応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  •  笑いましたー。

    「えっ? 何、言ってるの従兄さん?」

     このセリフが、ほんとじわじわ来ます笑

    作者からの返信

    コメント有難うございます。

    わーい。ウケた。

    でも、こういうサキを貸したからこそ、その後、大海人天皇との信頼関係を構築し、舎人の娘でありながら、県犬飼三千代の最初の結婚相手が皇族なんていう、破格の扱いになったのではないか?と、思いたい。

  • 失礼します。同題異話SRの主催者の香鳴です。
    応援コメントではなくてすみません。

    企画開催中にタイトルを変更されてしまいますと、同題異話SRの側からはルール違反となってしまいます。
    タイトルを修整いただくか、同題異話SRの参加を外していただければと存じます。
    よろしくお願いいたします。

    作者からの返信

    わわっ。
    (早く修正しなきゃ!)って、いうのに気をとられ、修正した後は、すっかり、返信した気になってしまっていました。
    重ね重ねすみません。

    で、改めて、

    申し訳ございません。
    なんでか、いつの間にか脳内で、
    『表題タイトル』を『エピソードタイトル』に変換してしまっていました。
    お手数おかけいたしました。

  • この頃は、実際に暗殺や権力争いは日常だったのでしょうね。

    作者からの返信

    葛野王は、いつ葬られてもおかしくない立ち位置だったと思います。

    それが、持統天皇の統治の終盤で、国にとって一番の大事だと思われる、皇太子擁立の議論に参加してもおかしくない地位を陣取っている。しかも、時の統治者である持統天皇の意向がそうであったとしても、天武天皇の皇子を一喝して、恥をかかせている。

    天武天皇の御代で、十市皇女が生存している間なら、生存は可能でしょうが、十市皇女が、普通に亡くなったのであれば、その後は、いつ闇から闇に葬られてもおかしくなかったと思うのです。

    「よっぽどの命の担保が無いと、無理なんじゃね?」と思って、こんな風になりました。
    私の妄想上の彼は、かなり鬼畜で、書いてて面白くなったので、今、また書いてます。

    編集済
  • 丑の刻まいり。実は自分もそれしか思い浮かばずに書いていたので、興味を持って読ませていただきました。同じものをテーマにしているのに、読んでみたらやっぱり全然違いました。
    人のどろどろした感じがよく出ていると思います。残酷な感じがあって、特に於夏が不憫ですね。
    史実を元にされていたそうですが、考えながら読んでも分からなかったです。一体、元はどんな話だったんでしょうか。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    於夏が丑の刻参りを行ったのは、823~4年を想定してます。

    元の話は、『平家物語』の読み本系異本の「剣巻」より。
    wikiの『橋姫』に掲載されてました。

    「嵯峨天皇の御代に公卿の娘が~」なので、ギリギリ違うのですが、緒夏の父親の藤原内麻呂は公卿です。

    史実部分。<実名>
    ①:藤原良房と緒夏は、異母叔母と甥の関係である事。
    ②:高津内親王が廃妃され、815年に橘嘉智子が皇后、多治比高子が妃にそれぞれ立てられた事。
    ③:嵯峨天皇が譲位する時、藤原冬嗣は、凶作(旱魃)が続き、財政負担が大きいと反対した事
    ④:源潔姫が、良房の元に降嫁した事。
    ⑤:多治比高子の死亡年が825年。
    ⑥:橘嘉智子が、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示した事。


    推理部分。
    ◎:緒夏が嵯峨天皇の夫人になったのは、冬嗣による②の功績以降。

    フィクション部分
    ◎:緒夏が貴船神社で丑の刻参りを行った(行わされた)。

    ◎:橋姫の正体
    妬み=橘嘉智子
    肉体=藤原緒夏
    実行者=伊邪那美(黄泉津大神)
    「宇治川に21日間浸る」部分を伊邪那美が補完したって感じでしょうか。

    ◎:伊邪那美が緒夏の肉体を自由に使役できる程馴染む迄に1~2年かかった設定。

    …って感じで考えました。