第1章 勝子の過去 

第2話 夢の継承者

 ―ボクシングでオリンピックに出るのはプロで世界王者になるより難しいんだ―


 まだ私が幼い頃、兄が良く口にしていた言葉だ。

 アマチュアボクシングという名称のせいでプロボクシングよりも下に見る人が多いけれど、それは無知ゆえの偏見というものだ。

 3ラウンド以内と言う前提であれば、全日本選手権優勝者クラスになるとプロの日本・東洋王者よりも強い選手はザラに居り、四年に一度しか出場できないオリンピアンともなるとプロの世界王者よりも強い事も珍しくない。


 そもそも、かつて金メダリストを輩出した旧ソ連圏内の国の選手が出場するアジア予選はレベルが高いので、オリンピック出場自体が難しいのだ。

 後にプロで世界王者となる元トップアマの選手達の多くはアジア予選の高い壁に跳ね返され、オリンピック出場を逃している。

 彼らは次の五輪の機会を待つのに四年も待てない為、多くがプロ入りしてしまうのだ。

 全日本選手権優勝クラスのトップアマはプロ入り後、殆どが日本・東洋王者になり、世界王者となれるものも多い。

 この事実からしてアマチュアボクシングのトップがプロのトップ選手に引けを取らないことを示している。


 そして、中にはアマチュアボクシングの選手として誇りを持ち、プロ入りよりも五輪の出場に人生の全てをかけている人物も居る。

 それがかつての兄、周佐克季すさかつきだった。


 とにかく兄は強かった。

 スパーリングでは階級が上の元全日本選手権優勝の選手やプロの日本・東洋王者はおろか、連続防衛中の世界王者をも一方的に打ちのめした。

 そして、オリンピック開催前年に全日本選手権を優勝し、日本代表になればオリンピック出場は間違いないとまで言われていた。


 ところが、兄はアジア予選出場の切符を逃す事になる。

 理由は同じ階級のベテラン選手が過去の世界選手権やアジア競技大会等、海外での実績が評価されて日本代表として選ばれてしまったのだ。

 この選手は兄に敗れ、全日本選手権では準優勝に過ぎなかったのだが、兄は海外の選手との試合経験が圧倒的に足りなかったのだ。

 国の代表を選出する側としては目先の結果よりも過去の実績を重視したという事だ。

 

 ―どうしてお兄ちゃんの方が強いのに日本代表になれなかったの?―


 まだ小学生だった自分に過去の経験等と言われても分かるはずも無いし、納得できずに兄に尋ねた。


 ―仕方ないさ。確かに外国人選手との戦いはあの人の方が慣れているんだから―


 今思うと、この言葉は私にではなく、兄自身に言い聞かせていたのかも知れない。

 兄は無理矢理にでも自分を納得させようとしていた。

 しかし、二回行われたアジア予選でその選手は初戦敗退した。


 失望した兄はアマチュアボクシング界を後にし、次の人生を総合格闘技に賭ける事にした。

 それは兄の失意に付け込んだRAIZANという有名な団体の巧みな引き抜きであったが、柔道経験者でもある兄は自分の活躍を信じて疑わなかった。


 だが、現実は非情であった。

 兄に求められていたのはRAIZANで売り出し中の若手総合格闘家の咬ませ犬であり、ボクシング全日本選手権優勝の肩書を持つ兄は体の良い踏み台に過ぎなかった。

 総合格闘家に転身して僅か数か月しか練習期間を与えられなかった兄は勝てる条件では無かった。

 マスコミで散々煽られ、対戦相手にも虚仮にされ続けた兄は大イベントで試合を行い、慣れぬルール故にパンチを受けてダウンを喰らうという醜態を晒したうえ、成す術も無く敗北した。


 そして、その日から兄に対する世間の視線が一変した。

 兄の周りに居た友人や後援者達が次々と兄と袂を分かち始めたのだ。

 あれ程兄を持てはやしていた彼らは一斉に兄から離れていったのだ。

 それは兄に対してだけに留まらなかった。


 ―お前のクソ兄貴弱いなー!―


 全日本選手権優勝の時は称賛して止まなかったクラスの男子の態度が180度変わった。

 自慢だった兄は格闘技のの字も知らない男子にけなされるようになった。

 兄の敗北以来、クラスの男子から妹である私まで馬鹿にされ続けた。

 どんなに悔しくても私には我慢する事しか出来なかった。

 きっと見返してくれる。

 兄を信じて待ち続けた。

 だが、現実は更に困難を突きつける。


 兄は総合格闘技の技術を身に付けられぬまま、立て続けに総合格闘技界の大物達と対戦を組まされ、敗北を重ねた。

 五連敗した後にようやく相応の相手との対戦カードを組まされた。

 試合では終始優勢で総合格闘家としては初めての勝利を掴みかけたその時だった。

 故意なのか故意でないのか分からないが、対戦相手のサミングで兄は目を塞がれ、その隙を突いた対戦相手のフロントチョークによる反撃で兄は絞め落とされて敗北した。

 ところがこの時セコンドは抗議すらせず、さっさとリングサイドから引き揚げてしまった。


 ―どうやら全日本選手権優勝の肩書も賞味期限らしい。この試合に勝とうが負けようが俺に見切りを付けていたみたいだな。―


 ……と、兄は自虐的に言っていた。

 この日を最後に兄は総合格闘家としては一勝も出来ぬまま、格闘家を引退した。



              ◇



 時は流れ、私は中学一年になっていた。

 そして、私は全日本アンダージュニア女子ボクシング・45キロ級の決勝のリングに立っている。

 決勝の相手は昨年の優勝者。

 身長も中学女子この階級としては高い160センチ近くはある。

 この年齢だと一年の生まれの差でも成長期だから骨格や筋肉の発達の差が大きい。

 本来ならば、まだ一年生の私が敵うはずも無いし、そもそもこの場に立っている事すら有り得ないのだが―


「良いか。勝子。相手は去年、二年生であるのにも関わらず優勝した強豪で、将来の五輪候補とまで言われている子だ。今までの相手とは格が違うから注意しろよ」


 セコンドには兄が立っていた。

 格闘家としては引退してしまった兄だけれど、アマチュアボクシング界に指導者として復帰してくれたのだ。


「大丈夫だよ。ホラ。私ってお兄ちゃんより天才なんでしょ?」


「はははっ……そうだったな」


「三年生っていっても所詮はアンダージュニアでしょ? こんなところで躓いていたらオリンピック出場なんて夢のまた夢だよ」


「……この舞台でも緊張しないで、それだけ言えれば充分だ。さぁ行ってこい!」


 兄は少し切なそうな顔をして、私の背中を叩いた。


 私は五輪に出場して兄が叶えられなかった夢を果たすんだ。

 兄を馬鹿にした皆を見返してやるんだ。

 その為の第一歩がこの試合。


 試合開始のゴングが鳴る。

 私は夢に向かって、はじめの一歩を踏み出した―

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