四月 うそついたら はりせんぼん のーます

 ココアブラウンのエプロンを背中でひと結びしてから、お腹に回して一文字結びする。姿見でベレー帽の位置と前髪をなおして、わたしは店舗につづくドアを開けた。店内は落ち着いていて、しずかに流れるジャズと、食器の触れあう音だけが聞こえる。


「いらっしゃいませー」


 来店されたお客さまにひと声かけてから、カウンターの中へすべり込む。


「休憩ありがとうございました。カウンター代わります」

「お願いします」


 入れ違いで店長が休憩に入り、わたしはカウンター前のお客さまに笑顔を向ける。


「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?」


 笑顔は他人との摩擦を減らし、身を守る。機嫌よく対応していれば、心の内には踏み込まれない。

 スーツ姿の女性は、メニューをのぞき込み、こぼれた髪の毛を耳にかけた。


「はい。えーっと、カフェラテのMサイズください」

「かしこまりました。……カフェラテ・ミディアムです」


 同じアルバイトの凛ちゃんに声をかけると、彼女は手早くミルクを量る。立ち上るコーヒーの香りと、ミルクを泡立てるスチームの音。何百回もくり返しているよどみない連携で、お会計が終わると同時に、ふわふわのカフェラテがカウンターに乗った。


「どうもありがとうございました。ごゆっくりお召し上がりくださいませ」


 お客さまはわたしにささやかな笑みを見せ、カップを持って客席へと移動していった。その背中が遠ざかったのを確認して、凛ちゃんは一応カウンターを拭く作業をしつつ、小声で話しかけてくる。


「ねえ、美術史のレポート書いた?」


 沈んだ声から、彼女が行き詰まっていることは明白だった。案の定、凛ちゃんは執拗にカウンターを拭いて愚痴をこぼす。


「さっき大学図書館に行ってきたんだけど、『金と銀の日本史』って本さ、そもそも蔵書にないんだって。市立図書館も県立図書館も貸出中。仕方ないから買おうかと思ってネット開いたら、絶版なの。中古で一冊7000円! ほんと最悪……」


 最低賃金を少し上回るだけのここでは、一日働いても7000円には届かない。バイト代が資料に消えるのは、学生として健全だけど、できれば安く済ませたい。

 わたしは紙袋を補充しながら、うんうんとうなずいた。


「凛ちゃんが探してた資料って、美術史のやつだったんだ?」

「7000円出したとしても、届く日数かかったら間に合わないよ。先生ってば何考えてるんだろ」

「その本なら……」


 言いかけたところでドアが開き、三人の男性会社員が入ってきた。


「いらっしゃいませー」


 凛ちゃんは持ち場にもどって挨拶をするが、わたしはひゅっと息を詰めた。たよりない唇を、二、三度ふるえさせただけで、口をつぐむ。

 年齢は推定で二十代前半、半ば、そして三十代。カウンター前にやってきたのは、二十代半ばの男性だった。


「俺、まとめて買います。向川むかいかわさん、コーヒーでいいですか? 中井なかいくんもコーヒーでいい?」


 向川と呼ばれた男性はうなずいて、先に客席へと向かい、中井という若い男性のほうは恐縮したように、彼とカウンターの間に割り込もうとする。


「俺が買います!」

「いいよ、そういうの。邪魔になってるから、先に座ってて」


 かろやかに笑って中井さんをいなし、その背中を押しやった。そうして彼は、ひとりでわたしの前に立つ。


「……いらっしゃいませ。お召し上がりでよろしいですか?」


 ポツリとこぼすような声は、店員のそれではない。頬の筋肉は固まり、顔は自然と下に向いた。上目遣いでうかがうわたしを見ず、彼はメニュー表に視線を落としている。


「ホットコーヒー……もいろいろあるんだな。すみません。詳しくなくて」

「いえ」


 照れたような笑顔で、男性はこちらを見た。わたしの鎧同然のものとは違い、なんのてらいもない笑顔だった。

 彼はすぐにまたメニューに視線をもどす。


「人気なのはどれですか?」

「……オリジナルブレンドを、ご注文される方が多いです」


 わたしの提案にひとつうなずいて、しかしメニューの別の一点を指差した。


「この“日替わりコーヒー”って何ですか?」


 わたしはカウンター横に展示してある豆を示す。


「本日は“マンデリン・ブレンド”でございます」

「へえ、聞いたことないな」

「酸味が少なく苦味が強めで、比較的飲みやすいかと思います」

「好きですか?」


 言われたことの意味がわからず、わたしが男性の顔を見ていると、彼はおだやかな表情でもう一度問いかけた。


「この“マンデリン?・ブレンド”、好きですか?」


 カウンターの下で、わたしはそっと手を握りしめる。


「……はい。すきです」

「だったらそれにします。三つ」


 笑顔で三本指を立てる彼の手に、もうあのときの傷痕は残っていない。


「かしこまりました。……日替わり三つお願いします」


 電子決裁でお会計はすぐに終わり、彼はわたしの目の前でコーヒーの提供を待っている。したしげな笑顔にも特段の意味はなかったようで、携帯に目を落としてこちらは見ない。


「タチの悪い……」


 舌打ちにも似たつぶやきも彼には届かず、まもなく運ばれてきたコーヒーを見て携帯をポケットにしまった。


「お待たせ致しました」

「どうも」


 ふと、彼のスーツの左襟に、ちいさな花弁のひとひらを見た。わたしの視線をたどって、彼も襟を手で探る。


「あ、桜だ」


 わたしに向けて広げられた手のひらには、うすいピンクいろの花びらが乗っていた。


「すぐそこの駐車場脇に、一本だけ桜があるんです」

「そうですか」


 押しつけるように差し出すので、わたしが手を出すと、その花びらがひらりと乗せられた。

 もう一度笑って、彼は同僚の待つテーブルへと向かう。広げていた書類を寄せてトレイを置き、コーヒーはブラックで口に運んだ。

 捨てろと言われたのだろうと、カウンターの下にあるゴミ箱に、一度持っていって、なんとなくエプロンのポケットにしまう。


「ねえ、さっき何か言わなかった?」


 寝起きみたいに一瞬戸惑って、それから現実を思い出してうなずいた。


「うん。本じゃないけど、コピー持ってる」

「ウッソ!! なんで!?」


 凛ちゃんの大声に、そっと客席を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。彼も真剣に書類を見ながらコーヒーを飲んでいて、ふり返ることはない。あれではオリジナルブレンドだろうがマンデリン・ブレンドだろうが、味なんてわからないだろう。


「穴場狙って県立図書館から借りたの。必要なところコピーして、本は返却しちゃったけど」

「貸して貸してー! コピーさせてー!」

「いいよ。明日渡す」

「ああー、ほっとしたー。ちょっとミルクの在庫取りに行ってくる」

「はい。お願いします」


 わたしはカウンター前の清掃と補充に回った。すぐ後ろの席で、彼の沈んだ声がする。


「二日徹夜してやっとできた資料、秋葉あきば先生の承認下りたあとに、班長があちこち直しちゃって……」

「またあの班長か……」

「事前に班長のチェック、受けなかったんですか?」

「ちゃんとチェックは受けたけど、中身見ないでサインしたんだろうな」

「秋葉先生がOK出したんだったら、そのままいかないといけないだろ」


 彼はイスにどっかりともたれかかった。


「元の資料使うにしても、もう一度先生の承認取り直すにしても、どっちみちもう一回作らないと。あーあ、また徹夜かな。……このコーヒーうまいですね」


 汚れひとつないカウンターを、わたしは何度も何度も拭いた。コーヒーの味わいには気づいても、彼はわたしには気づかない。このガムシロップやコーヒークリームを、頭からぶちまけてやりたいと思ったら、タオルを持つ手に力が入った。


 彼らは十五分ほどして席を立った。


「ありがとうございました」


 凛ちゃんが声をかけて見送る中、彼はいちばん最後にドアへと向かう。その足取りに迷いやためらいは一切なく、視線はすでにドアの外へと向けられていた。


「ごめん、凛ちゃん。カウンターお願い」


 言い置いてわたしはドアへ走ると、出る寸前の彼に呼びかけた。


「失礼ですが、お客さま」


 ふたりは先に出ていき、彼だけが立ち止まってわたしを見る。さっきまでは作れなかった笑顔が、不自然なほど完璧にできた。


「何かお忘れではないでしょうか?」


 彼はおどろいて、自分たちが座っていた席をふり返った。


「……何もない、と思いますけど?」

「そうですか? それならいいんです。所詮、無責任な約束でしたからね」

「“無責任”…………」


 不躾な態度に気を悪くした様子もなく、彼はわたしの言葉の意味を探っていた。


「ごめんなさい。本当にわからない」

「……手に針千本刺さって、失血死してしまえばいいのに」


 大きくもない彼の目が、みるみる見開かれていく。


「ええええええ!! 君、あのときの高校生!?」

「本当に全然覚えてないんですね」

「覚えてるよ! 絆創膏! 絆創膏くれた子でしょ? 俺、手にケガしてさ。あれ、何年前だっけ? 覚えてるけど、変わり過ぎだって。これじゃわかんないよ」


 手で覆った口の中で、「女ってこえー」とつぶやいた。

 わたしの笑顔は、ふたたびかき消える。たった一度の邂逅を、彼も覚えていてくれた。そのよろこびで、心が剥き身になっていく。態度が硬くなるのは、そんな心を保つための、精一杯の抵抗だった。

 ムスッと立っているわたしに、彼は慣れた仕草で名刺を差し出した。


椎野しいのといいます」


 手を出さずにいると、勝手にわたしのエプロンのポケットに突っ込んだ。


「ちゃんと覚えてるよ。『いつかまた会うことがあったら、そのときお礼します』って、約束したもんね」


 否定も肯定もせず、じっとにらんでも、彼はにこにことわたしを見下ろした。


「それにしても大きくなったなあ」

「身長は変わってません」

「今いくつ?」

「161」

「いや、そうじゃなくて何歳?」

「二十一」

「あ、だったらお酒でも大丈夫だね」


 ドアが開いて、中井さんが顔を出した。


「椎野さん、どうかしましたか?」


 止まっていた時間が動き出したように、彼は靴先をドアへと向けた。


「ごめん、もう行く。じゃあまた」


 彼は手をふって出ていった。ガラス戸越しに、その背中が遠ざかっていく。


「誰? 何の話?」


 両腕にコーヒー豆の袋を抱えた凛ちゃんは、興味津々で身体をすり寄せてきた。


「ちょっと……知り合い」

「ええ~? ほんとにただの知り合い~?」

「しつこくすると、資料のコピーあげないよ」

「ごめんなさい! 仕事にもどります!」


 カウンターにもどると、店内はいつもと何も変わっていなかった。しずかに流れるジャズと、食器の触れあう音だけが聞こえる。

 もう一度会えるとは思っていなかった。さっきの出来事は都合のよい夢か妄想のように思える。けれど、そっと取り出した名刺には、彼の名前の横に、ひとひらの桜がくっついていた。




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