狂女との出会いは、血染めと共に

 その時だった。一陣の風と共に、僕の頬を何物かが掠めたのは。


 僕は襲る、襲るといった様子で、瞳を開けるとなんとそこには、僕の身の丈を遥かに超える巨大な大剣が、あの奇天烈で、理解不能で、気持ちの悪い生き物であるところの獣の頭部に見事に突き刺さっているではないか。


 流石のあの化け物も生物ということだけあって、謎の攻撃によって完全に絶命したと見え、頭部に至ってはその中身が飛び出ており、完全に砕け散っている。


 僕はその事態に、自身の生命が助かったということと、この事態を引き起こしたものが何者であるかについて考えを巡らせる。


 常識の範疇に照らし合わせれば空から大剣がとんでくることなど、当然普通の所業ではないし、あきらかに人為的な介入がなければ不可能なことである。


 目の前の大剣は、僕の見た所とてもじゃないが人が軽々と震える様な代物ではなく、仮に振るうことのできる者がいたとしても、それこそ巨人のような力と背丈が必要だ。


 こんな世界だ。巨人の一つ存在していたとしても何ら不思議ではないが、僕の願望を言えばいないで欲しい。仮にいたとしても絶対に関わり合いを持ちたくはない。


 それにしてもあの大剣が投げられるタイミングは、まさに絶妙で、僕の命の灯が消えるといったまさにその刹那の時を狙って投げられている。


 そのタイミングは運命と呼ぶにはあまりにも過言で、まるで何処からか僕を見ていたかのような正確差だ。


 ただこの場合においてその様な事は、重要ではなく、大事なのはあの大剣が僕の命を助けたという事実だ。


 この世界は明らかに狂っているのは、誰の目から見ても明らかで、仮に人が生きているのだとしたらそんな世界で生き抜くのは実に難しい。それこそ自身の命を保つので、精一杯なはずで、他者の命に情けを駆けることなど通常の範疇では、考えられない。


 仮に助けるにしてもそれは何らかのメリットがあるからであり、少なくとも僕の様な何もない人間を助けた所で、当事者にとっては何の助けにもならず、むしろ自身の命を危険に晒すデメリットしかないはずなのだ。


 そうであるというのに、僕はこうして命を繋ぐことに成功している、成功してしまっている。


「これ以上考えるのはよそう」


 これ以上考えると自身の存在意義を否定しかねない。それは耐えられない事であるし、何より折角拾った命を今すぐに投げ出しかねない。こうも陰鬱な考え方をしてしまうのは、やはりあの月。上空で絢爛に輝く紅き月のせいなのかもしれない。


 あれを見るのは危険だ。具体的に何が危険なのかは、わからない。でも僕の内に眠る人間としての性があれを見るのは止めろと警鐘を鳴らすのだ。


「あは。無事そうで。よかった」


 そんな折だった。女性と思われる声が僕の背から唐突に聞こえたのは。


 一体いつの間に現れたのか、僕にはまるで分らなかった。きっと声をかけられていなければ、僕は今も尚その存在に気づいていなかっただろう。


「大丈夫? 怪我とかしていない?」


 雪の様に白い髪と肌をもったそんな不思議で、独特な雰囲気を放った女性だった。


 女性は僕の身体をペタペタと不躾に触りながら、一人頷いている。


「うん。大丈夫そうだね。本当によかったよ。もしあなたに何かあったら私、今後生きていけないもの。うん。本当によかった」


 彼女は、どうやら僕が生存している事に喜んでくれているようだが、生憎過去の記憶のない僕には、どうして彼女がそこまで喜んでくれているのかまるで理解できない。


 でもどこか懐かしさを感じる様な、親しみを感じているような、そんな気持ちが、感情が胸の奥底から湧いていた。


「もしかして君があの剣の持ち主なの……?」


 僕は襲る襲る彼女にそう尋ねると、彼女は首をコクリと縦に振った。


「そうか。やっぱり君……のなんだ」


 その事実に関しては、何ら疑いのない事実で、実際彼女の現れたタイミングを考えば誰だって思いつくだろう。


 だが彼女の図体は、僕の予想していた物よりも明らかに華奢であり、その立ち姿は可憐とさえ言ってもいい。そんな図体であの大剣を振るうなどとてもじゃないが信用できない。いや、そもそも僕はこの女性その物を信用できない。


 彼女は何故僕の事を自身の全てというが、どうしてそうであるのか何ら語ってはくれないし、僕を助けてくれた理由についても同義。


 彼女にとってあの化け物は未知の存在じゃないにしても、彼女が人間である以上危険な存在であるのは、変わらないはずなのだ。


 誰だって危険に自ら突っ込むような真似したくないだろうし、するメリットがない。


 それに僕は別に偉い人物でもなければ、何かを差し上げることのできる程お金も物も持っていない。


 実に無価値な人間で、このような状況下の中で、もっとも見放すべき存在なのだ。


 にも拘わらず目の前の女性は僕を助け、あまつさえ生存しているという事実に喜んでくれてさえいる。はっきり言ってしまえば異常と言わざるを得ない。


「君はどうして僕の事を助けてくれたの……?」

「そんなの君が私のだからに決まっているじゃない」


 女性は僕の質問が愉快だったのか、ケラケラと笑い、その形のよい唇を三日月型にゆがめ、楽しそうな表情を浮かべている。


 肝心の僕と言えばその女性の様子に、わずかばかりの気味の悪さを感じていた。


 自身の命の恩人相手にそう言った感情を抱くのは、失礼極まりない行為というのはわかってはいるのだけれど、してはいけない行為だというのはわかっているのだけれど、そう思わざるにはいられない。


 それほどにまでこの時の彼女は、狂気的で、不気味で、気持ちの悪い表情を浮かべていて、先ほどまで感じていた懐かしさや親しみを吹き飛ばしてしまうほどに。


 女性はひとしきり笑うと、真面目な表情でこちらの瞳をのぞき込むようにして見つめていた。


 相手は曲がりなりにも美女ということもあって、その行動にわずかばかりの恥ずかしさを感じてはしまうのだけれど、彼女の瞳が僕に『逸らさないで』と言っているようで、恥ずかしさを胸の奥底に押し込み、僕もまた彼女の瞳をのぞき込み。


 その瞳はやはりというか、やっぱりというか、およそ正気と呼べるものではなく、元は眩い金色の色を放っていたその瞳は、わずかばかりの面影を残してドス黒く変色し、濁り、まるでこの世の闇全てが彼女の瞳の中に眠っていると言わんばかりの、そんな情景を映している。


 こんな世界でその様な瞳になってしまうのは、ある意味必然の事柄も知れず、僕の瞳もまた今はこんな色をしているのかもしれない。


 だからこそ僕は、逸らさない。彼女の瞳を見ていて、正気が削がれそうになっている今でも、僕は逸らさない。


「あは‼ あはは‼ あはははは‼ やっぱり君は、君だね。うん。やっぱり君の瞳は綺麗だ」


 彼女の言葉をそのまま鵜呑みにすれば、僕の瞳はどうやら未だ綺麗らしい。何をもって、どういったところが綺麗なのかは甚だ疑問ではあるのだけれど、深く追求はしなかった。


「ねぇ。君にとって私はどう見える?」


 僕には彼女の心意はわからないし、理解する気もあまりないし、少なくとも理解したらそれこそ終わりの様な気がする。


「君は人間だよ。少なくとも僕から見れば君は紛れもない人間だ」


 この時僕は不覚考えず、正直にそう言った。狂人とてその言葉に記されている通り紛れもない人であり、その定義に当てはめれば紛れもない彼女は人間なのだ。


「そっか。そっか。うん。そっか。うん。うん」


 何かを納得するかのように彼女は、繰り返し頷くと、またしても愉快そうな笑みを浮かべた。


 ただその笑みは先程までの元は全く違う。とても綺麗で、汚れのない純度100%の心からの笑顔で、その笑顔は彼女の存在が善であることを見事に証明しており、信用に値する人物であるという根拠には充分すぎる者だった。

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