第14話

 雨が降っている。


 木曜日。


 瞬は生徒玄関で真耶を待っていた。


「今日は部活ないよ」


 玄関に現れた真耶はあきれ顔でため息をついた。


「知ってる」


「結子なら図書室だよ。図書委員の日だから」


「結子に用があるわけじゃない」


 体育館裏で聞いた話が一瞬脳裏をちらつく。今は気にしない。


「お兄ちゃんは? サッカー部は雨でも練習あるじゃん。校内マラソンと筋トレ」


「体調不良だ。このまま帰る」


 瞬は今日、生まれて初めて部活をサボることに決めていた。


「私と一緒に帰りたくて具合悪いのに待ってたの? シスコンだね」


 真耶がにやりと大人びた笑みを浮かべる。いつの間にこんなふうに笑えるようになったのか。


「最近うちの妹はひとりじゃまっすぐおうちに帰れないみたいだから」


 瞬が冗談めかして言うと、真耶ははじけるように笑い出した。靴を履き替える生徒たちがギョッとこちらを見る。


「そうだね、そのとおり!」


 ひととおり笑い終えたあと、真耶はにっこりと笑った。頬に三角のえくぼができる。昔と変わらない笑顔。だが瞬は目をそらした。変わらないが同じではない。


「傘、忘れちゃったから入れてよ」


「忘れた? 今日は朝から降ってただろ」


「忘れたんだもん」


 強く言われたらどうしようもない。

 瞬は紺色の傘を開いた。右側に真耶を入れてやる。特別大きな傘ではない。ぴったり寄り添うように歩かないと肩が濡れる。制服ごしに体温が伝わる距離だった。身体に力が入る。緊張せずにはいられなかった。

 生徒玄関から校門までを堂々と歩く勇気はなかった。自転車小屋の横を通って、裏門からそっと郊外へ出る。生徒の姿が少なくなる道までは傘を深く下げ、真耶には申し訳ないと思いながら速足で歩いた。たまに聞こえる冷やかしの声に顔が燃えるように熱くなった。真耶はそんな瞬の横顔をずっと面白そうに眺めていた。


 人通りのない道を選んで進むと、見覚えのない神社の前に辿り着いていた。迷ったというほどではない。大通りに出れば問題なく帰路に戻れるだろう。

 神社の脇は木々に囲まれた広場になっていた。真耶が無言でそこに足を踏み入れる。傘を持った瞬も自然にあとを追うことになる。

 真耶は歩を緩め、ふいに振り返った。あまりに急だったため、顔がぶつかりそうになる。


「ふふ。最近、よく怒るね、お兄ちゃん」


 怒っているように見えるのか。そんなつもりはないが、口やかましく部活に行け、家に真っ直ぐ帰れと言うから、怒っていると思われても仕方がないのかもしれない。

 真耶はずっと笑っていた。


「なんで嬉しそうなんだよ」


 真耶はちらりと瞬を見上げた。


「今まで怒ったところなんて見たことなかったから」


 怒るというよりは不安なのだ。焦っている。気を抜いたら真耶が死んでしまうような気がする。瞬は必死なだけだった。


「千世太が、言ってた」


 真耶に、危険を伴う道は歩かせられない。道を誤りそうなら手を引いて連れ戻さないと。


「大学生くらいの茶髪の男と歩いてたって」


「ああ」


 真耶はとても退屈そうな返事をした。


「千世ちゃん、見てたんだ。声かけてくれたら助かったのに」


 男と歩いていたことは事実らしい。


「なんでもない。ただの知り合いだよ。原チャとか乗せて駅まで送ってくれたりするから便利だなぁと思ってただけ」


 真耶は明らかにその男を軽んじていた。

 瞬は真耶の態度も含めてよくないと思う。


「なんでもないと思うなら、仲良くしたら駄目だ。便利とか便利じゃないとか、そんなところで人をはかるものじゃない」


「先生みたいなこと言うね」


「俺は、お前の兄ちゃんとして心配してるんだよ」


「お兄ちゃん、ねぇ……」


 真耶はだんだん不機嫌になっていった。


「わかった。もう関わらない。どうせもう切るつもりだったから、いい。つまんないやつだったし。『彼氏いないなら付き合おうよ。ならとりあえず俺でいいじゃん』って、超しつこくて、うんざりしてたの」


 投げやりな言い方。言葉を正しく受け取るまでに少しの間があった。瞬は気づいた。


「好きな人、いない?」


 少なくとも真耶はその男にそう言ったのだ。

 真耶がふっと真顔になる。


「いないよ」


「いないの?」


「いるかも」


「どっち」


 真耶はじぃっと瞬を見つめた。肩が触れる。顔が近い。


「気になるの?」


「なる」


「お兄ちゃんだから?」


「わからない」


「じゃあ教えない」


「なんで」


「じゃあいないってことにする」


「いるだろ」


「また怒ってる」


 瞬は足を止めた。真耶が一歩先へ跳び出してしまう。ぽつぽつと雨のしずくが夏用の白いセーラー服に斑点をつくっていく。


「新谷先生?」


 瞬が千世太以外で最も可能性があると思った人物だった。真耶は新谷によく懐いている。そんな気がする。


「誰がいつそんなこと言ったの?」


「少なくとも俺じゃないんだろ」


「え?」


「俺じゃないんだ」


 瞬は真耶に傘を押し付けた。しかし彼女の手はそれを受け取らなかった。傘は重力に従ってふわりと地面に落ちる。骨が一本、ぐにゃんと曲がって、折れた。


 わけもわからなくなるほど頭の中が熱かった。その場から走り出そうとするがなにかが袖をつかんでいて、動けなかった。


「誰が、いつ、そんなこと言ったの?」


 見ると、真耶が顔を真っ赤にして瞬のシャツをぎゅっと握っていた。

 怒っているようで、泣きそうにも見える。喉元でなにかをこらえている。苦し気な表情だった。


「自分で、言ってたろ。ほかに好きな人いるって」


「聞いてたの?」


「ごめん」


 真耶はうつむいた。髪と制服が重く濡れていく。


「嘘じゃないよ」


「え」


「ほかに好きな人、いるよ」


 瞬はなにも言えない。知っている。聞いていたから。


「ほかにも」


 真耶は言葉を付け足した。

 ほかに、

 も、ってなんだ。

 それって。それって、どういう。


「瞬ちゃん」


 名前で呼ぶ。頭の側面で脈を感じられるほど鼓動が強い。

 真耶は瞬のシャツの袖を強く引いた。体が揺れて一歩真耶に近づく。2人の間の距離がほとんどゼロになる。真耶の濡れた髪が首筋をなでる。瞬は真耶の顔を覗き込んだ。雨粒が赤い唇に落ち、顎をつたっていく。瞬は真耶にそっと口づけた。

 唇を話した直後から、もう顔を見られなくなった。瞬は落ちた傘も真耶もそこに置いて、走り出した。服も髪も靴も、すぐにずぶ濡れになった。


 家に帰っても風呂にも入らず、タオルだけかぶって部屋に籠った。


 なにを。なにをしたんだろう。馬鹿か俺は。


 身体が冷えていくのに気づかないほど動揺していた。

 夕食の支度が整う頃に瞬は発熱した。みるみる熱が上がり、塾に行けなくなった。

 翌日も熱は下がらず、瞬は学校を欠席した。



 その日の放課後、真耶は茶髪の男にナイフで刺されて死んだ。



 やり直したら全部なかったことになる。

 キスしたことも。

 なかったことにした方がいいのだろう。

 でも、そうしたくない気持ちもあった。

 いや。問題はそこじゃない。

 真耶が死んだ。だからやり直す。それだけ。


 あんな、あんなことに、特別な意味なんかない。

 なにもなかった。


 それ以上、考えない。

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