1―3

「――アアアアアアアアアアアアア!」

 自分の悲鳴で目が覚めた。跳ね起きておでこを確認する。指先で手のひらで、満遍なく触れても穴なんて開いていない。

「はぁ……はぁ……っ」

 寝汗でぐっしょりな布団を跳ね飛ばすと視界に飛び込むのは見慣れた1LDKの三人家族がギリギリ生活できるボロアパートの姿。古臭い木造と畳の入り混じった匂いを嗅ぐと意識が一気に肉体へと戻って行く。

「………………」

 起き上がって額を抱えたまま洗面台へ向かう。鏡に向かっておそるおそる手のひらを避けてみると、

「………………ふぅ」

 手で確認したのと同じ結果、そこには傷一つ無い私のおでこがあった。

「はぁ……」

 我ながら酷い夢を見たものだ。昨日はそんなに疲れていたのか、かぐや姫が現れたかと思ったら出てきたのは美女型ターミネーターで追いかけまわされた挙句にオチはエイリアンときた。古典のテストがそんなに堪えた? 点数は九十五点で悪く無かったと思うんだけど。後半のSFチックな部分が悪夢なのは分かる。父親の趣味だ。昔家族三人の生活の余裕があった時にみんなで見たんだっけ。今思えばなんてことないけど、当時は怖がる私を見て二人ともほほえましく笑って、抱き寄せてくれて――

「ケッ」

 水道を思いっきり捻って冷水を顔に叩き付ける。思い出なんかでお腹が膨れる事なんて無い。全ては夢だったのだ。聞きかじっただけで詳しい仕組みは知らないけど、夢はすべからく睡眠時に脳の記憶領域が再構成されるのを断片的に観察している生理現象に過ぎない。

「親なんて脳から抹消したいわ」

 顔を洗い終えてタオルで整えると、目の前に見飽きた自分の顔が浮かび上がる。

 母親から遺伝したであろう赤味がかった茶髪。節約のため自分で切ったボブカットの右側が切り間違ったせいで跳ねていて、何度水に濡らそうがブラッシングしようが整わないそれを見ると美容院に行けない現実が恨めしく思える。

 父親から遺伝したであろうこれも茶系統の瞳は疲労で我ながら笑ってしまうほどくすんでいる。この一年で染みついてしまった隈に、半開きでチベットスナギツネみたいに睨んでいるようにしか見えない目元。全ての元凶は両親と貧困にある。

「はぁ……。今私は一人で出来ているんだから邪魔しないでよ」

 今何時だ。変な時間に起きていないか。貧乏人には一秒でも貴重だ。私はリビングに時計を確認しにゆく。

「はひぃ⁉」

 午前三時……五分。

 慌てて自室に戻る。

「――ッ、チクショウ!」

 スマホのアラームはとっくに機能停止していた。日々の疲れが原因か、悪夢が原因か、もはやどちらが悪いのか追及している暇なんて無い。こういう時Tシャツとジーンズってスタイルで部屋着と寝間着とを統一しておくのは非常に経済的だ。パジャマから着替える余裕なんてブルジョアの特権だろう。私は通学リュックを掴むと制服、食事を詰め込んで家を出る。階段を駆け下りて駐輪場とは名ばかりの空き地にあるカブの前カゴにリュックを押し込みキックで始動させる。

 タイヤも籠もピカピカ。エンジンだって問題なく動く。やっぱりアレは夢なのだと納得すると夏場のうすぼんやりした空の下走り出す。

 早朝のいいところは夜と同じで警察がいない事。例えいたとしても私が乗るスーパーカブプロはプレスカブの愛称で知られている。新聞配達で使われる法人向けの原付。父親がどのようなルートでこれを手に入れたのか私は知らないし真っ先に私とお母さんを捨てた人間の事なんて理解したくも無い。一つ恩恵があるとすれば法人用バイク、とりわけ新聞配達のモデルを利用していると体感で他の車両が粗相をお目こぼししてくれることが多い。私はその可能性に甘え、時間に間に合えと思いっきりスロットルを開ける。鬱蒼とした竹林を抜け、三速のまま坂を下ってあっという間に都会部へ。その勢いのまま営業所へ到着する。

「おはようございます!」

「おう、おはよう」

 私の朝のバイト先・新聞の営業所。そこの時計はギリギリ間に合った時刻を表示していた。私はロッカーにリュックをぶち込むとそのまま作業に入る。

 下は学生から上はおじいちゃんまで、最年少は高校二年生である私、そんな彼らに混ざりながら新聞の中にチラシを挟み込んでは束を作る。作業中に感じるのはむさくるしい無音とインクのべたつく手触りに染みついた煙草の匂い。これが雨だと新聞のセット一つ一つにかぶせるビニールの匂いが混ざって匂いの洪水に嗅覚がおかしくなりそうになる。

 地味で単調な作業に誰かの舌打ちが混ざる。もしかしたら私がしたのかもしれない。それだけこの作業は量が多い上に煩雑だ。地域にもよるのだろうけど、膨大な量の新聞に大の大人が格闘しているのだから滑稽だ。こんな時代遅れのメディアになんで真剣に向き合わなければいけないのかと、自分の飯の種に失礼な事を考えながら、そうでも思っていないとやっていられないと心の中で毒づく。

「よし! 配るぞ!」

 作業が終わるとようやくこの仕事のメインである配達が始まる。私は自分に割り当てられた新聞を受け取り、駐車場へ向かう。目の前にあるのはプレスカブ。自前のおんぼろでは無く会社が所有する新しいモデル。車両が壊れた時は代車として自分のカブを使う事もあるけど、当たり前な話保険の関係で多くの場合使うのはこっちだ。

 私は自分のでは無いカブにキーを差しセルでエンジンを入れる。暖気すら必要ないけどアイドリング状態で新聞を前カゴにリアキャリアに積み込む。そうすれば作業が終わると同時に「バツン」とギアを入れていきなり発進することが出来る。

「……うん」

 バイトなんて金銭を得るためだけの手段でさっきみたいに疲れる事ばかりだ。それでも、バイクを始動させる時のこの何かが切り替わる音だけは好きだ。この音が私をシンプルな機械に変えてくれる。早朝の風が疲労感を拭ってくれる。ガソリンとタイヤの摩擦の匂いが営業所で沈殿した大人の臭いを浄化してくれる。

 そうやって街の中をバイクで縦横無尽に走らせて営業所に戻ると時刻は午前七時。まずまずの終了時間だ。

「お疲れさん」

「お疲れ様でーす」

「オツカレ」

 年上の同僚たちが続々と帰路につく中私はロッカールームでTシャツジーンズの服装から制服へと着替える。普段着を畳んでリュックに突っ込むまでが私の朝のバイトの時間だ。

「……お疲れ様です」

「おう」

 所長に挨拶を済ませて駐車場へ。前カゴにリュックを投げ入れてセルへと手を――

「……」

 キックで始動させる。ほとんど見た目が似ているし、疲れているとたまに無い機能に手を伸ばしてしまう。それでも「バツン」とシフトペダルを踏むと習慣のおかげか意識が労働者から女子高生へと切り替わる。

 キッチリ制限速度三十キロ。二段階右折も守ります。こんなだるい運転をしているとただでさえ混みがちな朝の道路でもたもたする。けどこればかりは仕方がない、十六歳ならバイクの免許も取れるけど自動車学校に通うお金も時間も無い。同じか、それ以上の金額がするバイクなんて夢のまた夢。貧乏だと本当に選択肢が無い。こんなおんぼろバイクを動かすので精いっぱいなのだ。

 スペック的に無茶な運転、右折くらいなら何とでもなるのに……でも警察が活発になる時間帯、このバイクだって通学用、今はあまり派手な事は出来ない。それに――

「制服じゃ運転しにくい……」

 スカートで三十キロオーバーなんて出したらマリリン・モンローだってびっくりな状態になる。いくら私が貧乏だからって節操が無いわけじゃない。

 私が通う高校は地方私立の進学校。郊外に立地する私立っていうのはどうしてこう山奥というか都市部の奥まったところにあるんだろう。バカでかい敷地を収納する立地がないからか? 朝の渋滞にもまれながら、都市部周縁に差し掛かるとようやく交通量がまばらになる。束の間の三速を味わい、再び立ちはだかるのは坂。私が住む町は何故か都市部と田舎を坂が隔てている。

「上りも下りも三十キロで行けなんてホント狂ってるとしか思えないわ」

 減速状態で突入した事で変速は比較的滑らかにギアがかみ合う。

「?」

 スロットルを開くと後輪から全身が盛り上がる感じが……。いや、動力は後輪に接続されているんだからその感覚は正常というか……どう言えばいいんだろう、二速から三速に入りたがるあのエンジンが物足りなさを主張してくすぶらせる感覚が。普段は坂を登るときヒイヒイ言うはずのカブプロの調子がやけにいい。

「……」

 ギアを三速に入れたい誘惑にかられる。これが帰路の竹林だったら昼だろうが人目を気にせずにぶっ飛ばせる。

「いや……やめておこう」

 辺りを見渡すと歩道にはすでに登校中の生徒の姿がちらほら。運動部はそれぞれの部活のユニフォームやジャージを着て走り込んでいる。そしてなにより彼らを監督する教員の姿が。

 起床こそドタバタしたけど、バイト先で修正された時間感覚だと今は七時半くらい。みんな朝からお疲れ様って感じだけどどんな学校にだって早い時間にやってくる奴はいる。私もバイトのせいでこんな変な時間に登校するしかないのだけど、それぞれの事情をくみ取って仕事をするのが教員の仕事らしい。ごくろうさまって感じだけど、何か変な事をしたら捕まる。

 教員で生徒に行動がばれれば噂は広がる。高校生で原付登校するのは案外目立つのだ。とりわけ私みたいにおんぼろバイクで貧乏丸出しで、立場(・・)がある人間だとマークされがちだ。

 校門のある地点からさらに上へと窮屈な運転を続けるとようやく駐車場へ到着する。田舎の立地特有のどでかい自動車駐車場の隅へ車体を向け、前者と比べると豚小屋みたいなバイク駐車場へと入る。

「ふぅー……」

 この時間のいいところは狭い駐車場が比較的すいているところだ。私はバイクに乗ったまま適当な場所を選んで、白線の中に車体を納めてエンジンを切る。

 カブから降りてセンタースタンドで車体を安定させる。メットホルダーにヘルメットを取り付けるとバイトの分と合わせて運転の疲労がドッと湧き出す。

「げぇ……」

 学校の立地のいいところを、あえて一つ上げるとしたらボロアパートのある竹林同様、周囲が自然に囲まれていることだ。おかげで道中たっぷり吸い込んでいた排気ガスをフィトンチッドと存分に交換できる。時間も早い事だし、できればしばらくここでボーっと深呼吸を続けていたいくらいだ。

「……まだ」

 でも休むにはまだ早い。私はカゴからリュックを掴み上げて背負いながら歩き出す。貧乏には暇が無い。重い体に鞭を打ちながら、まだ閑散とした敷地内を行く。昇降口に入ると最小限の動作で上履きに履き替えて二年生の教室がある二階まで一段飛ばしで階段を登る。こちらもまた閑散とした廊下、教室の群れの奥まった方へ歩みを進める。全く、なんで私は奥とか隅とかに縁があるのだろう。おかげで体をイジメ抜くはめになるのに。

 ……いや、それでもこの学校においては奥の教室である必要がある。

「はぁ……はぁ……」

 ここまで来るとさすがに体力の限界が。昔疲労が原因で間違って違う教室に入ったことがある。だから教室に入る前にはプレートを見上げる習慣がついてしまった。

「2―S……」

 各学年の特待生が所属するSクラス。これも地方の有名私立あるある。有名大学への進学率をアピールするために県内でも優秀な学生を集めて構成されたいわゆる特進クラスってやつだ。

 引き戸を開ける。そこにはすでに二、三人物好きが席に着いていたけど私達の間で会話が交わされる事は無い。彼らにしたって個人主義。それぞれが勉強したりゲームしたり宇宙人と交信を始めたりと思い思いに過ごしている。

 別にクラスメイトだからって仲がいいわけじゃないし、仲良くする必要も無い。特進クラスは学校のブランドをアピールするために集められた傭兵みたいなものだ。仲が悪くても、体育祭に参加しなくても、文化祭で発表しなくても、何だったら授業中に漫画を描いていたって何も言われない。私達に求められるのは圧倒的な学力、その一点だけ。

 交流の激しいクラスメイトはよく他のクラスから「Sクラスってそんな勉強ばかりで息苦しくないか」と言われるらしい。言い方が悪いけどその意見は頭の悪いクラスになればなるほどその傾向がある気がする。確かに彼らは体育祭も文化祭もノリノリでよく「絆パワー」と言っている。一つ苦言を言わせてもらうなら、それだけ遊んでいれば勉強時間の余裕が無くなる。だから酸欠になるのだろうと。

 そう余裕。私は別に特進クラスの雰囲気を悪く思っていない。このクラスでは誰も私が貧乏くさくても誰も何も言ってこない。その意味ではとても快適だ。私が困っているのはこの学校においても余裕の無い生活を強要される事。

 私が特進クラスに在籍しているのは他でもない特待生待遇のため、お金のためだ。特待生は実力を見せることでさっきまでの特典に加えて授業料の全額免除という一番重要な特権が手に入る。小学時代に父親が、中学時代に母親が蒸発した私は高校の学費だって払えるか怪しい。私立なんて言わずもがなだ。そんな私がここに通えているのは常に各教科の成績で十位以内と多少やりすぎなラインをキープしているから。

「……いただきます」

 私はリュックから朝ごはんを取り出す。おとといあそこのスーパーで買った黒パンの塊。もちろんおつとめ品で値引きは半額。私の学校での一日は朝ご飯で始まる。

「もっ、もっ、もっ」

 出来るだけ早く、ちぎっては飲み込むようにお腹へ。口の中の水分が奪われてあっという間に乾燥地帯になるけど、昔水道を止められたことがあるから気にならない。優先されるのは優雅な時間などでは無く補給の速さだ。

「……はぁ。ごちそうさま――」

 食事が終わればそのまま腕を枕にして机に突っ伏して寝る。朝のショートホームルームギリギリまで、いや場合によっては一限まで眠る。

「――……すぅ」

 原付で移動しているとはいえ午前三時から動きっぱなしなのは体力を消耗する。加えて普段から合計五時間に満たない睡眠時間。足りない分を追加するのであればこのタイミングしかない。幸いな事に今日はやり残した宿題・課題は無い。存分に眠れる。

 え? 寝るのはいいけど朝礼までには起きなさいって? 学校行事に参加しなくてもいい特待生には大した連絡なんて入ってこないし。仮に重要な連絡があれば――例えば学費や原付に関わる事とか――人間という生き物は不思議なものでパッと目が覚める。だから、せめてこの時間だけはゆっくり眠らせて……。

「よーし、全員いるな!」

 チャイムの音と共に一限の教諭が入って来る。今日の睡眠時間は一時間十五分か……もっと眠ろうと思ったらやっぱり食べるスピードを上げるしかない。

 私は目元の隈ごと両目をぬぐうと、意識を一気に覚醒へと持ってゆく。ここからの時間は居眠りなんてしている暇なんて無い。私の学校での戦争が始まる。

 教諭の板書を書いたそばからノートに書きとり、セリフの中で重要なものも書き加える。並行して説明通りに問題が解けるのか例題にも取り組む。

「……やった」

 生活のために睡眠時間を切り詰めるほどバイトを入れている私にとって塾や予備校、参考書に使える余裕は時間・お金双方無い。ゆえに勉強は全て学校の中、授業の中で完結させる必要がある。

 自慢じゃないけど私は記憶能力がいい。というか、昔電気を止められたことがあって勉強するなら明るいうちしかできないことがあった。勉強時間をやりくりしなければならないとしたら人間嫌でも集中力・記憶力の質を上げるしかない。貧困に鍛えられた……なんて言えば聞こえはいいけど、とにかく私はこうして一度見た授業の、とりわけ試験に必要な部分を完璧に記憶する力を身につけた。

 この力は仕事にも応用が利く。例えば新聞配達やそば屋の出前のルートを覚えるのに役立っている。選択と集中。無責任な大人は「蛍雪の功」だなんて見当違いな褒め方をしてきたっけ……言葉なんていらないからお金と時間をくれ。

「よし。今日の授業はここまで。課題は黒板に書いておくからな」

 終了のチャイム。クラスメイトは伸びをしたり席を立って隣の友人同士で授業の感想を言い合ったりとリラックスモードだ。まあ普通は休み時間はゆっくり休んで、次の授業に向けて気を落ち着かせるものだろう。

 でも私はその十分でも惜しい。私は教科書を片付けずにそのまま課題に取り組む。理由は単純。課題を家に持ち帰る余裕なんて無いから。学校が終わってバイトに出て、スーパーで生活用品を買ってetc……etc……無理!

 私が心置きなく眠るためには食事の時間以外学校ではフルで動く必要がある。え? 流石に昼休みだけはゆっくりできるんじゃないかだって? ノンノン、その時間は十分の内じゃ終わらなかった課題を片付けたり、先生に許可を貰って麓にある銀行まで生活に関わる支払いをしたりと結局忙殺される。

「ふぅ……」

 一息つけるのは空がわずかに暗くなってから。今日も授業課題授業課題時々食事の学校生活が終わった。


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