第2章

2-1 『宙』


 あのラジオを聞いてから、確かめずにはいられなくなった。宙は『宇宙人』なのか? 

 私の隣で穏やかに寝息を立てている最愛の友は、敵が送り込んできた刺客だったのか?

 怖い。

 怖い怖い。

 恐怖によって親愛の心が蝕まれていく。宙と過ごした日々が、思い出が、じわじわと黒く濁っていく。

 調べてもらおう。

 宇美は決断した。『宙』の細胞をこっそり採取して、キュリオシティに渡してみよう。彼女ほどの立場の人間なら、こっそり軍の設備を使うことも出来るはずだ。『宙』のことがバレてしまうかもしれなかったが、その時のことを考える余裕は今の宇美にはなかった。

 もし、宇美が恐れている結果が出てしまったなら、宇美はその結果を受け入れることは出来ないかもしれなかった。やっと再建したこの忙しくも満たされた生活が、崩れてしまうのだから。

 それでも何か行動を起こさずにはいられなかった。このままでは、自分の中に巣喰う疑いの根によって、周りの景色が歪んでいく。自分の生きている世界は、何もかも、嘘によって塗り固められているように見えていくる。疑いの根はコンクリートの床を突き破るように、『宙』との思い出に楔を打ち込んでいる

 永遠に終わらない思考の底へと、宇美は沈んでいった。

 いつも朝起きたときは元気に飛びついてきてくれる『宙』は、何かを察したのか隣でじっと座って宇美の横顔を見つめていた。



 宇美は再びキュリオシティと顔を会わせていた。キュリオシティの表情からは、朗らかな要素が一切消えていた。


「結論から言わせてもらう。そして重大な質問がある」


 いつも人を食ったような態度を崩さないキュリオシティが、今は動揺を隠せないようだった。


「君にもらった細胞は、確実に『宇宙人』のものだ。これをどこで手に入れた?」


 キュリオシティは机に置かれた酒には見向きもせず、話を始めた。空気中の水分が凝固して、グラスの側面を濡らしていた。集まって重くなった水滴が、だらりとグラスの底へと滑り落ちていった。


「申し訳ないが、どこで手に入れたかは、今は言えない」


 宇美にとって『宙』が『宇宙人』だったという事実は、簡単に受け入れられるようなものではない。数日間何も考えずに過ごしたいほどだ。それだから、『宙』のことを詮索されることによって、宇美の心は悪い方へと滑り落ちていく。


「何故だ。やましい経路で手に入れたのか?」


「いや、そういうわけじゃない」


「『宇宙人』を倒すには、やつらの細胞が必要だということは言ったはずだ。君はそれを理解したはずだ。それなのに教える気はないというのか?」


「理由がある。教えられない」


 キュリオシティはいら立ちを隠せていなかった。短くなった煙草をすりつぶし、新しい一本に火を付けるべく火打ち石をカチカチとならしているが上手くいかないようだ。同時に、宇美も相当動揺していた。


「わざわざ調べてもらったのに申し訳ない。だが、これ以上詮索しないでほしい。今日はもう帰りたい」


「待て、おい!」


 宇美は二人分の会計を済ませて、酒場を後にした。


 キュリオシティと強引に別れた後、宇美はまた別の居酒屋で独りで酒を呷っていた。元々得意な方ではなかったから、あっという間に酔いが回ってしまった。

 今日は家に帰りたくないな、と宇美は思った。『宙』と会うのが怖い。『宙』が『宇宙人』だということには、あまり恐怖を感じていなかった。恐怖の源は、『宙』にではなくむしろ宇美自身にあった。『宙』と出会ってから、宇美の生活は格段に改善された。宙と同じ見た目をしたものと一緒に暮らしを始めたことで、宇美が抱えていた寂しさや劣等感、罪悪感や希死念慮といったネガティブなものが少しずつ少しずつ洗い流されていった。

 宙が帰ってきたという事実が、元々あったネガティブなものと置換されることで、宇美の心は満たされていたのだ。だが、宙の存在が嘘だったということになれば、宇美の心には一体何が残されるのか。

 本当に恐ろしいのは、心が負の感情で一杯になることではなく、心が空っぽになってしまうことだ。そこには何の意味もない、虚空が広がるだけなのだから。

 今日は帰らないでおこう。どうせ、何も食べなくたって『宙』は死ぬことはないだろう。『宙』が人間とは別の存在だということを、完全に受け入れている自分が嫌だった。

 色んな嫌が覆い被さってきて、宇美の歩みを阻害しようとする。もう、立っていられない。宇美の脳は、そこで限界を迎えた。



 遠くの方から、声が聞こえた。


「……イ!スカイ!!しっかりしろ!」



 何が大きな生物が暴れているかのような爆発音。人々の悲鳴、怒号。戦闘車両から吐き出される弾丸が、タタタタタという叩くような音を響かせながら前方へと突き進んでいく。

 横腹が痛い。

 げほ、と口から血や他のものが混じった塊を吐きながらむせる。

 スカイ、それは宇美のコードネームだった。軍を抜けてからは、ずっとその名で呼ばれたことはなかった。

 見上げると、一般市民の避難所であるシェルターが炎を上げて燃え上がっていた。あそこには宙が避難している。そうだ。私はこんな所で何をやっているんだ。助けに、助けに行かなくては。

 宙。

 私が闘う理由。

 それが今、失われようとしている。



「起きろ!スカイ!」


 宇美は、強引に現実へと引き戻された。見上げると、そこは飲食店のゴミ捨て場の前だった。ゴミの中に突っ込んでいなくてよかったと、場違いな安堵が生まれた。

 先ほどから自分の名前を呼んでいた人物へと顔を向ける。

 憲兵だった。憲兵自体は、いつも居住区をうろうろしているから珍しいものではない。しかし、この憲兵には無視できない要素があった。


「あれ、ボンド……?」


「誰か倒れていると思って顔を見たらスカイだった。驚いたぞ」


 ボンド。宇美がかつて戦場を共にしていた仲間の一人だった。堅物だった旧友は今、憲兵の制服をばっちりと着こなして宇美の目の前に立っていた。夜の赤みがかった照明に背後から照らされたその姿は、ぼんやりと背景から浮き上がっているように見えた。

 

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