第54話  標章(★)

 黒いマントを被った男に肩を担がれて現れたのは、アマンダと同じ黒髪の痩躯の青年。彼はギルバートの近くまで来ると無造作に放り出され、ぎゃっと呻き声を上げた。


「ヒュー、ご苦労だったな」

「は」


 ヒューはギルバートに労われると、流れるような所作で主の後ろに控え、そのまま沈黙した。


「さてリット。今お前が言ったアマンダの待ち人とやらは誰だ?」


 ヒューが操縦する馬の後ろに括りつけられ、全速力で走り続けられたせいで疲労困憊なのだろう。地面に転がったまま荒い息を繰り返すリットは、些か恨めし気にギルバートを睨んだ。


「あの女が…ゼィゼィ、待っているのはウィンチェスターの…っ、当主だ。ア、アヒルオ…?」

「アデルオルト」

「そうそう! そのアデルオルチョ公爵に招待状を送った時、ウィンチェスターにも同じ招待状を送ったんだって」


 そう言って真っすぐに見上げてくる琥珀色の瞳を、屋根の上で受け止めたアマンダは無意識に彼の名を声にしていた。


「リチャード?」


 幽霊に遭遇したように顔からは血の気が引き、すっかり口紅が落ちてしまった薄い唇を戦慄かせている。

 そんな”母親”の姿を見ることができたリットは、アマンダによく似た笑顔を浮かべた。


「すげー! 信じらんねーって顔してるぜ、あのオバサン」

「おい、馬鹿にしたように笑うな。お前の母親だぞ」


 腹を抱えてケタケタと笑うリットを、不謹慎だと叱るギルバート。そんな遠慮のない光景を受け入れられないアマンダは、誰に聞かせるでもない否定の言葉を囁いた。


「ちげーよ。それはアンタがよくわかってるはずだ」

「なっ!」


 誰の耳にも届くはずのない呟きは、あっさりリットに拾われる。その事実はリット…いや、リチャードの出生にも繋がり、アマンダにとって忌まわしい過去を突き付けてくる。


「アマンダはなんて言ったんだ?」

「やめて…っ」


 消せるものなら消し去ってしまいたい人生の汚点。そんなアマンダの苦しみを知らないギルバートは、アマンダと視線を交わし続けたままのリットに無遠慮に訊ねた。


「あのオバサンさ~」

「やめなさい! リチャード!」


 ハアハアと呼吸を荒げてリットの言葉を遮ったアマンダは、皮が破れるほどに唇を噛み締め、憎々し気に彼を睨んだ。


「…オレも馬鹿だけど、アンタはもっと馬鹿だ。あんなクソジジィに縛られ続ける必要なんかないのに」

「うるさい! 黙りなさい!」

「『愚か者』、『出来損ない』、『恥さらし』」

「やめろって言っているのよ!」

「…全部アンタがクソジジィに言われ続けていた言葉だよな?」

「リチャード‼」


 そう、かつてアマンダがまだヴォルターやゼオンの婚約者候補だった頃、父親からそう罵倒されながら、血を吐く思いで努力していた。

 いくら頑張っても褒められることはなく、果てのない暗闇の中を走り続けているような、虚しく苦しい毎日。けれど立ち止まることは自分の価値を捨てることで、幸せを諦めると言うことだった。


「でもアデ……公爵が選んだのは自分じゃなかった。…アンタ、本当はちょっとホッとしたはずだ」


 自分もそうだったとリットは笑った。

 リチャードである自分を捨てた日、アマンダの顔色を窺い良い子でいることが終わった日、親の期待に応えられなかった落胆の気持ちと解放感とが綯交ぜになり、とても不思議な感覚だったと言う。


「あんたなんか、何もわからないくせに…!」

「いや、オレだからわかるんだよ。オレがわかってるからさ、だからもうやめようぜ?」


 二人の遣り取りを見ていたギルバートは、ふとアマンダがボロボロと涙を流していることに気が付いた。

 常に貴族の女性らしく微笑みの仮面をかぶり続けていたアマンダの素顔が、息子の言葉でようやく表に出てきたのだ。

 フィンからナイフを離し、幼い子供のように顔を覆って泣きじゃくるアマンダ。拘束を解かれたフィンは、動揺しつつも彼女の傍でただ静かに見守っている。

 ———これでもう大丈夫だ。と、どうして思えたのだろう。


「うぅ…くふふふ…ふ、あはははははははははははっ!」


 蹲って泣いていたはずのアマンダは、腹を抱えて大笑いしながら顔を上げた。


「ああ、なんておかしいの! オレがわかってるですって? 馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ!」


 目尻にたまった涙を拭いながら、眼下に屯うギルバートたちを小馬鹿にしたように一瞥した。


「ふふふ。とっても素敵。わたくしが最高のショーをお見せするつもりだったのに、前座がこんなにも楽しい見せ場を披露してしまっては、わたくしの出番が霞んでしまいそうだわ!」


 心底楽しそうに微笑むアマンダに怯えたフィンが、傾斜のきつい屋根を後退る。しかしフィンのそんな行動など計算済みらしいアマンダは、すかさず少女を抱き込んだ。


「駄目ですよ、フィン。これからがあなたの出番なのに」

「い、いや!」


 アマンダの腕を振り払おうと足掻くフィンだが、体格の差は大きく、軽々と引き摺られてゆく。


「ギル! ギル―ッ!」

「フィン!」


 フィンを引き摺ったまま器用に屋根の上を移動したアマンダは、鎧戸が板で打ち付けてある天窓の近くまで来ると、突然くるりと振り返った。


「さあ皆様! わたくしが用意いたしました最高のショーの始まりです!」


 ナイフを首筋に押し当てられて無理やり立たされたフィンは、アマンダの目的がわかると同時にガタガタと震えだした。

 なぜならちょうどこの下にはチャペルがあり、その屋根に立てられた太陽の形の標章エンブレムが、尖った先をこちらに向けて待ち構えていたから。


「皆様は神を信じておられますか? ふふふ。フィンは信じている? あらそう? あなたはなんておめでたいのかしら」


 問い掛けにコクコクと頷いたフィンを、アマンダは蔑みの眼差しで見下ろす。


「あなたは幸せね。こんなにも大勢に見守られながら、神の御許に旅立てるのだもの」

「っ! っ!」


 恐怖で喉が詰まり声が出ないのだろう。フィンは懸命に頭を振って否定するが、アマンダの視線は標章に注がれたまま動かなかった。


「やめるんだ! 何をするつもりだ!」

「ああっ、フィリア!」


 アマンダを刺激しないよう、ずっと口を噤んで見守っていたゼオンとティアナが、耐え切れずに叫ぶ。

 その声が届いたらしく、アマンダは空いた手でドレスを抓み、手本のような淑女の礼を彼らに捧げた。


「では皆様ごきげんよう。わたくしは一足先に、地の王の裁きを受けに参りますわ」


 これまでになく晴れやかな笑顔で死出の挨拶を述べたアマンダは、フィンを抱えたまま僅かな躊躇もなく屋根から飛び降りた。





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