デスマーチ解決するならゲーム世界に行こう~月まで歩め~

モト

第1章1

 今日は塔之原高校の終業式、皆にとっては待ちに待った夏休みのスタートだ。

 しかし文原綾ふみはらあやにとっては、一人で生き延びねばならない過酷な生活の幕開きだった。

 文原綾は美術部所属の一年生。考え込みながらのとぼとぼした足取りで、美術教室にひとり向かう。夏休みは自宅で油絵の続きを描くつもりだった。もうお金も食べ物も尽きているのだけれど、これだけは決して止められない。生きていくためには、なによりも必要なのだから。

 部員用の鍵で扉を開き、静かな美術教室に足を踏み入れる。教室の奥は資料室につながっていて、そこは美術部の荷物置き場と化していた。

 今日は部活も休み、誰もいないと思っていたのに気配がある。半開きになった資料室の扉から中をうかがうと、綾用の棚から絵を取り出している者がいた。数枚の絵が大きな布袋へぞんざいに放り込まれている。綾が描いたものばかりだ。さらに描きかけの絵が手に取られ、じろじろと眺め回されていた。どうやら、綾の絵が完成しているのか判別がつかないらしい。その絵も放り込まれようとしたところで、

「先輩、なにをしているんです!」

 綾の叫びで、先輩は痙攣したように跳ね上がる。一瞬、先輩は卑屈な謝罪の表情を浮かべかけたが、振り返って綾が視界に入ると、それを取り消して見下した笑みを作った。先輩が絵を落とさなかったことに綾はほっとしつつ、冷たく視線を突き刺す。

「あ、綾じゃないの、そっちこそどうしたの」

 先輩は急に胸を張ってみせた。上級生とはいえ評判の悪い幽霊部員だというのに、先輩たる権力は最大限に主張するつもりのようだ。

「それは私の絵です」

 棚と布袋に視線を走らせて、絵の枚数を数えてみる。綾は血の気が引いた。三枚足りない。あれは人に見せるため描いた絵じゃないのに。あれだけが彼女とのつながりなのに。

 綾は静かに、しかし声に怒りをこめて、

「先輩、私の絵をどうしたんです」

 詰め寄る綾から数歩遠ざかって、腕を組んだ姿で棚に寄りかかり、先輩は猫なで声で言った。

「見てみたいって人がいるから、渡してあげたのよ。あなただって、自分のゲームイラストに人気があるのはうれしいでしょうもん」

「ゲームイラスト?」

 綾はきょとんとした。綾はずっと、ただ一人の少女を描き続けていた。綾が小学生の頃には、拙い筆で幼い姿の少女を。綾が歳をとるにつれてその姿も共に成長していき、今では活発そうな十六歳ぐらいの少女となっていた。

 先輩は大きな態度で、

「あれってゲームの、ペイガン・ゴッドのイラストじゃないの。美術部でゲームキャラのイラストを描くなんて、どういう勘違いしてるのかしらねえ」

 先輩は、状況をごまかすために適当なことを言っているのだ。心の聖域を侮辱されたことに、綾はかっとなった。ずっと描いてきたのは、幼い頃から脳裏に浮かぶ少女の姿。母を失ってつらかったときも、心の中に彼女がいたから耐えられた。ぼんやりしているけれども、いつかはたどり着けるのではないかと描き追い求めてきた面影なのだ。

 断罪の叫びを上げたくなる自分を懸命に押し止める。自分を説得する。駄目だ、駄目だ。また父に去られたときのようなことを繰り返すつもりか。

 押し黙って拳を震わせる綾の姿に、先輩は優位を取ったと勘違いしたのか畳み掛ける。

「後輩を指導するのは先輩の務めですもんね。全部没収されても文句はないわね」

 先輩は扉のほうに顔を向け、勝ち誇った表情を浮かべた。背高で、がっしりした男が入ってくる。他校の制服を着ていた。手には空の布袋を提げている。

「遅かったじゃないの。あたし一人で運ばせるつもり?」

 先輩が男に拗ねた声をかける。

「取り込み中か」男はぶしつけに綾を下から上まで眺め、「話に聞いていたより、ずっときれいじゃないか。けど、うるさそうだな」

「だから指導してあげてるのよ。美術部でゲームの絵を描いたりするから、ボッシューだってね」

 先輩は手にしていた絵を男に押し付けて、ポケットから煙草の箱を取り出した。一本抜いたところに、

「……吸うな。絵にヤニが付く」

 ぼそりと綾が告げる。

「は、はい!」

 先輩は思わず煙草をポケットに戻そうとして、はっとした。

「おい、お前のほうが指導されてるじゃねえか」

 男が妙な顔で先輩と綾を見る。

「この子、変な噂があってさ」先輩は不気味そうに綾を見つめた。「この子の言葉で、よく変なことが起きるとか」

「絵を、返せ」

 にらみつけてくる綾に、男は面倒臭そうな態度でナイフを出して見せた。

「こういう強情そうなのは、泣かせばすぐ落ちるんだよ」

 手にした絵にナイフを向ける。先輩は慌てて、

「それも売れるのに」

「こんなにあるんだ。一枚ぐらいどうってことないだろ」

 描かれた少女の心臓あたりに、ナイフが突きつけられる。絵の中の少女は凛として立ち、その手には身長よりも長い大きな刃物が構えられていた。猛々しくも優しい瞳でこちらをまっすぐ見つめている。愛する者のためには犠牲になることをいとわない目だ。

 綾にはもう耐えられなかった。少女の胸に刃物が刺さる光景は、思い浮かべただけで綾の心臓を締め上げる。声が漏れた。

「お、泣くか、泣くのか」

 男はにやにやする。綾の眼に光るものがあった。彼女を汚すことは許せない。絶対に許せない! 言葉が綾からあふれようとしている。

〈許さない……〉

 上から声が響いてきた。いぶかしげに、男と先輩は天井を見上げた。放送用スピーカーが鳴っている。流れてくるのは綾の声だ。

〈決して許さない!〉

「な、なにこれ?」

 異様な雰囲気に先輩は男の陰へと後ずさる。男と先輩のポケットから同時に携帯の着信音が鳴り、二人はぎょっとした。脅迫するかのように激しい呼び出し音で、慌てて携帯を手に取って耳に当てる。

〈絵をどこにやった〉

 二人が聞いたのは綾の声だった。

「ひっ!」

 先輩は小さく叫び、恐怖にかられて通話を切る。直ちにメールの着信音が鳴った。表題は「絵を返せ」。次々にメールが届く。いずれも表題は同じ。

 先輩は男に助けを頼もうとした。口を開いた。自分の口から、

〈絵を返せ!〉

 綾の声が飛び出した。男は手からナイフを取り落とす。革靴に刺さった。恐怖にかられ、男は綾に向かって叫ぶ。その声もまた、

〈絵を返すんだ!〉

 そのとき、先輩の眼に映っている綾の髪と瞳が、力強く銀色の光に輝いた。

〈語れ! 真を語れ! 汝が魂に刻まれし言葉を解き放て!〉

 命じている。心に屈服を迫っている。こじ開けてくる言葉に先輩は懸命に抵抗しようとするが、声を上げることもできない。綾の叩きつける言葉が、まるで鋭い鋼糸のごとく男と先輩の精神に絡みつき、締め上げ、食い込み、突き刺してくる。銀色の光が資料室を満たす。

〈絵の行方を語れ!〉〈語れ 語れ!〉

 男と先輩は必死に口をぱくぱくとさせる。自分の心が分解されそうな苦しさに息もできないのだ。綾は少しだけ言葉を弱める。

 尋問が終わった。綾はその瞳に銀の残滓を見せながら、自分の棚にある絵を全部布袋に詰め込んで部屋を出て行った。

 男と先輩は息も絶え絶えにへたりこむ。化け物だ。人間じゃない。そう叫びたいのに、先輩の言葉は根こそぎ綾に奪われて、どうしても使うことができなかった。

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