第一九節 分たれた人生

 ひこばえ達との旅の間に、私は何度か出奔した。というのも、一人ではどうしようもない情欲の悪意が溢れたりした時は、姿をくらませることくらいしか思いつかなかったのだ。私が下手に策を巡らそうとすると、大失敗に終わる事は、一応学習したつもりだ。しかしひこばえは、そんな事実はなかったかのように扱っていた。扱ってくれた、と言うべきなのかは分からない。弟子達の何人かは、私が出奔先で起こしたごたごたのことを知っていたし、しかしてひこばえはそのような不名誉から、私のことも、してや自分のことさえも護ろうとはしなかった。

 しかし、私が拾ってきた若枝わかえのことは、よく気にかけていたと思う。他の女弟子どもと比べ、という事はない。どちらかというと、男弟子よりも女弟子が優遇されているのか変わりなく、その中で私が特別目をかけていたから、そのように見えたのかも知れない。若枝わかえは世話好きで、私の立場を考えて、決して私の事をひこばえよりも優先することはなかったが、次点は決して譲らなかった。若枝わかえは乞食上がりの悪霊憑きだったと言う事実で虐げる者もいたようだが、そのような者は私やきびすが一睨みすると、ひこばえへの告げ口を恐れて静かになった。この教団は本当に、弟子の基準が低い。私は何度も、破門するべき弟子の何人かについて諫言を呈したが、ひこばえは笑って逆に私を諫めて有耶無耶にしてしまったのだった。

 そんな暮らしが三年続いた。もう間もなく過越祭すぎこしさいだったので、私達はエルサレムの近くのベタニヤまでやってきた。そこには依然、ひこばえが奇跡を起こした男の家があり、私達はそこで一泊した。無理をしてエルサレムの峠を登ると、強盗に遭うだろうということだったのだ。

「にっちゃ、にっちゃ。」

「なんだ。」

 この家の女達が夕食の準備をしている時、澹仰せんごうを引き連れて、ひこばえが私に近づいてきた。

 三年経っても、ひこばえの『にっちゃ』は直らなかった。というより、直す気がないのだろう。弟子達の前では『セン兄さん』と呼べるのだ。きびすのことは『キビ兄さん』と呼んでいるようだが、きびすのことは『にっちゃ』とは呼ばないらしい。

「ちょっと来て、ちょっと。」

「他の弟子共はいいのか?」

「うん、澹仰せんごうとにっちゃだけ。」

 少し気分が良くなったので、私は誰も見ていない事を確認し、裏戸からそっと出た。ひこばえが最後に出て扉を閉める。外は少し肌寒い。不吉なことに、星は一つも出ていなかった。

「あのね、あのね。二人にお願いがあるんだ。」

「何だよ、はっきり言え。」

瞻仰せんぎょうはん、ちょっと黙ってぇ。」

 落ち着け、と、澹仰せんごうが私を窘める。私は人差し指をつんつんと合わせる姿が、あまりにも三十三歳のユダヤ人男には思えなくて、頭が痛くなっていた。ひこばえは唸りながら、何か言い難い事を言おうとしているようだった。何かに怯えているようにも見える。

「あのね、えっとね…。」

「だから何だよ。準備が出来てないなら呼ぶな。」

瞻仰せんぎょうはん。」

「二人にね、律法学者の所にお使いに行って欲しいんだ。」

「は?」

 二人の声が重なる。ひこばえは目線を逸らしながら続けた。

「今夜、ベテパゲに行くと、律法学者が一人いるんだ。その人は買いたいものがあってエルサレムから来てるんだよ。その人に、ボクは売りたいものがある。だから、今日から十日数えたら、ゲッセマネというところに来るようにと伝えて欲しいんだ。」

「何を売るんだ?」

「それはまだ言えない。」

 私は澹仰せんごうと顔を見合わせた。

「…はあ、分かりました。うちが行きまひょ。ひこばえさまの仰ることや、何かよう深い意味があるんでっしゃろ。瞻仰せんぎょうはん、アンタはひこばえさまのお側にいておくれや。」

「冗談じゃねえや、何を売りに行くかも分かんねえのに使いなんか出来るものかよ。ぼくが行くから、澹仰せんごうひこばえが勘定を間違えないように算数を教えてやっておいてくれ。」

「ほうか? そんじゃあ、あんじょうよろしゅう。」

「じゃ、決まりだな。戻ろう戻ろう、腹減った。」

 私と澹仰せんごうが話している間、月を雲が覆ったらしく、ひこばえの顔は見えていなかった。

 晩餐は十二弟子と、それ以外の男弟子と、女弟子との三つの家に分かれて行われた。私達がひこばえと食事を楽しんでいると、別の家で食事をしているはずの女弟子の一人が入ってきた。くん、と、良い香りがしたが、彼女が中身をとろとろとひこばえの頭に注ぐと、途端に強烈な香りが充満した。恐らく原液のまま、頭に垂らしたのだろう。ひこばえの傍から順番に、弟子達が咳き込む。

「な、なんだこの臭い…!」

「げほっげほっ…。なんだ、薄めてないのか?」

「それにしたって酷い! 死体につける香油だってこんなに臭くないぞ!」

 次々に文句を言い出す弟子達だったが、ひこばえが目を閉じて大人しく注がれているので、面と向かって文句を言うものは居なかった。

 しかし、香油の筋が細くなり、途切れ途切れになって、やっと終わったという時には、鼻の良い何人かは鼻を摘まんで、身体を丸めて伏していた。私も鼻を押さえていても、目に染みる。ぽけっとしている弟子共は何も言わなかったが、突然ドンと大きな音がして、誰かが立ち上がった。澹仰せんごうだ。

「あんさん何してはりますの! これはただの香油や没薬やない、ナルドの香油や! その壺の細工とこの量、合わせたら三百デナリはくだらない、最高級品ですえ! それだけの大金があれば、この街に乞食はおらへんようになりますのに! 計算の出来ひん女子おなごはこれやからいかんのや!」

澹仰せんごう、良いんだよ。これは必要なことだから。彼女はこの先のボクの為に必要なことをした。今しか出来ないことだからね。」

「ベトベトの顔で喋るな。床にこいつがついたら何日も取れないんだぞ!」

 顎の髭にも絡まって今にも落ちてきそうだったので、私は自分の下に敷いていた上着を取り、頭から被せてごしごしと拭いた。他の弟子どもは咳き込んでいるだけで、何もしようとしない。

「あー! くそっ! ホントに何も薄めないでかけやがったな!? この上着もう着れねえぞ、後でお前の上着貰うからな! 分かったらとっとと出てって自分の上着持ってこい!」

 私がそう言って怒鳴りつけると、女弟子は怯えて壺を抱えながら走り去って行った。ぬるぬると滑る油を何とか拭き取り、窓から上着を捨てる。………何だか、ひこばえがさっぱりした顔をしている。この所何処に行っても民衆が取り巻いていて、水浴びも出来なかったからだろうか。居心地が悪かったのか、晩餐の後澹仰せんごうは家を出てしまい、明け方まで帰ってこなかった。

 翌日、私達は漸くエルサレムへ入った。ただ、何を思ったか、澹仰せんごうは自分では歩きたくないから、ロバを牽いて欲しい、と言った。駒桜こまざくら妁夫しゃくふは素直にロバを探しに行ったが、私は日和ったことを言うひこばえの頭に拳骨を落とした。何時ものようにひこばえは、痛い痛いと泣きべそを掻くかと思ったが、不思議なことにその時のひこばえは何も言わなかった。もしかしたら自分が泣くと、嗣跟つぐくびすが刺激されて私を後々襲うことを知っていたのかも知れない。それはそれで、ひこばえが大衆に足りない男だと思われる事とは別の恐怖心があった。そんなすったもんだがあったものの、ロバはちゃんと連れてこられ、ひこばえはそれにちょこんと座った。大の大人の男が座るだけで、ロバはぷるぷると震えていたが、それでもしっかりと立って、誰が指示するでもなく、エルサレムに入った。エルサレムにいた民衆達の一部は上着を脱ぐだけの余裕がなかったので、棕櫚しゅろの葉を持ってきて敷いた。

 その時の彼等の熱気を、驚喜を、私はついさっきの事のように、いつでも思い出せる。

「救いたまえ、ユダヤの王! 神の御名によりて来たる者に、天の栄光あれ! イスラエルの王に祝福あれ!」


 その日の夜、私達はエルサレムで過越祭すぎこしさいの一日目を祝った。ひこばえが奇行に走ることはこの三年間で見ていてよく分かっていたし、自ら下女下男の真似事をする事もあったので、私はあまり驚かなかった。寧ろ謦咳けいがいの発言の大胆さと馬鹿さ加減に驚いた。ひこばえは自分が今手本を見せたようにやれ、と言ったが、下男の真似を進んでしようとする者は中々いなかった。

瞻仰せんぎょうはん、足を出しておくれやす。」

 ハッとした時、手拭いを持った澹仰せんごうが、私の足下に跪いていた。誰よりも早く、ひこばえの真似をしたのは、澹仰せんごうだった。

「ぼくでいいのか?」

「アラマァ、うちやいけんの?」

「別にぼくはいいけど。じゃ、終わったらお前の足はぼくが洗うよ。」

 澹仰せんごうは丁寧に私の足を拭いた後、ぺたんと座って、足を差し出した。私は膝をついてから、手拭いを持っていないことに気付いたが、ひこばえがすぐに濡れた手拭いを渡してくれた。本当に、なんでこいつは預言者になろうとしたんだろうか。

 奇妙な儀式が終わると、漸く私達は食事にありつくことが出来た。いつもの何かよく分からない、ありがたそうな話を分かりやすく話すひこばえは、その時には居なかった。それで私達は、自分達がどれだけの人数のどれくらいの範囲の足を洗ったのか、それで順位付けを始めた。私はひこばえ澹仰せんごう妁夫しゃくふだけだったので、初めから順位には入っていないだろうから参加しなかった。澹仰せんごうは私以外には抑も触らせても貰えなかったらしく、私の隣に転がってきて、アラマァハレマァと、二人でせせら笑っていた。しかしひこばえは、弟子どもが臑毛を通り越して膝の裏まで捲りあげているのを見て、どこか嬉しそうにしている。

ひこばえよ、お前はそんな趣味に目覚めていないよな? 少し前に律法学者達に揶揄されたような、男狂いじゃないよな??? 兄ちゃんは信じているぞ。

「それはそうと、ねえ、みんな。」

 膝裏から尻の部分まで捲ろうかと白熱してきた頃になって、ひこばえが一つ手を叩き、にこにこと言った。そして不作法にも葡萄酒の入った杯に、余っていたパンを突っ込んだ。

「前から言っていたとおり、この中から引き渡しの取引に行く者がいる。」

 満腹になってひっくり返っていると、それがずいと私の目の前に差し出された。私は、少し前にひこばえに、ベテパゲに使いに出されたものの、行くのを忘れたことを思い出した。今からでも行けるのかもしれない、と、私がそのパンを取ろうとすると、さっと手が伸びてきて、パンがかすめ取られた。座る姿勢になった澹仰せんごうが、パンを受け取っていた。

「さあ、行きなさい。道中、それをひとりで全部食べるように。」

「ええ、承りました。それじゃあ皆さん、あんじょうよろしゅう。」

 澹仰せんごうが何を言っているのかは分からなかったが、先ほどまで晩餐を楽しんでいた筈の腹に、犬のようにパンを押し込むのを見て、思わず黙ってしまった。澹仰せんごうはにっこりと、努めてにっこりと笑い、転た寝していた謦咳けいがいの頭に躓きながらも、靴を履かずに飛び出してしまった。

「いってて、何だよ、あの男女、人の頭蹴飛ばしやがって。」

謦咳けいがい澹仰せんごうだよ。男女じゃない。みんなも名前は大切にしようね。相手のもそうだけど、自分のもだよ。名前はその人そのものだ。名前を忘れたら、その人の人格まで忘れてしまう。家系図なんかそうだろう? おじいちゃんのおじいちゃんの性格は名前や渾名から何となく分かるけど、おじいちゃんのおかあさんの名前すら伝わってない。その人が正妻なのか後妻なのかもわからないんだ。そんなのはとても寂しい。」

「そうですかね? ラビ。俺としちゃあ、後世にボアゲルネスなんて小洒落た名前が残った方が良いな。だって本名『かかと』だし。」

「そうですね、その名前、如何にも勇ましそうだし。」

「何だと妁夫しゃくふ、俺のどこが勇ましくねえってんでぇ。なあ? 瞻仰せんぎょう。」

 いやらしい笑みを浮かべてこちらを見るので、私はさっと背中を向けた。

「ホラホラ、瞻仰せんぎょうなんてイイオトコが過ぎて直視できねえってよ。ほれほれ。」

「はいはい。」

 その言葉に陰のように寄り添う意味を誰かに知られないかと、私は横たわったまま俯いた。ひこばえはずりずりと尻を引き摺って私の頭のところまでにじり寄ると、尻の陰で私の手を握り、言った。

「さて、澹仰せんごうもお使いに行ったことだし、ちょっと大事な話するから、みんな聞いてね。」

 ひこばえは軽い口調で言うけれども、私達には、擦り傷から血が滲み出るように、何かが滲んでいる事が窺い知れた。きっとそれが、一番大切な、ひこばえが強調したい事だろうと言うことも理解できていた。それだけに、いつもはんなりとしてころころ笑いながら、金勘定に厳しい澹仰せんごうがこの教えを聞いていない事に、優越感を覚えている弟子も又、多くいた。無論、私もその一人だ。


「ボクはもうそろそろ皆とお別れするけれど、ボクはずっと、皆が仲良くお互いを労りあって愛し合うように言いつけてきたよね。それはボクが居なくなっても守ってね。皆はボクに沢山尽くしてくれて、ボクをラビと呼んで慕ってくれた。だからボクは、皆を弟子と呼んだね。だけどボクはもう、皆を弟子とは言わない。だって、下男というものは主人のすることや物思いは知らないでしょ? だからボクは皆を友だちと呼びました。だって、ボクはから聞いたことを、今日までで全て、教えきったからね。」

 そして、天を見て、両腕を広げて言った。

、全て終わり、時が来ました。ボクと友だちになりました。ボクのは父さんの、父さんのはボクの。だからは、です。ボクは先にお側に参ります。だけどはこの世に残ります。だから、を一つにしてください。ボクが一つであるように。は滅びる事はなく、またこれからも滅びません。ただ、滅びるべきだけが滅びました。を貴方が愛したように、を愛しました。だからは、の中にいるのです。」

 そんなようなことを長々と祈り、ひこばえひこばえをした後、私達はその家を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る