第6話 麗衣のやりたい事


 ―早い!―


 私は咄嗟にスウェーバックして上体を引き、彼女の上段回し蹴りをかわした。


「へぇ……やるじゃん? 流石現役でボクシングと空手をやっているだけあるよなぁ?」


 美夜受さんは足を前後に開き、前足の膝は屈し、脛は地面に直立させ後足は膝を伸ばし、前足の爪先はやや内側に向け、後足の爪先も同方向に向け、足裏をピッタリ地面に着け、両膝は前後に強くしめる。

 所謂いわゆる左前屈立ちの姿勢で私に正拳を向けながら言った。


「でもよぉ。あたしだって空手やっていたからな。よそ見していると怪我するぜ?」


「やめて! 美夜受さん! 私は喧嘩なんかしたくないんだよ!」


 私はオリンピックに出た後、総合格闘家となり、兄を馬鹿にした世間を見返すためだけにボクシングと空手をやっているだけだから、人と殴り合いの喧嘩をしたいなんて一度も思った事が無かった。

 やんちゃな男子ならとにかく、どうして美夜受さんが女の子なのに喧嘩をしたがるのか理解できない。


 でも、私の気持ちなどお構いなしに、美夜受さんは腰を前に移動させ、全体重を左足に乗せると共に迅速に、右膝を高くカイ込み、右膝関節のバネを利用し、スナップを充分効かせて前蹴りを放ってきた。

 私は止む無く表腕の手首の部分で、腹部にめがけて打たれた蹴り脚を斜めに打ち下す、所謂いわゆる下段払いでこれを受ける。

 美夜受さんは素早く蹴り足を引くと、右足を一歩前方に踏み出し、右前屈立となると同時に、左拳をひねり、左脇腹に引きつけながら、右拳を真直ぐ肘から先を捻って突き出す。


 これは空手の順突(追い突)で、ボクシングに例えるのならばオーソドックススタイルのボクサーがスイッチしてサウスポースタイルで右ストレートを打つような感じだ。


 この上段に放たれた順突に対して、右掌を拳にしながら右脇に引きつけると共に、左拳は肘から先を捻り、手首で強く上へハネ上げて受けた。


「まだだ!」


 尚も美夜受さんは軸足である右足を大きく踏み込むと、両手の構えを上に揚げ、腰を中心に肩も旋回し、私の首を刈り獲らんばかりの上段回し蹴りが放たれる。


 ―また……。―


 今度は頭一つ分上体を屈めると、紙一重ではなく、文字通り髪一重の距離で美夜受さんの蹴りを躱したけど、どうしても気になって仕方がない事がある。


「ちょっと! 待ってよ! 美夜受さん! お願いだから少し待って頂戴!」


 私が両手を前に出して大きく手を振り、美夜受さんに攻撃を待つように訴えると、美夜受さんもやや攻撃の手を緩めて私に尋ねた。


「何だよ? これだけ防御技術があって怖気づいた訳じゃねーよな?」


「もしこれから貴女と組手をするとしても、その前に気になって仕方ない事があるの! だから一旦止めて頂戴!」


 喧嘩とかタイマンとかいう言葉は使いたくなかったから止むを得ず組手と言う言葉を使ったが、とにかく今は気になる事があるので、攻撃を止めさせたかった。


「組手だぁ? あたしは今空手辞めているんだぞ? まぁ、やる気になってくれたのなら呼び方なんか何でも良いけどよぉ。聞いてやろうじゃねーか?」


 美夜受さんは一旦構えを解いた。

 ようやく話を聞く気になってくれたようだ。


「その……さっきから見えてるよ?」


「はぁ? 何がだよ?」


 美夜受さんは本気で頭をかしげていた。

 少し考えれば分かりそうなものだけれど、はっきり言わないと分からないのかな?


「その……さっきから蹴りの度に下着が丸見えだよ?」


 美夜受さんの外見は突っ張っているようだが、蹴りの度にヒラヒラと舞うスカートの奥から覗く下着の方は意外と地味で白い、私でも履くような普通のパンツだった。


「なっ……」


 美夜受さんは私の指摘に赤面した。

 こんなに短いスカートであれだけ蹴りを連発すれば誰だって分かりそうなものだけれど……。


「い……いや、その……こっ……これは……スカート短いのは野郎と喧嘩する時油断するからワザとだよ! それに女同士だし、別にアンタが気にする事ねーだろ?」


「気になるよ! 誰が見ているか分からないし……それに……」


「それに?」


 理由がわからないけれど、私も何故かドキドキしちゃうんだよ。

 こんな気分ではとても組手どころじゃない。


「わ……分からないけれど、とにかく、自分をもっと大切にしてほしいな。色気で油断を誘うなんて以ての外だよ!」


「いや? 別にアンタを色気でどうかしようとは思わないけど?」


 今度は「この子は何を言っているんだ?」という顔で美夜受さんが首を傾げたので、今度は私の頬が熱くなるのを感じた。


「あっ……当たり前だよ! とっ……とにかく、そんな破廉恥な恰好の貴女とは戦えないよっ!」


「変な奴……でも、何かしらけちまったなー」


 美夜受さんは不意にやる気をなくしたように両手を頭の後ろに当てて言った。


「あーあ、白けた。今日は止めとくけど、今度ブルマでも履いてきたら勝負してくれるか?」


 美夜受さんのスカートから覗く、褐色の素肌と相まって艶めかしいブルマ姿を想像してしまい、何故か頬が熱くなり、心の中で首を振った。

 せめてスパッツにしてくれないかな?

 という出かかった言葉を引っ込めた。


「それよりかさぁ、喧嘩とか一切無しにして私に何をして欲しいか教えてくれないかな? 協力出来る事もあるかも知れないし」


「うーん……でも、そんな事を言っているぐらいじゃ、あたしの協力は出来ないと思うぜ?」


「どういう事なの?」


「強い奴が必要なんだ。出来ればあたしよりも強い奴がね……でも、よくよく考えてみたらオリンピック目指しているアンタにこんな事頼めねーしな。無茶言って悪かったな」


 美夜受さんは私に背を向けた。


「詫びに困った事があったら、何時でもあたしに言ってくれ。虫よけぐらいにはなるかも知れねーぜ?」


 確かに八束さんの友達は美夜受さんの事を怖がっていたし、美夜受さんと一緒に居れば苛められないかも知れないけれど……。

 いきなり蹴りかかってきた時は一体どんな子かと思ったけれど、苛めから助けてくれたし、もしかして凄く優しい子なのかな?

 でも、それ以上に気がかりな事がある。


「気を遣ってくれてありがとう……でも、強い奴が必要ってどういう意味なの?」


「……ある子の敵討ちしたいんだけれど、あたし一人じゃ如何にもならねー事があってさ。協力してくれる仲間が欲しいんだよ」


 これ以上聞くと引き返す事が出来なくなるかも知れない……嫌な予感がするが聞かずにはいられなかった。


「……具体的には何がしたいの?」


 美夜受さんはこちらに振り返ると抉る様な鋭い目つきで言った。


「暴走族潰しさ」


 その瞳に宿る狂気の輝きに私は気圧され、過去の試合の対戦相手には一切感じる事が無かった恐怖を感じた。

 あたかも圧縮された空気に閉じ込められたかのように胃が圧迫され、冷めたい汗が止まらない。

 これでも少し手合わせして、あれが本気だとしたら美夜受さんの大体の技量は分かったつもりだ。

 小学の時フルコンタクトの大会に優勝した経験があるというだけあって彼女の実力は間違いなく高い。

 まだまだ大会の規模によっては上位進出が狙えるレベルかも知れない。

 だが、惜しむらくは成長期に空手を辞めてしまった為、どうしても現役の同世代の一流どころの選手より既に一段も二段も実力で置いて行かれている印象が否めなかった。


 でも、美夜受さん程の気迫や殺気を空手でもボクシングでも、どんな対戦相手にも感じた事が無い。

 ルールで守られた試合で一流どころを相手に勝ち抜くのは難しいとしても実戦……あまりこんな言い方はしたくないけれど、ルールが無い喧嘩であれば美夜受さんに勝つのは私でも難しいかも知れない。


 だとしても、恐らく男子が殆どで体格も上で人数も多く、喧嘩慣れもしているであろう暴走族を相手に戦うのは流石に非現実的に思えた。


「何でそんな危険な事するの?」


「アンタに話せば協力してくれるか?」


 美夜受さんはますます眼光を強めて問うけれど、私には答えられなかった。

 そんな事をする理由は分からないけれど、恐らく、美夜受さんはこのまま放って置けば間違いなく一人で破滅に向かうだろう。

 でも、私は美夜受さんに協力する事は出来ない。

 一体どうすれば良いのか……答えに窮する私の様子を見て、美夜受さんは安心させるかのように表情を緩めた。


「そうだよな……。こんな事言われても困るだけだよな? 出来る訳ないよなぁ……わりぃな。驚かせちまって」


 美夜受さんは少し寂しそうに言うと振り返りもせず私の前から立ち去った。

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