第四章 真夏は宇宙人の季節

4―1

 スマホのアラームと共に目が覚める。

「ううっ……」

 起き抜けに頭の奥が白む感覚。あの夜のスパークがまだ網膜に張り付いていて――

「‼」

 本能的に布団を払いのける。カーテン越しにも熱気で焼かんばかりに差し込む真夏の光、湿度で視界が歪みかけているボロアパートの寝室、隣の布団は昨日のまま丁寧に畳まれている。

「……」

 私はに朝食とお弁当をまとめて調理する。

「ねえ皿は……」

 何を言っているのだろう。私は一人暮らしなのだから盛り付け皿だってお弁当箱だって自分で用意する必要があるし、何より――

「……作りすぎた」

 ため息一つこぼしながら、四食分の野菜炒めを分けてゆく。この真夏、ボロな冷蔵庫で日持ちさせることが出来るだろうか。いや、そもそも料理なんてする意味あるのだろうか。もう別に、アイツに合わせる必要なんて無いのに。

「……にがっ……焦げてるし……」

 続いて学校の準備。期末試験はもう一週間後に控えている。課題は無く、やる事といえば試験勉強くらい。それだって試験範囲も、先生の出題の癖も覚えてしまっている。普段通りの勉強でどの教科も九十点前半は堅い。また学年十位以内に入れるだろう。

 むしろ焦って変な事をすると逆にペースが乱れる。

「焦る? 私が? 一体何に……?」

 一人で過ごすゆっくりとした朝。限りなく無音の空間。ちょっとしたことで大騒ぎする隣人に困らされる事が無い、何もかも理想の環境じゃないか。

「……」

 頭が空っぽになるまでボーっとしているといつの間にか時間に。ぬるくなった麦茶をすすってリュックを背負う。

「……」

 前カゴに……リュックを放り投げる。私の生活道具一式ははみ出ることなく綺麗に収まる。

 カブをキックで発進させ、シフトペダルを「バツン」と。意識がライダーの物になるとさすがにボーっとしたままではいられない。私は坂を思い切り下って幹線道路に合流すると制限速度の下通勤渋滞の波に乗る。アイツがいないのであれば細かい道を寄り道する必要もない。それに、三十キロを超したら朝から頑張っている国のATMに入金する羽目になる。貧乏学生である私に支払い能力なんて……。

「なくは……ないのか……」

 そう言えばいつの間にか口座は錬金術で不自然なほど膨れ上がっている。朝刊のバイトも辞めた事だし、これなら制限速度も二段階右折もいらないバイクの免許も取れるのでは……。

「……これが余裕ってやつなのかしらね」

 幹線道路を飛び出し、三速のまま坂道を駆けあがる。七時半のまばらな通学路。前カゴの人物を見るために人だかりができる事も無く、私は静かにバイクを停めることが出来た。昇降口での出待ちももちろん無い。当たり前だ、アイツがいなくなったのであれば催眠術だって解けている。学園のマドンナの微笑みが見れないのであれば誰だってクソ熱い早朝からわざわざ登校する事も無いだろう。

「……」

 午前中の一から四限もなんてことなくあっという間に過ぎる。ってこれはアイツが来てからも変わりの無い事。勉強の時は相互不干渉。私の成績の邪魔はしない約束だ。

 そしてお昼は……示し合わせたように金子さんが私の机にやって来た。私は流れのまま彼女と中庭にでてアーンされたりアーンしたりしたけど……なんでこの習慣だけは残った⁉ オーディエンスも首を傾げながら周囲で弁当をつついているし。まったく……アイツがやる事は凄まじいけど、どこか抜けているんだから。

「元気ないね」

「……そうかしら」

 会話の火口を切ったのは金子さん。六限目の体育の時間、試合の合間の落ち着いた時間だ。

「別に、ほら、私があんまりしゃべらないのとか、普通だと思うんだけど」

 むしろ最近がしゃべりすぎたぐらいで、私と金子さんとの間にだって本来であればペアで準備運動をする程度の、最低限の会話しかしないはず。学校生活において滝沢エリは誰とも関わらないのが当たり前なのだ。

「確かにそうなんだけど、なんて言うのかな、ほら滝沢さん女子バスケの主将といい勝負をしたでしょう」

「……そうだったかしら」

 おい、記憶不在の穴がとんでもない形で修正されているぞ……。どうするんだよ、次の試合彼女のいるチームだし。じゃあこの体育館中の視線はそう言う意味なの……?

「私その……前々から滝沢さんの事が気になっていたんだけど……なんていうか、あの日から、ううん、その数日前から生き生きしてきたと言うか、滝沢さん凄く良い顔になったと思う。滝沢さん、あの時すごくいい笑顔していた」

「……」

「ああこの人はこんなにいい笑顔が出来るんだなって。こんな事を言うと失礼なんだけどさ、今までの滝沢さんってとっても怖い顔していて、『私に関わらないでください』みたいな。みんな離しかけたくてもとっつきにくくて、でも実際しゃべってみると結構優しくて……本当は独占したかったけど……でもみんなに滝沢さんのいいところを知ってもらえるのは、変だけど、嬉しいなって。『推しは本当はいい子なんだぞー!』……みたいな」

「……」

「だから、その……私が隣だと物足りないかもしれないけどさ、たまには頼ってくれてもいいんだよ。なんて、大げさだったかな」

「……」

 頼る……か。そう言えば、誰かに頼られた経験も、頼る経験も今まであったっけ……。

「……じゃあ、早速、頼らせてもらおうかな」

「え、そんなっ、皆の前でいきなり……」

「試合、勝つわよ」

「え?」

 いやいや金子さん、いきなり頬を赤らめたと思ったら次は虚無顔って……百面相? まぁ、私も今まで彼女の事を碌に知らなかったわけだし、表情豊かなのは良い事だと思う、のか?

「……鈍感」

「?」

「なんでもない! 滝沢さんがそういう人だって、なんとなくわかっているから! はい、今の無し!」

「う、うん」

「で、彼女と再戦するわけなんだけど。名将は次はどんな策で戦うのかな」

 金子さんの一言でチームメイトがわらわらと一斉に集まる。みんな一様に両目を輝かせて……なるほど、私由来の行動はそのまま記憶されているのか。アイツ、とんでもない置き土産を残しやがって……。

「策、策ねぇ……」

 あの日と同じ戦略は素人の私から見ても当然通用するはずがない。奇しくも相手チームは主将以外はバスケ未経験者だったけど、経験値の差は圧倒的なわけで……指揮官が優秀なら雑兵だって一騎当千の名選手に。私達はパス回し戦法でやっと二点入れられたけど、そんなのはお見通しとばかりに、結局試合は一方的に展開されてボロ負けだった。

「……負けた」

「まぁ、そんな日もあるよ……」

 体育の授業ごときで本気で悔しい思いをする羽目になるなんて誰が思ったか。常日頃からもっと食べて、スタミナをつけていれば……彼女をブロック出来ていればあるいは……。

「……っ⁉ ごめん金子さん、私バイトだから」

「う、うん。また明日」

「また明日!」

 体育着からTシャツジーンズに着替えて駐車場まで駆け出したのはふがいない試合をしたのを恥じたからじゃない。

「同世代の女子と比べるとやせ過ぎだし」「あと一年同じ生活をしていたら間違いなく壊れるよ」うるさい! いなくなった人間が、宇宙人が私の心配なんて……。

「何なのよもう……うおっと!」

 発進させたカブプロがいきなりつんのめる。いけない、アイツのチューンのせいでボロの癖に新聞の営業所顔負けの使用にチューニングされているんだった。感情に任せて運転していたら事故る。

「チッ」

 バイトにはアイツを乗せる事は無かった。だから、私は普段通りにカブを走らせればいいだけ。それだけのはずがメーターを注視しないと余裕で制限速度をオーバーする。別に一〇キロくらい超えての運転なんて誰だって、路面状況次第では普通にやっている。でも、私は立場のためにヘタを打って捕まりたくなかったし、何よりも私自身が冷静になる事を必要としていた。

「……」

 自分でも何に怒っているのかよく分からない。私を煩わせていた存在は……後遺症こそ残していったけど、基本的にきれいさっぱり塵になった。

「おはようございます!」

「おう、おはよう!」

 私は自分の中にくすぶる怒りを全部バイトにぶつける事にした。普段よりも無駄に声を張って、つゆを一滴たりともこぼさない運転をして、器だって行き帰りに執拗に――

「あっ!」

 イライラに囚われて大事な事を忘れていた……。私、昨日無断欠勤した事謝ったっけ?

「……戻りました」

「おう、お疲れ!」

 店長は相変わらず能天気な声で迎え入れる。私はルーティーンでつい休憩スペースに入ってしまったけれど、店長から特に何かを言ってくる事は無かった。

「これ今日のね」

「あの、店長、昨日はすみませんでした」

 私はまかないを差し出した店長に向かってすかさず頭を下げた。それなりに貯金はあるけれど、それでも収入源が無くなるのは私の自立に関わる事で、その基点であるここまで辞めたくない。

「ん? 何のことだ? 昨日はお嬢ちゃんヘルプを出してくれたし、売り上げはますます上がっている。特に困った事は無かったけどな」

「……⁉」

 あの日アイツがカブプロでやって来た事を思い出す。アイツ……私がいない間ヘルプに? それとも別の細工を?

「もう何が何だか……」

「どうした、何か悩みか」

「ええ、まぁ……」

 どうしよう……とっさに応えちゃったけど、知り合いの宇宙人が消えちゃいましたなんて言えるわけないし……。

「ええっと……あ! 時給! 店長私の時給上げるつもりなんですか?」

「お嬢ちゃんエスパーか何かかい?」

 どうしよう、店長の記憶はどんな風に補完されるんだ……。アイツから貰った情報、それこそ産業スパイみたいに店を調べた事になるのか……。

「相変わらずがめついね」

「……」

 しかし、ありがたいことに――事実でもがめついは余計だ――店長はそこには触れずにしゃべり続ける。

「なンて言えばいいのかねぇ。あん時は人手が足りなかったから雇ったけど、正直お嬢ちゃんみたいな人間は接客業じゃ雇いたくないタイプだね。もちろんお嬢ちゃんの背景には同情するけどよ、だからってあんな『目で殺す』みたいな眼光はマズい。仕事は完璧でそこはベテランと遜色ないから驚いたけど、お嬢ちゃんってより稼げるバイト見つけたら義理とか人情よりもソッチ優先しそうで、大の大人がこんな事を言うのはアレだが怖かったね。爆弾抱えている気分だ」

「……」

「ところが俺は今の今までお嬢ちゃんを辞めさせることが出来ないでいた。俺はさ、お嬢ちゃんそばを食べている時の表情が好きなんだよ。今までのどんな客よりもよ、お嬢ちゃんが一番ウチのそばを味わって、味を全身で受け止めてくれているだろう。それを見る度に、この子は本当はこんなに素敵な表情ができるんだなぁって、それを曇らせてきた社会ってやつはどうしようもない奴だなって……勝手にお嬢ちゃんを救おうってそりゃ腕によりをかけてそば作りに注力したよ」

「……」

「ただまぁ、何が原因だか分からんがお嬢ちゃんいきなり元気よく、良い顔になった。びっくりしたよ、いつも出前で注文してくるお客さんからお嬢ちゃんの事で話がって、最初はクレームかと思ったら……傑作だぜ、『いつもの不愛想な子がいきなり笑顔になった』だってよ。で、それが原因か知らんけど客の入りも、出前の注文も増えた。ほんとびっくりするほどにな。ここでケチケチしていたら大人の面目立たないしな。一年以上頑張ってくれたお嬢ちゃんに昇給って形で報いてやろうか、ってな」

 新聞の営業所の事を思い出す。確かに所長の目には私を女子供だと蔑む意味も含まれていた。けど……なるほど「目で殺す」か。確かに私はよりお金のあるアイツを優先させたわけで、営業スマイルが完全に要らない職業であれば、後ろから刺してきそうなやつなんて誰だって側に置きたくない……か。

 逆に多少はスマイルが必要な職場で……私は給料と一食浮くという理由で続けていた出前のバイトの方で再評価されるんだから世の中分かった物じゃない。

「エリのQOLに貢献した分私も美味しい目にあっていいと思うんだよね」「せめてどっちかのバイトを辞めないと、具体的にはまず自律神経失調症になるかな」ああ本当に……うるさい奴。居なくなってまで私の生活にまとわりついてくるとか……最悪じゃない……。

「店長、それ口説いてます?」

「まっさかぁ。俺店長だぜ。これでも一国一城の城主、捕まえるならお嬢ちゃんよりも偉い別嬪さんって決めてるんでね」

「だったら背中には気を付けた方が良いですよ。私じゃ無くて、女性関係だと奥さんに狙われますよ」

「げぇっ……なんでそんなことまで」

 店長は慌てて後ろを確認する。奥さんは大量の注文をさばくために今日も厨房で張り切っている。夫婦を脅かす程の美女は来ていないので、今日はそばに集中している感じだ。だからさっきの言葉はハッタリ。

 何でって……図らずともアイツのおかげで色々知ることが出来たからですよ。

「ありがとうございます。表情の事とか……色々分かって来た気がしますよ」

「お、おう。分かればいいんだよ」

 そば、伸びないうちに食べな。店長はそう言うと厨房の方へ、自分の仕事へと戻って行く。

「さてと……」

 改めて、店長はただの女たらしじゃないのだなと思う。あの場所からお客さんの顔に、店の評判に……従業員の表情まで。大人ってやつは総じて、私なんかよりもスケールが違うみたいだ。

「……いただきます」

 出されたまかないは大盛りのかも南蛮。私の大好物でお客さんに出すクオリティのそば。やっぱりそばは冷房がガンガンに効いた環境でアツアツをすするに限る。店長がどれだけ私の好みを把握しているのか知らないけど、そこまで期待されたなら成果を出さなきゃ公平じゃない。

 私はそれこそ時間一杯かけてそばに向き合い、つゆの一滴残さずに胃袋に収めた。出前の方も、私は生まれて初めて営業スマイルを心掛けたと思う。「だってさ、エリ、笑っているんだもん」うるさい。

 アイツがいなくなった日常。アイツがいなくなっても日常は続く。でも、驚くべきことに、私はもう一人では無くなっていた。


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