど開いたエレベーターの扉を手で押さえる。茅野は鵜ノ沢をじっと見つめた。

「ん? 入んねえのか? ミーティングだろ、オフィス行くんじゃねえの?」

 ようやく、自分に先を譲っているのだと理解する。再度頭を下げてエレベーターに乗り込み、開と書かれたボタンを押して鵜ノ沢を待つ。ありがとな、と軽快な声がして、居た堪れなくなった茅野は俯いた。

 間もなくエレベーターが開き、鵜ノ沢を先頭にオフィスの扉を開ける。入り口から正面のデスクに体重を預ける東堂の姿が見え、その隣には黒い細身のスーツを着た女が背筋を伸ばして立っていた。

「うぃーす。そろそろ時間だろ」

「……鵜ノ沢さん。その言葉遣いはいくら言っても直らないのですか」

 女がぴしゃりと言う。黒く艶のある髪は後ろで固く一つにまとめられ、切れ長の目は鵜ノ沢を睨みつける女に一層の迫力を与えていた。

「そー言うなって三門みかど、社長気にしてねえだろうし。それに、新人サンの前だぜ?」

 女の様子を気に留めず、鵜ノ沢は茅野を親指で指す。三門と呼ばれた女は、一瞬驚いたような表情を見せた後、茅野に歩み寄った。カツカツと高らかなハイヒールの音に気圧され、茅野は少し体を引いた。

 女は茅野の前で立ち止まると、柔らかく微苦笑を浮かべた。

「すみません。突然のことで驚いている中、さらに混乱させてしまって。私は三門紅みかどこう、あなたの先輩にあたります。あなたの話は聞いています、茅野さん。どうぞよろしくお願いします」

 そう言って女──三門は、丁寧に一礼をした。それを見た茅野も慌てて礼を返す。

 ぱん、と手を叩く音が響いた。

「はいはーい、揃ったね皆。……一人いないけど、彼は別のお仕事中ということで」

 途端に鵜ノ沢が顔を顰める。茅野は、鵜ノ沢の不機嫌の原因が東堂の言った、別件で出ているらしい『千弘』にあるのだろうと推察する。

「じゃあ、席に座って。美鶴くんの席は夏生くんの隣ね」

 東堂の言葉に続くように、鵜ノ沢が手招く。東堂に側面を向け、デスクが二つずつ対面するように置かれており、三門と鵜ノ沢が向かい合って座る。茅野は鵜ノ沢の隣、入り口側の席を示され、同じく腰を下ろした。

 全員が席についたのを満足げに見下ろして、東堂が口を開く。

「それじゃあ、ミーティングを始めるよ」


「今回は美鶴くんの研修も兼ねてるからね。第五区画の郊外で異形退治だよー」

 隣の鵜ノ沢が、第五区画はここな、とモニターを指す。覗き込んだ地図には、かつての教師に立ち入りを禁じられた、崩壊区域が表示されていた。

「ここなら夏生くんも遠慮なく暴れられるでしょ。周りに人もいないし。紅くんは夏生くんのサポートしつつ、最優先は美鶴くんの護衛」

 三門のはきはきとした、そして鵜ノ沢の気怠げな了解、が同時に聞こえた。次は自分だろうかと、茅野は東堂を見上げる。

「美鶴くんの仕事はとっても簡単。夏生くんの戦闘を見ていること。そして、能力を使わないこと」

 提示された条件の意味が理解できず、茅野は首を傾げる。鵜ノ沢は「だから説明が足りないんだっての」とぼやき、茅野に顔を向けた。

「言ったろ? 代償。上手い使い方も分かってねえまんまほっぽり出されたって、負けるか自滅しかねえんだ。だから、最初は見るだけにしとけって話。俺も最初はそうだったから安心しな」

 口角を上げた鵜ノ沢に、茅野は頷く。その様子を見守っていた東堂は、寄り掛かっていたデスクから一歩、前に踏み出す。

「出発は19時。それまでに準備しておいて。……はい、ミーティングおわりー! ケーキ食べようケーキ! 新入社員、茅野美鶴くんの歓迎会だよー!」

 ミーティングは、茅野の予想よりもずっと早く終わった。浮かれた様子で冷蔵庫を開ける東堂は、こちらが本題だとでも言うように、見るからに上機嫌であった。東堂に続くように、鵜ノ沢が給湯室らしい小部屋に向かう。デスクから二人を眺めていた茅野に三門が近づき、中腰になって視線を合わせた。

「ショートケーキ、チョコレートケーキ、レアチーズケーキ、フルーツタルト、ミルクレープ。どれがいいですか? 茅野さんの歓迎会ですから、遠慮せずお好きなものを選んでくださいね」

 問われた茅野は、しばし考えて答える。

「チョコレートケーキ、を」

「分かりました。お待ちください」

 三門は優しく微笑み、ケーキを運ぶ東堂を手伝いに行った。少しして、茅野の前にチョコレートケーキが置かれ、隣のデスクでは鵜ノ沢が紅茶を淹れていた。鵜ノ沢はにっこりと笑って、最後の一滴を注ぎきったカップを茅野に差し出す。カップを配り終えた鵜ノ沢が席につくと、最奥に座った東堂が微笑んだ。

「それではー、美鶴くんの入社を祝ってー、かんぱーい!」

「いや乾杯はないっすよ乾杯は……」

「まずは今日の仕事、そしてこれからもよろしくお願いしますね、茅野さん」

 思い思いにケーキをつつく三人を見て、茅野もまたチョコレートケーキを口に運び、考える。

 突き落とされるのは、裏切られるのはいつだろう、と。

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