落ちた盃 上

 ふたりが邸宅まで辿り着いてからまもなく、宮中の参内さんだいから家の主人が帰ってきた。

二人が呼び出された時、黒の直衣のうしを着崩した貴公子が庭を臨む板敷で酒の入ったさかずきをかたむけていた。けだるげな目に、朱が少し混じった頬。色気に渋みも加わった橘宮は、庭にやってきたふたりを見るや、頭をもたげて盃を脇に置く。


「戻ったか。遅かったではないかね。首尾よくいったのかね」


 橘宮たちばなのみやが穏やかな目で少年少女を見下ろす。

 わらびは素直に裸の枝を差し出した。男は不思議そうに腰を浮かせ、枝を受け取る。


「なんだね、これは」

「桃の枝だよ。むしられて投げ捨てられたんだよ」


 事の顛末をわらびの口から聞き終えた橘宮たちばなのみやは、そうかい、と苦笑いをした。


「昔と変わらずこわひとなのだな。なるほど、すっきり未練も断ち切らせようとさせてきたか」

「今でも忘れられないの?」

「む……。そうとも言えるかもしれぬ」


 橘宮は迂遠な言い方をしながら、桃の枝を眺めつすがめつしている。


「あれほどしっくりきた女人はいなかったよ。共に生きていきたいとも願っていた。今となっては遠い幻のごとくだ。花の落ちたこの枝のようなものよ」


 辛さの混じる声音だった。


「後悔しているなら離れなければよかったのに」

「叶うのならば、とうにそうしておる。できなかったから愚痴るのだ」


 男はふたたびささにゆるゆると口をつけたが、ふと面を上げた。


「あの姫の父は、鹿毛家かげのけにゆかりのある者に娘を嫁がせるつもりだったのだ」


 鹿毛家かげのけは朝廷の権力を握る化人けにんの一族である。繋がりを持ちたいと願う家は星の数ほどいる。件の姫君の父も、そうした類の化人ひとだった。

 橘宮は己を扇で指してみせる。


「わしは父の代でいわば没落した宮家の男だ。天人であるが、己の宝珠ほうじゅが強いわけでもない。帝位が転がり込むわけもなし、先の見込みはない」

「宮様に先がないなどということはありませんっ」

「ひき丸も知っているだろう。天人は不自由だ」


 ひき丸がいきり立つが、橘宮は冷静に己を見ていた。


「天人が都を離れるには帝のお許しが必要になる。貴重な宝珠の持ち主であるためだ。宝珠は国の宝であり、すべての宝珠は朝廷により管理されている。国の安寧のために」


 この世には、天人てんにん化人けにんがいる。

天人は皇族。身に宝珠を宿して生まれ、世を清浄にする役目を負った者。

化人けにんは天人以外の者。本性は畜生ちくしょう。死ねば人の姿を失くし、おのおのの本性に返る。

朝廷は、天人を支える大勢の化人けにんで成り立つ。その頂点が、天人の中でもっとも宝珠の力が強い者、帝なのだ。


「権力を望む者には、帝以外の天人などいてもいなくとも変わらぬ。近頃は戦乱がないのもあって、わしのように力無き天人は軽視されておる」


 そのため、橘宮と姫君は引き裂かれた。姫君の父によって、婚姻相手を決められた。


「それでも年甲斐もなく抗ったのだよ。現実は否が応でも見えていても、一度だけ」

「駆け落ち?」


 ひき丸にでも吹きこまれたのかね、と橘宮は優しく微笑みかけた。少年は身体を縮こまらせる。


現実うつつなど厭わしいだけだった。《おぼろの桃園》を選んだのは、他の者へ覚悟を見せるためだ」


 他の者というのが「姫の父」か「己を軽視する者」か――「姫の夫になる男」か。橘宮は明らかにしなかった。


「あの姫は聡かったから気づいていたかもしれぬ。だがそれでも付き合ってくれた。わしは邸の下人を抱き込んで、姫君を連れ出した。……懐かしい」

 

 橘宮は目を細めてから、「桃源郷」を知っているかね、と聞いてきた。


「あの桃園のことですか?」

「いいや、故事の方だ」


 首を傾げたひき丸たちに橘宮は説明する。

 曰く、桃源郷には戦乱や争いがない。桃林に囲まれた美しく豊かな土地だという。住んでいる者も戦を知らない。外とは隔絶された異界の地で彼らだけは幸福に暮らしている。

 昔、ある漁師がここに迷い込み、帰りにふたたび戻ってこられるよう印をつけたが二度と辿り着くことができなかった。


「いったん桃源郷を離れた者にもう逃げ場所はないのだよ。耐えて、諦めるほかない。せめて相手が幸せであれと遠くで祈る。もう、あんな情熱を感じることはないのだろうな」


 その後、橘宮は噂話で聞いた。五井の姫君は結婚をし、子を産み、母となったのだと。姫君の夫はめでたく国司に任じられ、姫君は任国地へと今日まさに旅立った。橘宮がもう手出しできる相手ではない。


「さびしいんだね」

「さびしいからと言って、男子おのこが大泣きするわけにもいくまい」


 わらびが言えば、橘宮は曖昧に笑う。


「そなたらのおかげで気は済んだ。よくぞ成し遂げてくれた。さすがの《失せ物探し》である」

「このひき丸、宮様のためならどのような命でも全力を尽くす所存です!」


 ひき丸は勢い込んで応えた。隣の少年がいきいきした顔をしているのを横目に、わらびはまたか、と思う。

 ひき丸は主人が好きすぎるのだ。傾倒していると言っていい。主人の悲しみは我が悲しみ、主人の幸せは我が幸せだと本気で考えている節がある。わらびには忠誠心が欠けているので、よく理解できない。


「せっかくだ。そなたらにこの枝を与えよう。桃は古くから破邪の力があると言われている。宮中の大晦日おおつごもりに行われる大祓おおはらえで使う弓も、桃の枝から作るのだ。まして、それはかの《おぼろの桃園》にあった桃の枝。役に立つ時もあるやもしれぬ。受け取りなさい」

「ははっ、ありがたき幸せ!」


 ひき丸が喜んで答える。

 少年少女は仲良く桃の枝を一本ずつ分け合った。

ふだんの失せ物探しでは褒美をもらって終わりなのだが、この時はふと思い出して、あのひっかかりのある言葉を口にした。


「『千代にかざせよ、桃の花』ってどういう意味?」


 橘宮の顔からごっそりと表情が抜け落ちた。カラン、と盃が板敷に落ち、こぼれたささで袴がびっしょり濡れてもまるで目に入っていなかった。

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