追憶

 なんだい、アタシなんかに用がある婆さんてのは、アンタかい? ………。女衒じゃなさそうだね、旦那様がいつお呼びになるかも分からないから、長話はすんなよ。

 …は? せんぎょう? せんぎょう、せんぎょう、せんぎょう………。

 知らないね、そんな奴。探し人なら―――。………。………。……なんでそんな事まで知ってんだい、アタシの前の職場のことなんて。は? エルサレムの娼婦全員に聞いてる? …それ、アタシも数えてんのかい。そんなにご執心とありゃ、ちょいと思い出してやらなきゃねえ。めいどの土産だ。

 …アンタの探し人? これがその似顔絵かい。…これ、男? いや、男なら心当たりあるよ。髪が腰まで長くて、一瞬女かと思うくらいの…それでなくてもそいつは髭が無くて………なに? それが、せんぎょうだって? 驚いた! こりゃなんていう偶然! ちょい待ち、水差されないようにしとく。

 ………。………! ………? ………! ………。

 いやあ、すまないね、ちょっとこざかしい奴しかいなかったもんだからさ。で? せんぎょうさんのことが聞きたいんだっけ? 娼婦の世界の話だよ、婆さんみたいな身持ちの良さそうな奴には分からない世界だよ。………分かる? へー、少しは苦労してたんだ。んじゃ、腹割って話そうかね。


 あれは確か、アタシがエルサレム神殿に住みついて十二回目の仮庵祭かりいおさい…の、少し前だったね。なんでって、その時期ってのは皆稼ぎ時だけど、司祭共が気むずかしくて、ちょっとその辺りを間違えると大怪我するからさ。上下の口が忙しかったのよ。ましてやアタシは年期が行っててね。とにかく口先手先だけで、娼婦でいたのさ。占いなんて、ついぞ習うヒマもアテも縁もなかったね。

 神殿が妙に寂しくなってたんだよ、なんでかは知らないんだけどね。なんかいい見世物があったらしくて、皆そっちに行っちまっててね。あの時期じゃ珍しいことだったから、よく覚えてる。

 そこにさ、いやあ、ありゃ、一瞬天使かと思ったよ、それくらい綺麗な奴だった。

 長い髪と上着に裸を隠してさ、顔色は少し悪かったけど、肉付きのいいふっくらした頬に、悲しそうな、恋に破れたみたいな大きな瞳、それにあの手入れの行き届いた綺麗な髪! アタシら娼婦ってのは髪は切っちまうもんだから、尚のことその長さと綺麗さが引き立ってて…今でも鮮明に思い出せるよ、名前すら知らなかった、その人だけどね。

「おい、おい兄さん、ちょいと兄さん!」

 ぼんやりとしたカンジで神殿の方に行こうとするからさ、思わず引き留めたよ。だって裸の上にちょっと上着を引っかけただけなんだよ? 下着どころか肌着だって着けてないんだ。

「そんなナリじゃ、姦通の男と間違えられるよ! 追いはぎに遭ったのかい?」

 その兄さんは、今にも泣き出しそうな眼で見つめ返してきたから、アタシもじっと見すえてやったよ。なんか、言葉に上手く出来なかったんだ。アタシゃ学がないからねえ。あの当時は今よりももっと学がなかった。いやだよ、若いって言うのは、それだけでモノを知らないんだからね。

 でも、こんなしわくちゃのババアになって思い返すと、アレはいわゆる、ほっとけないって奴だったんだと思うよ。あんまりにもヒドい目に遭いましたって顔してたから。別にほっといても、そいつがギタギタにされても、何もアタシには関係ないんだけど、なんかこう、心にキちゃったんだよねえ。

「…なんかあったのかい? 金をくれるなら話聞いてやるし、口利きが必要ならやってやるよ。」

「かね………。かね、は…ない。………とられた。」

「あっそ。じゃこれ以上はぎ取れるモノはないんだね。じゃ、命を剥ぎ取られないように気を漬けな。」

「………。………。いくらだ?」

「は?」

「ぼくも一応、仕事人だ。アンタはいくら? その分、ぼくを売ろう。………今は、人恋しい気分だ。」

「なんでえ、同業者かい。ならいいよ、仕事の合間のダベりだ。こっちに来な、少しは静かなところがいいだろ。」

 ん? 驚かなかったのかって? そりゃアンタ、底辺娼婦の世界なんて、変な趣味に合わせてこそだからね。どんなむちゃくちゃな頼みでも、聞かなきゃ食ってけないのさ。オトコの自信を失した奴なんかはでも、アタリ客だね。どこも痛めないで、泣き言聞いてりゃいいだけなんだからさ。この時もその手のことだろうと思ったんだよ。仕事人が気分をもり立てられなかったら、そりゃ客は怒って、儲けを根こそぎとってくさ。でもまあ、こんな死体置き場みたいな場所にこんな綺麗な子が売られてたら、それだけでも儲けモンだと思うけどねえ。全く、小金持ちはこれだからいけないよ。

「仕事、失敗したのかい?」

 アタシがいつも、一服吐ける池の傍まで案内した。アタシが足を突っ込んで坐ると、兄さんは少し裾を引き上げて、同じように池に足を入れた。臑毛の一本もない、女よりも綺麗な脚だったよ。

「…仕事…を、しようと、思って…一人で、生きてかなけりゃって…。…で…騙された。」

「へえ、ヤり逃げ?」

「………客、が…。罠で………。陥れたい奴の、ダシにされた。」

「そりゃいけねえや。今後の仕事にも差しさわるね。」

「………うん、だから………追い出されて、あてどもなく歩いてたら、ここに。」

「じゃ、エルサレムのどっかの共同体にいたのかい。どこの辺りの奴らだ? アタシもこの商売長いから、説明してやってもいいよ。…あ、金は無いならいいよ、出世払いで。アタシゃ義理堅いのさ。」

「………。ううん、いい。」

「あっそ。…だからって、どこかの仲間入りするアテもないんだろ? まあ…アンタほど綺麗なら、女好きの旦那さんでも身請けしそうだけどねぇ。」

「………。綺麗? ぼくが? どうして?」

 その時になって、兄さんはやっとアタシを見て話をしたよ。どこか伏し目がちで、心ここにあらずな受け答えだったけど、その時やっと、兄さんはアタシを視たよ。

「言われないかい? アンタの武器だろう?」

「………。肌、は…滑らかだって、よく言われる。………おしりが特に。」

「へえ? そりゃゴキゲンだ。手持ちがあったら触っておきたいね。…あ、いいよ。今は。」

 だってそうだろう。娼婦っていうのは、体の外側のヒフから内側のヒフまで、全部商品なんだ。ちょっとやそっとの金しか出せないなら、触るべきじゃない。

「…でも、ぼくは自分では、綺麗だと思ったことはない。………ぼくは、凄く醜い魂で、皆を騙して生きてきたから。」

「何気取ってんだい。買う方も売る方もおんなじ様なもんだよ。オトコもオンナも区別なんかねえさ。」

「………。そうかな?」

「娼婦であろうと、誰かの妾であろうと、誰かの奴隷であろうと、皆汚いよ、アタシから見りゃね。アタシが旦那を亡くして、一族全員からもう子供は産めないからと、次々捨てられて追い出されていった時は、そりゃもう、全員悪霊憑きに見えたよ。娘が居たときは、気立ての良い娘を嫁に貰いたくて、旦那諸共良くしてくれたから、余計にねえ。」

「………。今でも、旦那さんのこと、愛してる?」

「あはは、心の底から愛してるなら、娼婦じゃなくて、操を守って勉強して占い師になったさ。…でもまあ、頭が悪くてねえ。愛だけじゃ食ってけない。独り身だとしても、餓えて死ぬのはイヤだよ、ずっと苦しいまま弱っていくのは怖い。」

「…そう、愛だけじゃ、食べていけなかった。…お金があっても、愛だけじゃ、生きていけなかった。」

「………。そりゃ、アンタのイイ人の話かい。よかったら聞かせておくれよ。」

「…つまんないよ?」

「さっきからアタシばっか喋って疲れたんだよ。いいから聞かせなよ。」

 ちょっと心を開いてくれたかなって思って、アタシは片足を上げて座り直した。尻が痛くなりそうだったからね。下手に尻が捩れると、仕事に障るから。でも兄さんは、アタシが股ン中が見えるくらいに脚を立てると、ちょっと考えて、ぺたんとアタシに半分だけ胡座をかかせた。

「…どんな相手にも、安売りはしない方が良い。」

「あれま、こりゃ一本とられたね。まあいいや。それより、アンタのイイ人の話、話!」

 今にも零れそうなまでに光る瞳が、あまりにも悲しそうだったけれども、それはそれで、昔の幸せを思っているようだった。その顔を見て、そのイイ人がもう死んでるんだってことが分かった。

「…職人でね。少年娼婦だったぼくを引き取って…。長男のように育ててくれたよ。…時々、その、色々あると…妻―――つまりぼくの母だけど、母じゃなくて、ぼくを愛してくれた。」

 愛して、か。抱いて、じゃないんだ。心底通じ合った相手だったんだろう。でも引き取った父親って言うところからして、もうなんというか、やりきれないねえ。子供として引き取って、自分以外には商売をして欲しくなかったのかねえ、なら奴隷にしてあげればいいものを。アタシゃ律法に触れるような結婚生活じゃなかったから良くわかんないけど、引き取った子供であっても、子供を抱いたらマズイんじゃないだろうかねえ。まあ、父親が息子をってだけで、大分いろいろ祭司達に殺されそうな案件だけどね。

「だけど父は、途中で、ぼくは跡継ぎじゃないって、村を出て行けって言って…。それで、村を飛び出してる間に、父は苦しみながら逝ったらしい。体中に黴が生えて、最期には気がおかしくなって、悪霊憑きとして石で殺されたんだってさ。」

「…ソーゼツ………。」

 決して兄さんは涙を見せなかったけど、アタシにはあの綺麗な瞳が、きらきら光るのが、涙を流しているように見えたよ。きらきらきらきら、ぽろぽろぽろぽろ。

「…父に、嫌われてでも、村にいたかったな…。そうしたら、石を退かして、死体になった顔にいくらでも口付けてあげられたのに…。………死体でもいいから、最期にぼくの腕に抱きしめたかった。………村を出た時、ぼくにぶつけた罵声を信じて、…どうして村を出たんだろう。…彼がそんな酷い事を言う人じゃないって、ぼくは分かってた筈なのに。」

「…会いたいんだね。」

「会いたい…。どんな言葉もいらないよ。無言でいいから抱かれたい。愛されたい。彼に愛されたい。」

 涙なんて枯れちまったって事なのかねえ。声を絞られながら、俯いた顔を映す池にはいくつも波紋が広がるのに、それでも涙は一滴も出ていなかったのをよく覚えているよ。泣女の逆、っていうのかね。それとも娼婦を買わないような高潔な男ってのは、みんな泣かないもんなのかね。小さな声で、イイ人の名前らしい言葉を何度も繰り返して、下手な女の失恋よりも可哀相だったよ。

 生きてさえいれば、風の噂がどこからか聞こえるかも知れないって言う、そんな実のない希望で、女は生きていけるもんさ。男でもそうだ。女が、というより、娼婦が、っていう話だろうけどね。体は売り物、真心は付属品、そんなんだから、恋や愛なんてものには強く憧れる。だからそれを得た娼婦っていうのは、知らないうちに輝いて、値段も上がってく。風の噂で死んだと聞くのでも、泣き暮らしてる娼婦なんざ五万といる。でもこの兄さんの場合は、ちょっと特別だ。

 先に愛があったのか、金があったのか、兄さんの話じゃそこまではよく分からなかったけど、少なくとも兄さんはイイ人のことを心から愛してたんだろ。だけどイイ人は、兄さんの何かが気にくわなくて裏切ったってことだろ。そんな奴、結局その程度の男なんだろうけど…。なんか、フクザツそうな家庭だからねえ。未熟な人間同士の家族には、無理がある家だったのかも知れない。

 

「にっちゃ! にっちゃー!」

 その時、ぱっと兄さんが顔を上げた。男が手を振りながら、ボクだよボクだよ、と走り寄って来ていた。あのお幸せそうな、舌っ足らずの間抜け面、今でもよく覚えてるよ。

「お前…。どうしてここに。」

「にっちゃがいつまでも帰ってこないから、探しに来たの。さ、帰ろ!」

 ぐっと引っ張り上げようとした男の手を打ち払って、兄さんは立ち上がって怒鳴った。

「よくも…よくもそんな事が言えたな! 大衆の面前で、あんな屈辱………あんな茶番をッ!」

「大丈夫だよ、にっちゃが戻っても何も分からないよ。ぼくとの他には誰も分からない。」

 ああ、母親は再婚してたのか。だからあんなにも、前の父親に会いたがってたのか。なんか違うような気もしたけど、その時のアタシはそう思ったよ。

「そういう問題じゃない! い、い、いつ上着がズレて男だとバレるか、気が気じゃなかった! お前は皆に担ぎ上げられて、人の気持ちを考えない! そんなんでラビが勤まるもんか!」

「おばさん、兄を慰めてくれてありがとう。この先の神殿の入り口で、葡萄ぶどう酒を運ぶ商人がいる。彼は今人手が欲しい。行けば彼が、娼婦でなくしてくれるから、行きなさい。」

「聞けよ!」

「??? ふーん。まあ、銭になるなら何でもするよ。耳よりな情報ありがとうね、弟クン。あんまり兄さんを虐めてやるなよ。…じゃ、兄さん、アタシゃその旦那のところに行ってみるよ。達者でね。」


 その後の話? いンや、ついぞトンと聞かなかったね。どうなったんだろうねェ、あの兄さん。でもまあ、幸せになってくれてるといいねえ。

 アンタもそう思って、こんな話を集めてるんだろ? 他にも沢山聞けるといいね、頑張れよ。

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