2-3 夜明け


 『宙』が勝手に家の外に出る可能性を、考慮していなかった。勝手に家に入ってきたのだから外にでる可能性だって十分考えられるのだが、ずっと一緒に過ごして、外の世界に全く興味を示さないのを見て安心してしまっていた。

 だが今日は宇美が家に帰らなかった。いつも帰ってくる時間に帰らなかった。宇美が帰ってこなけれれば食べるものもない。ならば何かしらの行動を起こすのは当然のことだった。


「『宙』!」


「……ぁ!」


 『宙』は宇美の姿を視界に捉えて、一瞬微笑むような表情を見せた。それは安堵のようでもあったが、そのような感情が『宙』に備わっているのかは分からなかった。


「遅くなってごめん、探した?」


 返事はないが、肯定しているような気がした。ごめん、ともう一度謝って、『宙』の頭を撫でた。柔らかい髪の触り心地を感じながら、これが偽物だということが信じられなかった。しかし既に証拠は出てしまっている。

 宇美は『宙』の手を取った。とにかく今日は急いで家に帰らなければならない。いなくなったはずの『宙』の姿を誰かに見られてしまえば、やっかいなことになるかもしれないからだ。誰かに見られたらどうするんだという怒りの気持ちと、危ない目に遭う前に出会えて良かったという安堵の気持ち。その2つが歪に絡み合って宇美の中に同居していた。

 2人は早足で歩いた。もっとも、急いでいるのは1人だけであったが。



 遅すぎる夕食を作りながら、宇美はここまでに得た情報を頭の中で整理していた。

 宙が避難していた建物は宇宙人に飲み込まれてしまった。しばらくして、『宙』が急に宇美の家にやってきた。『宙』は『宇宙人』の細胞によって構成されている。

 『宙』が『宇宙人』であること、あるいはそれに類するものだということは間違いないだろう。もはや紛れもない事実だ。受け入れるしかない。感情が拒んだとしても、理性がこれを受け入れるべきだと唱えている。

 『宙』は宇宙人だ。それは確実な真理であり、その絶対的な存在を前に宇美は抵抗することは出来そうになかった。

 敵によって造られたという事実は、あまり問題ではなかった。もしスパイとして、刺客として送り込まれてきたのだとするなら、なぜ一度も攻撃してこなかったのか? 何度でもチャンスはあったはずだ。だがやらなかった。

 ここからは、宇美が頭の中で考えた仮説だ。

 『宇宙人』は確かに刺客を送り出していたのだ。しかし『宙』は失敗作だった。元の人間と同じ記憶を持ち、同じ癖を持ち、同じ習慣を持つ。だが、人間の社会で適応できるような、知性を持つことが出来なかったのだ。

 ここでいう知性とは、人間から見たときの知性だ。人間社会に適応するためには、人間と同じような知性を持っていなくてはならない。客観的に見たときにどれだけ高度な知能を持っていたとしても、社会に適応出来ないような知性であれば、それは知性とは見なされない。

 おそらくこの『宙』はそのような存在なのだ。本当な高度な思考を巡らしているのかもしれない。だが、同じ土俵でものを考えてくれる仲間がいないければ、どれだけ思考できてもすべて吐き捨てられてしまう。

 宇美の中では、不思議なことが起こっていた。『宙』が『宇宙人』であるという事実が明らかになっていくに連れて、反対にそのことへの執着が薄くなっていくのだった。もしかしたらそうかもしれない、という不安よりも、確実にそうだという絶望の方が居心地がいいのかもしれなかった。

 今日の夕食は冷凍庫の隅に残っていたものを適当に炒めた料理だ。何も買う暇がなかったから仕方がなかったが、『宙』はとても美味しそうにむさぼっている。

 見れば見るほど、『宙』は人間的ではなかった。本当は高度な生き物であったとしても、その姿はむしろ獣のような、あるいは愛玩動物のようなものだった。

 人間として見ないことによって、宇美の中には、新たな愛情が芽生え始めていた。昨日まで抱いていた人間に対する愛情に、それ以外のものに対する愛情が接ぎ木され、成長を始めていた。

 自分に対する認識が変わっていることなどはまったく知らずに、『宙』は無邪気な表情で食事を続けていた。



 その日、宇美は『宙』と共に寝た。最初は違う布団で眠るが、しばらくすると『宙』はゆっくりと宇美の布団の中に入ってくる。『宙』は宇美へと身体をすり寄せてくる。これはいつものことであり、宙の習慣でもあった。

 かつて、宙と暮らしていた時にはいつも同じ布団で夜を過ごしていた。互いに大事に想い合っていた。高まった夜には、どちらともなく、抱き合い、服を脱ぎ、身体を重ね合った。それは何か約束によって形式的に行われるようなものではなく、ごく自然な行為であり、日常生活の延長だった。

 『宙』のことを宙だと思っていた時は、そのような行為は絶対にしないことに決めていた。『宙』の方から何かしらのアプローチがあったとしても、それが許されることだとは思えなかった。

 だが宙と同じ顔の、同じ声の、同じ身体を持った生き物が、それは植え付けられた習慣によるものかもしれなかったが、宇美と抱き合うことを求めているのだ。

 こらえきれなかった。もはや枷はなかった。昨日と今日で『宙』は何も変わらない。だが宇美から見た『宙』は明らかに違うものになった。それが宇美の行動に変化を起こさせた。

 2人は、1つの布団の中で、1つになった。



 朝、目を覚ますと、布団の中から『宙』がいなくなっていた。見回すと、部屋の隅の方でうずくまっているのが見えた。外からの人工的な朝の日差しが、窓のカーテンを貫通して、部屋全体を薄ぼんやりと照らしていた。『宙』は何かにおびえているような様子だった。


「どうしたの、『宙』」


 その時、自宅のドアを誰かがノックした。一体こんな時間に誰が来たのかと思い、窓のカーテンをそっとめくる。外にはいくつもの軍服が立ち並んでいた。


「憲兵だ、開けろ!」


 そんな恐れていたことが起こった。宇美は直感した。

今から数分の行動が、自分の運命を決める。身体が震え、熱くなっていくのを感じた。

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