第二十三節 聖者の行伝

 母はエルサレムに居た。考えてみれば、胸を患って長く、ロバにさえ乗れない母が、鞭を振り回す馬の大群から逃れられる筈がない。母は女弟子の頭角の一人│塔婆女とうばめの母親のフリをして、家畜小屋の藁の中に潜んでいた。

ひこばえを産んだときも家畜小屋だったのよ。懐かしいわねえ。」

 家畜の屎尿の臭いに激しく咳き込みながら、母はそう言って笑って見せた。その様があまりにも痛々しくて、私は海塔に、今すぐ母を連れて出て行くようにと言った。塔婆女とうばめは少しムッとしたような顔をして、私に反論した。

「何でアンタが行かないの? 桂冠けいかんが死んで、これからどんどん寡たちを巡ってアンタ達は対立するでしょう? アタシみたいな嫌われ者が一人か二人いないと、後悔するわよ。」

「自覚があるのかい? なら結構だ、ヘブライストの寡を全員引っ張って、よそに行ってくれ。」

「アンタ分かってないのね! お母さまの一声すら無くなって、どうまとまろうっていうのよ!」

「それはぼく達男の仕事だ。女は出しゃばんないで、言う通りにしてろ。」

「へえ、、男になるのねえ!」

 塔婆女とうばめは唾を吐き捨て、私に詰め寄った。私は顔が引きつらないように、ぐっと力を込めて反論した。

「都合の良いときも何も、ぼくは徹頭徹尾男だ。髭ももみあげもないけどね。…て、そうじゃない、そうじゃないよ、論点は。」

 私は顔を覆い、ぐしゃぐしゃとかき回して整えてから、一呼吸置いて言った。

「そうじゃないんだよ、塔婆女とうばめ。例えば、だ。男どもが大挙して行くのと、女どもがか細い肩を寄せ合って訴状するのでは、圧倒的に後者の方がしおらしいだろ?」

「そじょー?」

「つまりだ。神と呼ばれた人の母である女性を守って、どっかに逃げ延びたら、その先のローマまで行って、メシアの罪状書きを変更して貰うんだよ。メシアは、国家転覆罪と魔術の罪で十字架にかかってる。てことは、ローマが続く限り、メシアは永遠に罪人としてしか名前が残らない。ぼく達がいくらそうではないと言ったって、ローマ人は納得しないだろう。だからね、お前達女の弟子達が、ローマ皇帝に掛け合って、あの十字架が冤罪だったことを訴えてきて欲しいんだ。」

「それ、今じゃないとダメなの?」

「勿論だとも。生前のメシアを知っているくらい初期から、決して神格されたわけでなく、確かに神が人となったということの生き証人がいる時代から、そういう記録を残すんだ。何も行ってすぐに変えろってんじゃない。何度も試練があるだろうさ。結果じゃないんだ、そういう記録が必要なんだよ。」

「記録? なんで?」

「人の命は精々三十年か五十年だ。だけど記録は永遠に残る。石版だろうと羊皮紙だろうと、もし無くなりそうになったら、新しく作り直すことが出来る。人間の命と違ってね。いいかい? 塔婆女とうばめ。これは今後、この世が終わるまでの間、メシアがメシアだったことを証言する人間がどれくらいいたのか、ある日ぽっと出た伝説の集合体でないことを示す足がかりになるんだ。」

「うーん………???」

「まあ、あれだ。つまり、皇帝に何度でも訴えて、メシアの汚名を雪げってことだ。」

「ああ、そういうことね。だったら女は適役だわ、だって産めば継がせられるもの。」

「そうそう、そういうことだ。で、エルサレムは色々なユダヤ教派が犇めいてて、ちょっと物騒だ。だから自分の母親を逃がしたい。ついでと思って、連れてってくれよ。」

 頼むよ、と、私がもう一押しすると、塔婆女とうばめは気をよくして、ふふんと胸を張った。

「わかった! アタシが女達を引き連れて、お母さまもついでに避難させればいいのね!」

「その通りだ。程よい人数で、頼むよ。―――ああ、そうだ、男手が必要なら、恩啓おんけいがいいと思うよ。」

 塔婆女とうばめはもう何も言わず、上機嫌に小屋を出て行った。やりとりを聞いていた母が、胸を押さえながら私の袖を引っ張る。

瞻仰せんぎょう…。」

「………、あはは、お母さん。亜母あおもという名前、気に入ってくれないんですか?」

 知っている筈は無いのに、駒桜こまざくらの罵声を母が知っているような気がした。

「だって、瞻仰せんぎょうという名前は私がつけたんですもの。澹仰せんごうさんだって、悪いことをしたわけではないわ。あの子の望むようにしただけよ、そうでしょう?」

「………。」

 私は母に、メシアが私と澹仰せんごうにした頼み事の話はしていなかった。けれども母のこの口調は―――まるで、ひこばえようだ。

「ねえ、瞻仰せんぎょう。どうして一人で戻ってきたの? どうして駒桜こまざくらさんが一緒じゃないの? 言ってくれなきゃ、母さん分からないわ。」

「………。お母さんは、ぼくだけが戻ってくるのは嫌だったんですか?」

「…ごめんね、言いにくいことを聞いたのね。………瞻仰せんぎょう、ねえ、顔をよく見せて頂戴。」

 少し屈んで、背中の曲がり始めた母と目線を合わせる。母は涙を流しながら、力の籠もらない腕で私の頭を包んだ。

瞻仰せんぎょう、母さん、皆さんと行くけど…。覚えていてね、誰よりも母さんは、貴方たちのことを、貴方の事を愛しているわ。」

 その愛は、私の本性を知っても貫かれるのだろうか。

 きっと明日には、母は旅立つだろう。今生の別れかも知れない。聞くなら今しかない。きっと母は優しい人だから、それでも私を愛すると言ってくれるだろう。言葉が欲しいだけなのだ。居なくなる人からの愛を受け続けることなど出来ないのだから、聞くだけ損はないはずだ。

「………。はい、お母さん。…ぼくも、きびすも、貴方を愛しています。」

 私にはそれしか言えなかった。その言葉だけは嘘ではないからだ。

「ああ、そう、きびすと言えばね。アリマタヤに逃げるって言ってたから、多分あの議員さんの所に居ると思うわ。」

「議員?」

「ええ、ひこばえが死んだとき、お墓をくれた人がいたでしょう? あの人、アリマタヤの人なのよ。きっと彼に匿って貰っていると思うわ。だから瞻仰せんぎょう、迎えに行ってあげてね。」

「分かりました。じゃあ、ぼくは準備が整い次第、アリマタヤに向かいます。司教を補佐せよ、と―――に言われたので。」

 死んでいるはずの桂冠けいかんに導かれた事を、結局言いそびれてしまった。しかし、例え死んでいたとしても、メシアが必要だと言うのなら、墓場から出てきてもおかしくないだろうし、何なら女達に気付かれないように、彼女達が寝静まっている間だけうろつくことだって出来るだろう。

 母は名残惜しそうに私の頭を撫でていたが、ずっとそうされていると、エマオであったことを口走ってしまいそうだったので、疲れているから、と、母を家畜小屋から連れだし、女弟子に預けた。


私がその家で寝る空間はなかったので、三日ほど歩き、母に言われたアリマタヤの協力者の家を訪ねた。

「ごめんください。」

 私が扉を叩くと、年老いた男が顔を出した。

「何だい、施しなら出来ないよ。」

「施しなんざ要らないよ。ただ、。二匹ばかり余ってるんだ。」

「………。」

 男は身体をもう半分出し、周囲に誰もいないことを確認すると、煙が細い筒に吸い込まれていくように、私を家に引き込んだ。

「先生!」

 すぐに若枝わかえが私に飛びついて、よかったよかった、と、号泣した。神授しんじゅも一緒にいるというので、無事を確認しようとしたが、既に眠っていた。鼾をかいていたので、少なくともここでは安心できていたのだろう。少し部屋の中を進むと、きびすが眠っているのを見つけることが出来た。添え木のことまでは分からなかったが、顔の何処にも傷がないようだから、添え木が折れたりはしていないのだろう。

 私も疲れていたので、部屋の隅に座り、若枝わかえの脚を伸ばして寝かせた。目を閉じると、駒桜こまざくらの罵声が聞こえてきそうだったので、私は一晩中、うっすらと目を開けた状態で身体を休めた。

 翌朝早くに、きびすが感極まって泣き出してしまい、私は禄に休めないままになってしまった。昨日は眠っていたらしいアリマタヤの議員とやらにも合うことが出来た。議員の家族は、夕べ私を歓待出来なかったことを詫び、その日一日は私の為に使ってくれるというので、とりあえず半日、神授しんじゅきびす若枝わかえとだけいられるようにして貰った。恐らく迫害から生き延びた事で、彼等も頭がいっぱいなのだろうが、私としては三日三晩歩いた後に禄に眠れなかったことを見て欲しかった。

「それじゃあ、駒桜こまざくらちゃんはガザの方へ行ったんだね?」

「うん、伝令の奴の言うことを聞いていればね。」

「何にせよ、生きているならいいよ、生きているなら。…本当に、桂冠けいかんの殉教は悲惨だったよ。」

 私はそれを聞いて、あの夜、私に伝令を持ってきたのは、桂冠けいかんの霊だと確信した。しかしここでそれを話すと、ややこしくなりそうだったので、この話はすまいと決めた。

「それはそうと、いつ頃エルサレムに戻れる? サマリアにいる限り、確かに律法学者は来ないだろうけど、いつまでもここにいるわけにも行かない。特にお前だよ、きびす。」

「それについては、祈るしかないとしか言えないね。今おいらがエルサレムに戻っても、あの…ええと、なんて言ったかな、とにかくあのチビ助に食われるだけだ。」

 ふうむ、と、空気が重たくなる。自分で言い出したとは言え、少し気まずい。

「でも、先生のお疲れを取るのが第一では? エルサレムから歩いて三日なんて、とてもお疲れの筈です。しばらくは何も考えない時間も必要ですよ。」

「そうしてくれるとありがたい。エルサレムを出てくるときに、少し人を説得したから、まだ疲れてる。」

「え、何それ、聞いてない。」

 しまった、と、私が露骨に嫌な顔をすると、きびすは引っ込んだ。

「まあ…。祈りはおいらの専売特許みたいなものだからね、その為に助祭を作ったんだから。亜母あおもは暫く休んでいて。身も心も疲れ切っていては、本当に動くべき時に動けないからね。それまでは…、どうする? 皆でお昼寝でもする?」

「馬鹿、若枝わかえは嫁入り前なんだぞ、たった一人で男どもの中に寝かせられるか。」

「えっ?」

 そういうと、若枝わかえは何故か意外そうな顔をした。神授しんじゅきびすも、ぽかんとして私を見ている。

「な、なんだよ。」

「いや…。てっきり、若枝わかえを娶るもんだとばかり。」

「んな訳あるかッ! 大体ぼくは―――。」

 反論しようとして、私が即座に否定したことに今度は若枝わかえが傷ついたような顔をする。ああ、もうだめだ。今のぼくは冷静にいられない。ここで口を滑らせて、何も知らない彼等に私の恥部を晒すのもよくない。私はぼすんと床に寝そべって、一言、『寝る』とだけ言い、目を閉じた。若枝わかえに気を遣ったのか、他の二人は何も言わなかったが、若枝わかえは私の手を握り、ぴったりとくっついて横になった。嘗ての大王が晩年そうしていたように、私を元気づけようとしたのだろう。

 そして私は、夢を見た。


 駒桜こまざくらはぶつぶついいながら、寂しい道を、杖を持って歩いていた。桂冠けいかんの言いつけ通り、ガザへ向かって歩いているらしい。私はその姿を、一歩後ろ、一段上の辺りから見ている。駒桜こまざくらは何か明確に苛々している元のようなものがあるらしいが、よくは聞き取れない。まあ、十中八九、私の身の振り方だろう。エルサレムに戻って私を追い出す前に、下るように言われたのだから、不平不満があってもおかしくあるまい。そのように考えていると仮定すると、成程声が不思議と聞き取れるものだが、理解する必要はなさそうだ。

 すると、少し後ろから、馬車が近づいてきた。外国風の馬車、それも、恐らく役人が乗っている。

私は駒桜こまざくらから離れて、その馬車に近づき、中を見た。恐らく、ではあるが、宮仕えをしている者では無かろうか。エジプトの南にあったクシェか、ヌビアから来た客と似たような面差しをしている。ただ、彼の装束は、私は見たことがない。ふむ、高貴な役職ではありそうだが、私には妙な違和感と、そして何故か、親近感を覚えた。

 馬車の中で、彼は何か読んでいるようだった。隣に座っている男は、ユダヤ人だろうか。役人は時折、巻物を指さして尋ねているが、ユダヤ人は何を言われているのか分からないようだった。

「何度も読めば、分かるものなのではないでしょうか。」

 ユダヤ人は少し投げ槍に言った。しかし役人は、よっぽどその書物が気になるらしい。パッと閃いたような顔をして、目線の位置に巻物を持ち上げると、声を張って読み上げた。

「彼は苦しめられどもみづかへりくだりて口を開かず、屠場にひかるる羔羊こうようの如く毛を切る者のまへにも出す羊の如くしてその口を開かざりき。彼は虐待と審判とによりて取去とりされたり。その代の人のうち誰か彼が活るものの地より絶れしことを思ひたりしや。―――うーむ、実に、分からん!」

「そんなものは、五百年以上前、我が国に伝わったものではないですか。今に生きるご主人様に何ももたらしてはくれません。事実、私だってユダヤ人の子孫でこそありますが、それは母の話であって、私はその…ええと、誰が書いたんでしたっけ? とにかくその預言者のことも、その書物のことも聞かされていませんし。」

 ふうん、と、私は納得した。

 彼が読んでいるのは、偉大なる預言者が幻について記した預言書の、五十三章だ。この預言書は非常に長く、機知に富んだ不思議な言い回しをする。それを覚えるのは実に苦行であったが、この章は印象に残っている。何故なら、たった十二節しかない中で、言っていることも単純で簡単だからだ。

「大層、良い、朗読が、聞こえましたが、…ぜぇぜぇ、何を、お読みに、なっているか、…はぁはぁ、お分かり、ですか?」

「―――ぎゃあああっ!」

 すぐ後ろで声がして、驚いて振り向くと、駒桜こまざくらが杖を馬車の淵に引っかけて、今にも乗り上げようと走っていた。ユダヤ人は飛び上がって、げしげしと駒桜こまざくらの手を踏む。

「この賊め! このお方をどなたと心得る!」

「こらお止め! ―――旅の方、貴方はこの書についてご存じですか。これは代々、我が家に伝わる小さな詩なのですが、エルサレムに由来する詩のようなのです。三日ほど前に、エルサレム神殿に初めて詣でて、祭司達に聞いてみたのですが、誰も分からなかったのです。どころか、何人かにはいきなり石を投げられました。これは、歴史の書ですか、それとも哲学の書ですか。或いは文学なのでしょうか。」

「そ、その前に、の、の、乗って良いですか?」

「ああすみません! これ、これ! 客人です、止まって下さい!」

 馬車が止まると、駒桜こまざくらはようやっとの思いで馬車に乗り込み、ぜぇぜぇと呼吸をする。どうぞ、と、差し出された水も、一息に飲み干してしまった。…もし彼等がクシェかヌビアの者だったら、水が足らなくなるのではないだろうか、そう思うくらいに、飲み干した。

「―――さて、えっと、えっと。それは、昔の言葉ですね。現代の言葉では、えっと、お聞きになったことは?」

「いいえ、ありません。」

 唐突に始まった話に、役人はきちんと座って答える。ユダヤ人は面白くないようで、無造作に飲み干された水筒から、僅かな雫を舌に叩き落としていた。

「現代では、私達はこのように唱えます。…ええと、えと、そう。『彼は虐げられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。屠り場に牽かれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐な裁きによって取り去られた。その代の人のうち、誰が思ったであろうか、彼は我が民の咎の為に打たれて、生けるものの地から断たれたのだと』。………えっと、あってるよね?」

 駒桜こまざくらが巻物を覗く。しかしあまりにも古い言葉で、読めなかったようだった、

「おお、おお! 当世の言葉で聞いても何と美しい詩でしょう! この意味が分かれば、この詩はもっと感動的に違いありません。」

「えっと、詩ではないのです。これは、つい半年ほど前に、実際にエルサレムで起きたことについて、預言されたものなのです。」

「なんと、この美しい詩のような出来事が、つい最近に! 是非教えて下さい。」

 えっと、えっと、と、詰まりながらも、駒桜こまざくらは必死に成って、ひこばえがメシアとなるあの三日間の話をした。役人はウンウンと感動して聞いていたが、ユダヤ人はつまらないらしく、寝ていた。こういう所が皮肉にも、あの子が死んだときと同じだ。私達はこの半年、様々な人と出会って、宣べ伝えたが、こういう符合は偶然なのだろうか。

「と、こういうわけで、ひこばえ先生は、神の子メシアとして、私達をお救い下さることが分かったのです。」

 やっとの思いで駒桜こまざくらが話し終えると、役人は感動して何度も頷いた。

「そうなのですね! では、メシアさまは、私のような異邦人でも、このように家宝として縁を持てるように計らって下さったのですね。」

「えっと、えっと、そうですね…。我が共同体にも、異邦人は多くいます。………確か。」

「では、どうぞ私もそこへ加えて下さい。この教えを我が国に持ち帰り、我が主人の皇太后さまに献上いたします。」

「えっと、えっと、水があれば、問題ないのですが…。…まだ、水はありますか?」

 するとユダヤ人は、唾を吐き捨てるように舌打ちをし、答えた。

「どっかの蛮族が、全部飲み干しちまったよ。」

「こら! 失礼だろう!」

「えっと、とりあえず進みましょう。川か何か、あるかも知れません。」

「是非そうしましょう。いっそ我が国にお入りになっては?」

「いや、それはちょっと。」

 駒桜こまざくらが頬を掻いて遠慮するが、感動しているらしい役人は、目を輝かせて口説いている。私は一方で、彼が皇太后に仕えている役人というので、違和感が分かった。道理で、彼のような人が私の客にいなかったはずだ。となると、駒桜こまざくらは彼を共同体には迎え入れないだろう。しかし、桂冠けいかんが示した行き先に、彼が全くの偶然でいたとは思えない。むしろ逆で、彼の荷馬車に駒桜こまざくらを乗せるために、桂冠けいかんは言伝を預かったのに違いないのだ。

 となれば、私の関心は一つだ。即ち―――駒桜こまざくらと私は、和解できるのかということだ。

 時間にしてどれくらいなのか分からないが、役人が口説き疲れるくらいには進んだだろう。

「お役人さま、お役人さまぁ。川がありやす、休んでかれますか?」

「おお! ついに水が! さあさ、先生、どうぞどうぞ。…お前も一緒に受けようではないか、洗礼を!」

 ユダヤ人は答えた。

ので、私は遠慮しておきます。無駄に軽蔑されたくはないです。」

「えっと、洗礼は望むなら誰でも受けられますが…。」

「建前はそうだろうな。いずれにしろ私は興味ないです。ただ、そのお方の熱意は本物なので、その方だけでも認めて下さい。」

「…???」

 駒桜こまざくらは心底分かっていないようだった。本当におめでたい奴だ。否、私が知りすぎているだけなのかも知れない。

「では、少々失敬しますね。この服は仕事着でもあるので、濡らすとよろしくないのです。」

「ああ、どうぞ。私も上着を脱ぎます。」

 服を脱ぎ、下履きだけになった役人を見て、私の推測が当たっていたことを理解する。思ったとおり、平らすぎる身体だ。だが駒桜こまざくらは気付いていないようで、二人で川に入り、駒桜こまざくらは川の中で跪いた役人の頭に手を置いた。

「救い主メシアの名によって、貴方に洗礼を授けます。」

 役人は黙って、水面に食い込むほどに頭を下げた。駒桜こまざくらは自分の説教が、一人、神に立ち返らせる事が出来たことが誇らしいらしく、その表情は悦に入っていた。水面から顔を上げた役人が、感動のあまり涙を流していたのも、駒桜こまざくらを満足させたようだった。

 ところが、川から出て、下履きを着替えようとしたとき、駒桜こまざくらが気付いた。

「? お役人、貴方は女性でしたか?」

「いいえ? 皇太后さまにお仕えするのは、皆男です。」

「その割には、その、なんというか、下履きが小さいというか…。」

 そんな言葉選びはないだろう。

 だが役人は気にせず、あっはっはと笑って答えた。

「ああ、私は宦官かんがんなんですよ。」

「カンカン?」

「かんがん、宦官かんがんです、宦官かんがん。宮廷にお住まいの、私の場合は皇太后さまですが、宮廷の貴人に仕えるために、下半身を女にする手術を受けた男のことです。」

 それを聞いて、駒桜こまざくらの顔が一気に引きつった。しかし、洗礼を授けてしまった手前、どうしても落としどころを見つけたかったらしい。駒桜こまざくらは問いかけた。

「どうして、宦官かんがんになろうと…? 何かの罰で?」

「とんでもない! 宮廷にお仕えする者たるもの、罪人ざいにんではありません。…あ、いや、メシアから見れば皆罪人つみびとなのかもしれませんが。」

「いいから。何故宦官かんがんになったんですか? あ、もしかしてシモの病気?」

 役人は満面の笑みで、誇らしげに言った。

「いいえ! 私は皇太后さまにお仕えしたくて、自ら志願して宦官かんがんになりました。おかげで、このような素晴らしい教えを、皇太后さまにお伝えできます。これはとても幸せなことです。男性器があったら出来る事ではありません。」

 それを聞いて、駒桜こまざくらは顔を背けた。役人には罪悪感に絶望した駒桜こまざくらの表情は見えず、ゆらゆらと立ち去る駒桜こまざくらを、喜びに溢れた表情で送り出した。


 駒桜こまざくらは海岸まで出て、海岸沿いに北へ向かった。来た道とは違うが、アゾトへ向かう方角ではある。その内に夜になり、駒桜こまざくらは海辺にあった誰かの船の中に乗り込んで眠った。眠った筈の駒桜こまざくらが、ふっと起き上がり、立ち上がって、私を見た。

「………。………。」

 どうやら、本当に私を見ているらしい。だが駒桜こまざくらは、私になんと声をかければ良いか、分からないようだった。ずっと待っていても良かったが、私も恐らく、目を覚ましたらここにはいられないのだろうから、私の方から声をかけた。

「良いことをしたね、駒桜こまざくら。あの役人は大層喜んでいたよ。」

「皮肉かよ。子作りの義務を放棄したタマナシなんかを共同体に加えた僕を、詰りにきたんだろ!」

「そんなことするか。ぼくは寧ろ、なんでお前がそんなにタマのあるなしに拘ってるのか聞きたいくらいだ。」

「そんなこと当たり前じゃないか! 子供がいなけりゃ継がせられない。子供がいなけりゃ、メシアの教えは僕達の世代で滅びる。どんなに世界の果てまで、それこそ神の御腕を通り過ぎようとも、一千年を生きる人間なんていないんだ! いいや、仮にいたとしよう、いたとしても、その人間は千一歳になったら死ぬ。そいつに子供がいなかったら、そいつと共にメシアの教えは滅びる! あんな男女おとこんながいたら、共同体が穢れるじゃないか! だってそうだろ!? んだから!」

 興奮して畳みかけてくる駒桜こまざくらの長い怒りを聞ききって、なるべく冷静に、私情を挟まないように、答えた。

「お前の神って誰だ? その名前は? か? それともひこばえという名前を持っていたのか?」

「そんなのは決まってる、ひこばえさまというお名前をお持ちだ。」

「なら問題ないだろう。ひこばえは確かに、その律法を授けた時から存ったと言っていたが、同時に律法を完全なものにすると言っていたじゃないか。現に、神の意志が宦官かんがんを拒むのなら、天使がやってきて拒んだろうし、そもそも川まで馬車を導かないだろう。洗礼を授けるための障害は、洗礼を受けるまでになかっただろ? それが全てだ。」

「そんな訳あるもんか! なら、メシアはユダヤの社会にお生まれにならないはずだ。宦官かんがんになることが認められるような、そんな劣悪な社会にお生まれになって、その社会を正してきよめる筈だ!」

 こいつ、誰に何を言っているのか分かっているのだろうか。

「なら、その劣悪な社会が、ユダヤ社会だったってだけだろ。」

「そんなわけない! そんな訳ないんだ! だってイスラエルは約束されてたんだ、何百年も前から、色々な預言者を通して、神は見て下さっていたんだ、僕達イスラエル人が神に立ち返る姿を、だからひこばえさまという形で、約束を守られたんだ!」

「お前は抑も、ひこばえが生まれた家系を―――母の家系のことを何も知らないんだな。父の家系のことも。」

「はあ? 言うに事欠いて、何の話だよ!」

「なら、エルサレムに戻った時、福銭ふくせんに聞け。あいつは今、『ユダヤ人としてのひこばえ』の資料を集めている筈だ。ひこばえがそもそもどういう血脈で、どういう預言で生まれたのか、聞いてみろ。」

「だから何の―――。」

駒桜こまざくら。」

 怒鳴らないように、と、自分に言い聞かせたら、存外ドスの利いた声が出た。すると私の中で、エマオでの絶望感や諦観が、ふつふつと煮立ってくるのを感じた。どうせ夢逢瀬なのだから、と、私は駒桜こまざくらの前髪を掴み、ガツンと強く自分の頭を打ち込んだ。夢の中なのにちかちかと目を回している駒桜こまざくらの鳩尾に、今度は膝を食い込ませる。吐き戻しそうになって折り曲がった身体の、首の根元を手刀で切り落とすと、駒桜こまざくらは目を回して倒れ込んだ。

駒桜こまざくら、お前の罪をメシアは赦した。だからぼくも、お前の罪を赦そう。そしてお前を愛そう。でも、覚えておけ。はお前を憎悪し軽蔑する。お前達がするからだ。」

 そのように吐き捨てて、倒れ伏す駒桜こまざくらを脚でひっくり返し、ぐっと顔を近づけて、更に凄んだ。

の仕事を奪うなら、お前の仕事も生業も出稼ぎも全てを辞めろ。」

 駒桜こまざくらはすっかり怯えて、分かっても居ないだろうに、コクコクと頷いて涙を散らした。

 こんな姿、ひこばえは怒るだろうか。だがぼくは、ひこばえの傍に三年居ても―――、神殿娼婦だったことを恥じる事が出来ないのだ。寧ろ、若枝わかえという娘が私に出来てからは、私は若枝わかえを純潔のまま嫁がせる為に、自分の身体が蹂躙される事に歓びを覚えた程だ。


「………。」

 目が覚めた。隣で若枝わかえが、くうくうと眠っている。神授しんじゅきびすはいないようだ。

「…若枝わかえ、お前も、年頃になったね。…いい花婿を見つけてあげるよ。」

 丁度、アテが出来たから。 

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