第32話:約束のリミット

「お父さんと約束したんじゃろ? 明日も手伝うって」


 追求の勢いは穏やかながらも、瀬の岩に砕かれて乱れた。


「も、もちろん覚えとるよ」


 という返答も、あえなく呑み込まれたように感じた。覚えているとは、もちろん嘘だ。すっかり忘れていたし、燈子が言ってこなければ未来永劫、思い出すことはなかったろう。


「ほんまに? 小母さんに聞いたら、いつ帰ってくるか分からんって言うたけど」


 頼むわ母さん。

 苦情を申し立てたとて、正当性はあちらにある。自業自得なのは、誰よりも陽輝が承知していた。

 燈子の父。晃に頼まれ、「ええよ」と気安く答えたのをしっかりと思い出した。


「悪い、忘れとった。でもこれから帰る。小父さんに迷惑はかけん」

「当たり前じゃろ! 格好つけたようなこと言うとらんで、早う帰ってきんさい! あんたが居らんと、話にならんのんよ!」

「う、うん。ほんとに悪い」


 突如、激流となった。きっと台風の夜の、江の川とそっくりだったろう。じゃあねともバイバイとも言わず、電話は切れた。

 後ろで見ているはずの朱里に、どんな顔で振り向くか悩む。


「いっ、いやあ。ちょっと約束を忘れとったわ――」


 そう長いこと、会話のない受話器を握ってもいられなかった。なんでもない風に置き、頭を掻きつつ振り返る。ちょっと失敗です、とバツの悪い表情を心がけて。

 だが朱里は、そこに居なかった。見回すと、台所のほうから音が聞こえた。昼食の準備でもしているらしい。


「あ、朱里ちゃん」

「ハルくん、もうちょっと待ってね。今日のお昼はね、おそうめんだよ。ほら、錦糸卵が上手にできたの」


 廊下から覗くと、たしかにまな板へ黄金の糸が山と積まれている。お店で出てくるような、と言いたいが、あいにく陽輝は外食でそうめんを見たことがない。


 他にもあれこれ作っているようだ。大葉やみょうがの細切りはもちろん、牛肉を煮込んだような物も。

 長明も祖母も歳のわりによく食べるので、関家の料理はご飯のおかずになることが大前提だ。


「朱里ちゃんの料理は、いつも上手じゃって」

「ええぇ? そんなに褒めても、なにも出ないよ」


 うふふっ。と笑う従姉は間違いなく、世界一可愛い。が、たった今このときだけは、それどころでない。


「朱里ちゃん。今日、家に帰らんといけん」

「えっ、そうなんだ。随分急だね」

「そうなんよ、一つ用事があるの忘れとって」

「たいへん。じゃあ帰る準備しないと。ええと、昭子叔母さんに電話する? あ、その前に荷物をまとめないといけないか」


 自分のことのように、朱里はあたふたと右往左往し始めた。壁の時計を見て、陽輝の服装を上から下まで眺めて、その間に煮立った鍋にたじろぐ。


「いや、自分で帰る。母さん、今日も仕事のはずじゃし。そこまで無理は言えんけえ」


 自宅まで、何度か乗り換えをすればバスが通じている。二千円近くかかるので、地味に痛い出費だ。

 しかし言葉にした通り、母に鞭打つような真似はしたくない。


「じゃあ、あたしが送ろうか?」

「え。そんな、いいん?」


 盲点だった。目の前に、車を運転できる人間が居る。しかも今日はこれといって用事がないらしい。


 いや、でも。俺を送るだけの往復をさせるのは、かわいそうか。


「いいよ。だって今日までは、あたしたちお付き合いしてるんでしょ。それくらい、お安いご用だよ」

「あ……」


 朱里の心を陽輝に向かせる。そのリミットは、関家から自宅へ帰るときまで。これもまた、自分で決めた。


「ちょっとだけ待ってね。広島まで出るんなら、少しくらいお化粧しなきゃ」


 出来上がった料理が、手早く大鉢へ移されていく。ラップで蓋がされ、氷水に浸けられたそうめんは、ざるに上げられる。

 こんな奥さんの料理を、毎日食べられるのなら。それはどれほど幸せな毎日だろう。


 たまにはどこかで食事でもしよう、などと。こうやって二人して出かける準備をしたら、彼女を待つ時間さえ過ぎ去るのを惜しいと思う。


「あ、朱里ちゃん!」

「んっ? なあに」


 玄関の角を曲がろうとしていた従姉を、呼び止めた。ちょうど見えた横顔が、そのままこちらを向く。

 この笑顔を、失いたくない。絶対に。


 なにがあってもじゃ。


「ごめん、せっかく言ってくれたんじゃけど。やっぱり俺、自分で帰るけえ」

「えっ、でも」


 戸惑う声と、顔。それが陽輝との別れを悲しむものと見えてならない。いやきっと、しうに違いない。


「違う違う。俺、また帰ってくるけえ。用事は明日だけで終わるけえ、そのあとまた帰ってくるけえ」

「ふた晩だけってこと?」

「うん。あ、いや、ひと晩。明日の夜には帰ってくる」


 また守れない約束をしようとしていた。しかし、そうならないとも確信していた。

 盲信とは、考えないようにした。


「分かった。ひと晩だけね」

「うん、約束する。夏休みの最後、二十五日まで。朱里ちゃんと一緒に居りたい」


 それまでには、彼女の心を陽輝に向かせなければならない。自信も方法もゼロに等しかったが、試みもしないのは嫌だった。


「うんいいよ、約束したもんね。ハルくんがいいようにしてくれたら、あたしはそれでいいよ。後悔させたら嫌だもん」

「……ありがと、朱里ちゃん」


 それから一時間後。陽輝は広島方面へ向かうバスに飛び乗った。

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