海の上の悲劇 2

 スマートフォンから無機質な、ぴ、ぴ、ぴっと責めたてるような音はアッシュからの任務用のものだ。

 こんなときに、とヴラスターリは顔を曇らせた。

「無視しちゃおうかしら」

「いいのか?」

「よくないっ!」

 ヴラスターリは噛みつくように叫んだあと、渋々スマホを手にとった。鳴り続ける画面に浮かぶアッシュの名前を見て、頭のなかで五回ほど惨殺してすっきりしてからスイッチをいれる。

『遅い』

 第一声がそれか。

 また吐き気がぶりかえしてきた。虚ろな顔をするヴラスターリにスマホの画面のなかにいるアッシュは顔を曇らせる。ノイズがときどき走るのは海上で通信が安定しないだろう。

「うえっ」

 ヴァシリオスが黙ってたらいを差し出す。

『なんだ、いまの声は。おい』

「船酔いと食あたりです」

『お前、船が苦手なのか』

 初めて知った情報に戸惑う表情でアッシュが言うのにヴラスターリも思わず

「私も、はじめて、うっ、……知りましたっ、げぇ」

 思わず吐いてしまった。

 胃のなかのものが空っぽになるのがわかる。

『……汚い』

 この男を好きなだけ惨殺できるなら今なら悪魔にだって魂を売りそうだ。

 背中を撫でるヴァシリオスに水を渡されて、ヴラスターリは心のなかに芽生えた誘惑と葛藤した。ものの一分で敗北しそうだ。

 いや、一応は上司の前で吐いてしまったのはエージェントとして失格だ。

『この船での任務、忘れてないだろうな』

「きいてません」

 この船に乗れとは言われたが、具体的な任務については聞いていない。

『……な、言ったはずだぞ』

「きいてません、のれとしか」

『そんなはずは』『アッシュ、あなたのメールを確認したけど、要件のファイル、添え付けできてないわよ』

 マリアの声だ。アッシュの後ろから雪の女王のようなマリアの美貌がちらりと見えた。

『なんだと! 添え付けができてないのかっ』

『データが多すぎたのよ。最近ネットサーバが不安定だって言っていたから、自動的に振り落とされたのね』

『ブラックドックどもを呼べ、さっさとサーバを安定させろっ』

 怒鳴り声が頭にひびく。胃にも、くる。やめて。

「つまり、そっちの落ち度ね」

 思わずつっこむと、ごほん、とアッシュの取り繕う咳払いが聞こえてきた。

『うるさい、黙れ、えー』

「ヴラスターリ」

 ヴァシリオスが口を挟んだ。彼はヴラスターリが過去の呼び名で呼ばれることを嫌っている。

 基本は遠慮深く黙っているが、こういうときは獰猛に牙を剥く。

『……しつけられた犬だな』

「私の素敵な狼さんよ。大切な夫でもあるけど」

 ヴラスターリは平然と言い返した。

「要件は、もうないなら切るわ。うっ、きもちわるい」

『まて! ……任務の説明を再度行う』

 いらないわよ、もう。

 怒りを通り越して呆れた気持ちでヴラスターリは心の中で言い返した。こちらは気持ち悪さと吐き気が常に殴り合っている有様だ。ただひたすらに寝ていたい。

『その船に遺産がある』

「は?」

『遺産だ』

「……聞いてないわ、ダーリン」

『メールの添え付けにつけていたんだ。ハニー』

 かたい声で問いかけるヴラスターリに予想外のアクシデントを受けたアッシュの声は震えていた。


 遺産とはレネゲイドウィルスによって作られた、人の手に余る神器。

 それは奇跡と絶望を生み出す代物だ。

 遺産とはそのものに意志がある――人の欲を好み、それを引きずり出し、具現化させていく。

 ヴァシリオスもまた一度は遺産を手にして、その巨大な力に飲まれ、殺されかけた。

 UGNは遺産を集め、危険がないように管理も行っている。本部には世界各国にある遺産を集めるための組織も存在するくらいだ。それほどに遺産とは強力で、危険性が高い。


「そんなの、専門のやつらにさせなさいよ」

『そいつらは出払ってる』

「なぬっ」

『お前が一番近かったんだ。お前ひとりだと手に余るだろうが、もう一人いるだろう』

 こういうときだけ、ヴァシリオスをカウントするとはなんという自分都合!

「自分もいますよー」

 とアリオンが声をあげる。

 そうだ言ってやれ。

 アリオンはいつもはヴラスターリの頭を飾る黒薔薇の髪飾りに徹しているが、今は動いてもいいとばかりに掌サイズほどの黒いスライムになってスマホの前に近づく。

『うるさい、アクセサリー』

「なぬ!」

 今度はアリオンが叫んだ。

 アリオンもアッシュとの相性は悪い。歩けば敵を作るような男だから仕方はないが

 怒り狂ったアリオンが自分の肉体の一部を人の腕にしてぶんぶんふっている。器用なことしてるわ。

「自分はマスターを守るためにあれこれとしてるんですよ、なにがアクセサリーだ」

「落ち着いて、アリオン」

『ふん、本題に入るぞ』

「……アッシュ」

『なんだ。通信が弱いんだ、はやく』

「雪の夜のことは覚えているかしら」

 沈黙が落ちた。

 ふふ、とマリアが笑っている。

『私は覚えているわよ』

「私も」

 往生際の悪い沈黙。

『……わ、悪かった』

 渋々の謝罪を聞いて、少しばかり怒りの留飲が収まった。

『話を戻すぞ。その船だが、以前事件があった……お前はメアリーセレスト号の事件は知っているか?』

「知らない、なにそれ」

 ため息が聞こえてきた。

「聞いたことはある、全員消えたというやつだろう」

 ヴァシリオスが口にする全員消えたというのにヴラスターリは小首を傾げる。どういうことだ。

『簡単に説明すると船の乗客が消えた事件があった』

「なにそれ」

 ますますわからない。

『誰一人いない状況で船は発見された、という事件だ。世界に残るミステリーとして残っている』

 淡々とアッシュがする説明をまとめると、食事が用意された状態で乗り組み員が誰もいないという状態で発見されたメアリーセレスト号。

 それと同じことがこの船で起こった。

 五年前。

 乗り組み員含む、乗客百人が消えた。

 それからこの船は不吉と謎の象徴として沈黙を守っていた。しかし、さるもの好きがこの船を買い、今回の豪華客船旅行を決行した。

 船の整備にあたり、UGNのスパイが忍び込み調査すると、ウィルスの反応を感じ取った。しかし、いくら調べてもその原因と思われる存在を確認することは出来なかった。つまりは、条件が揃うことで発生するレネゲイドウィルスではないのかと推測されている。

 UGNはこの船にレネゲイド、または遺産の関わりがあると判断した。

 もし、仮にこの船がレネゲイドビーイングだったらウィルス値が低すぎるという判断だ。

『――お前のやるべきことはその条件……推測したが海の上ではないかと思われている。その確認後、遺産の回収、または破壊だ』

「ひどいわ。そんな危険なものにのせるなんて」

 ヴラスターリが声を荒らげ、すぐにうっぷと吐き気にえづいた。ヴァシリオスが黙って背中を撫でて落ち着けてくれる。

「海の上でのレネゲイドウィルスだが、現在はまだ確認されていない」

 とヴァシリオスが報告する。

 うむ、とアッシュが傲慢な相槌を打つ。

『兎に角、回収を行え。あと、お前、大丈夫なのか』

「むりぃ~」

 ヴラスターリが泣き声をあげる。

「むり、絶対に無理っ!」

『……使えないやつだ』

『海に弱かったのね』

 スマホに映し出された動画がきれいに映るのに一瞬だがばっちり見た。

 アッシュとマリア、二人揃って不安と顔に書いてある。

 ヴラスターリだって不安だ。こんな気分の悪い状態で戦えと言われても無理に決まっている。

「悪いけど、私は使い物にならないからっ、うっぷ」

『……だったらどうしろと』

「俺が調査はする」

 冷静な声で、ヴァシリオスが告げる。

「破壊、回収を行えばいいんだな」

 確認するヴァシリオスにヴラスターリが声をあげた。

「ヴァシリオス、けど危険だわ! う、ううっ」

「俺がする。君が出来ない分、俺が動く。それで問題ないはずだ。ほら、吐くならたらいはここだ」

 アッシュを無視して、ヴァシリオスはヴラスターリにだけ視線と言葉を向けて告げる。それにヴラスターリは小さく頷いた。

「これしか、無理だ、ものね」

『おい、勝手に決めるな』

「アッシュ、どうしようもないでしょう。今回は……私が動けないんだし、彼に頼るしか」

 画面越しに見るアッシュの鋭い視線にヴラスターリは嘔吐の気持ち悪さを飲み込んで言い返した。

「あなた以前言ったわよね。使えるなら認めるって、ヴァシリオスのこと認めるって、それ、どうなったのよっ」

 日本支部長である霧谷直々にジャームとしての認定は取り消されたが、それはたかだか小さな島国でのことだ。

 そのあとのユキサキの事件での活躍もあって、本部のジャーム認定も取り消された。しかし、ヴラスターリの直上の上司はアッシュだ。彼が認めない限り、ヴァシリオスとは共にいられない。

 一度ジャームとされたこともそうだが、本部で働くエージェントは必ず査問者の認定がいる。

 ヴラスターリの場合はアッシュだ。

 アッシュの命の元、ヴラスターリは各国に赴く権利とオーヴァードとしての能力使用さらにはUGN支部のサポートを受け取っているのだ。アッシュの保護なくしてそれらを受け取ることはできない。

 アッシュがヴァシリオスを認めれば、自分と同じ地位を手に入れることができる。本来、その認定がないオーヴァードを連れているというのは、秘密裡に動くことを要求されるエージェントとしての立場上、ご法度行為である。

 今回、アッシュに直接会って直談判するつもりではいたが、こうなっては待っていられない。

『仕方ないんじゃないの? 彼はちゃんと今まで成果を残してきたわ。それにもうヴラスターリと結婚してしまったし』

『俺はエージェントにそんなことは認めていないぞ』

『あら、堅物のパパみたいなセリフ』

「ほんと」

 マリアとヴラスターリは冷ややかにアッシュを睨みつけた。

「私肉体年齢は二十四だから親の許可はいらないと思うけど、パパ」

『誰がパパだ。UGNの保護がなければ生きられないお前が』

 アッシュの言葉は正しい。

 クローン体であるために定期的なメンテナンスを受けることは絶対だ。でなければヴラスターリの肉体は動き続けることも困難となる。

「けど、私だって意志があるわ。誰かを愛して、結婚し、家庭を持つことが許されないなんておかしいわ。人が作ったものだとしてもね」

『……』アッシュが口を開いて、深く息を吐いた。『許可する。その男が今回の件に関わることを』

「今回だけじゃだめ。あなたの部下として認めて」

『それは出来ない。ジャームだぞ』

「ヴァシリオスはジャームじゃないわよっ! 何回言わせるのっ!」

「落ち着いて、また吐く」

 興奮して牙を剥くヴラスターリをヴァシリオスは冷静に肩を掴んで落ち着かせにかかる。画面では同じくらい興奮しているアッシュをマリアが落ち着けにかかっていた。

「俺は別にどっちでもいいんだが、彼女と共にいるためにパパに認められる必要があるなら手伝おう。どうしたらパパの認定が下りるのかもこの際だ聞きたい」

『誰がパパだっ』

「では、ダディ?」

 ヴァシリオスの挑発にアッシュが汚い言葉を吐き出したが、ヴラスターリはすべて聞き流すことにした。

『お前にパパやダディなどと呼ばれたくない! ジャーム! 認められたいだと、だったら力があることを証明し、それで弱き者を守ってみせろっ』

「それだけでいいのか?」

『お前にそれが出来るか?』

「必要であるならば」

 ヴァシリオスは迷いのない返答にアッシュは歯の間から息を吐き出して椅子に深く腰駆けた。

『いいだろう。今回、この船で被害者を誰一人出さず、遺産を回収できれば認めてやる』

「待って、破壊してもいいって先言ったわよねっ」

 思わずヴラスターリが声をあげたがそれは無視された。

『遺産は出来るだけ回収することが望ましい。特別な理由がないのであれば回収すること、いいな?』

「この船にいる者が一人も死なず、遺産を回収する。それだけで認められるんだな。だったらやろう」

『ハッ! よろしい。やってみろ。一人でも死人が出ても俺はお前を認めないからな』

「わかった。では報告は随時送る。何かそちらでもわかれば連絡をメールか、通話を頼む」

 それだけ一方的に言い切るヴァシリオスは通話を切ってしまった。アッシュが何か叫ぼうとしていたが、それは聞こえなくなった。かわりに画面が黒く、ただただ沈黙が流れる。

「ヴァシリオスったら」

 少しばかりの呆れをこめて声をかける。

「いいの、あんな取引して」

「あれくらいしないと君の傍にいて文句を言われるだけだろう? ならするしかない」

 開き直ったヴァシリオスは強い。

 彼はもうこの事件を一人で解決するつもりでいる。それもアッシュが出した条件をすべてクリアーしたうえで、だ。

 けれどあまりにも不利すぎる。

 ヴラスターリは体調が悪くて、まともに動けない。この広い船の中を一人で探し、誰一人死なないよう配慮したうえで、回収しなくてはいけないのだ。ものによっては破壊という選択も出来るだろうが、きっとそれではのちのちアッシュから難癖がつけられる可能性が高い。

「……腹が立つわ」

「俺に?」

「アッシュと自分の不甲斐なさに」

 ヴラスターリは言い返し、じっとヴァシリオスを見た。

「ダーリン、キスして」

「いいのか」

「吐いたあとで私の胃酸の味がするキスでもあなたが許してくれるなら」

 ヴァシリオスは微笑んで屈みこんできたのに、ヴラスターリは喜んでキスを送り、ベッドに寝ると、小さくため息をついた。

「キスしたあと、もっといいことをしようと思ったのに」

「その体調でなければな」

「ほんとね。はやくよくしなくちゃ」

 決意をかたくするヴラスターリにヴァシリオスは手を伸ばして、ふわふわの髪の毛をもう一度だけ撫でて立ち上がった。

 離れることをいやがってヴラスターリはヴァシリオスの大きくて、武骨で、けれど優しい手を握りしめる。

「どこいくの?」

「仕事に、すぐに戻る」

 低い声で優しく告げられてヴラスターリは目をぱちぱちと瞬かせたあと、小さく頷いた。

「あなたのこと信じてる。ヴァシリオス、私の狼さん。もう一回キスして。今度はおやすみなさいのキス」

 少しだけ迷ったヴァシリオスが今度は優しく、けれど情熱的なキスをもう一度送った。

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