第31話 逃避行
――ゴポゴポッ!
海面に気泡が浮かび、色の濃い海水に二人の姿が隠された。浮き輪ごと沈んだレンは、蓮實の手から逃れられれば、浮き上がることは可能だ。右手で、蓮實の顔面を殴りつけるも、ダメージを受けてるようには微塵も感じられない。蓮實はレンの左手をしっかり掴み、微動だにしない。やがて、タグボートから浮き輪に繋がるロープが伸びきってピンッと引っ張られた。反動でピッタリとくっついていた蓮實の体が離れて沈んでいくかに見えた。しかし、掴まれた左手はしっかりと握られたままレンが海面へ浮き上がるのを阻止していた。レンは足蹴りして離れようと奮闘するも、蓮實に対してまったく歯が立たない。
「(しまった!)」
レンが気づいた時には、すでに意識が遠のきそうになっていた。酸素を無駄に消費させて、自分は動かない――。相手の策にまんまと乗せられていたのだ。視界が次第に暗闇に包まれていく中、眼下の蓮實が薄っすら笑ったように見えた。海中での持久戦は奴の勝利で終わろうとしていた。
遠のく意識の中で、様々な思いが巡る。左手の力を使えば、敵なしだったあの頃。決して世の中には受け入れられないバケモノとして生き、人として生きることを渇望しながらも、左手の磁力と腕力で常人を上回ることでのみ全能感を得ていた。誰にも望まれなくても、正義のために戦っていたと自らを信じ込ませていた、ヒーロー気取りの自分。まやかしの善の心は、自らの復讐に燃える実験体53号の前では、例え悪であっても、自らの偽りのない欲望に真摯だった奴の方が、ずっと正直で善なのかもしれない。そんな思いを受け入れようとしていた。しかし、
――もう一度、逢いたい。
おじさんから唐揚げの作り方を教わって、作ってくれると約束してた。大人に成ったら、まだ見ぬ世界へと旅に出ようと約束していた。
あんな逃走劇じゃなくて、ゆったりとタンデムで海辺の道を走る約束がまだ果たされていない。
レンは決意を新たにし、ズボンの右ポケットに手を伸ばした。その指先に触れるのは一本のバイクの鍵。
蓮實に掴まれたレンの左手の指先が変形して細く伸びていく。レンは、鍵を持った右手で、左腕の袖をめくり上げ、ボコボコと穴の開いた鋼鉄の左腕を露出した。
「(無駄な足掻きを)」
蓮實は手に力を込める。レンは、腕の隙間に鍵を差し込んで、テコの原理で外装を引きはがした。剥がれた外装を引きちぎって腕から外した。レンは一本の細長い楔を手に入れたのだ。そして、掴まれた手首をそれで叩きだした。蓮實は止めさせようと、反対に手を伸ばすが、ギリギリ届かない。何度か叩くうちに手首の外装が一部壊れて隙間が出来た。レンは手に持った楔を隙間に差し込み、
手の外装に亀裂が入り折り重なる。一瞬、握り込んだ外装もろとも蓮實の手が僅かに滑り落ちた。
「(させるか!!)」
細くなったレンの指先で握り直す蓮實。しかし、そのことによって割れていくレンの指。細く変形したレンの指はとても脆くなっていたのだ。
最後の力を振り絞って、掴みかかっている蓮實の手を両足で蹴った。指は完全に破断し、蓮實は海底へと沈んでいった。左手の指をすべて失ったレンは海の上に向って猛スピードで上昇していった。
「うはぁ! ああぁ!!!」
「レン君!!!」
「レン!」
勢いの付いたレンは、まるでイルカのジャンプみたいに海面に飛び出してきた。船の上の二人は慌ててロープを手繰り寄せる。船の縁まで来たレンを二人して引っ張り込んだ。
「どうしたんだその手は!!」
「そんなことより、早く船を出せ勝利!!」
蓮實が遅れて海面に上がってきていた。タグボートは一路、近くにあるスクラップ場を目指して舵を取る。後方からは、バタ足でありえないほど高く水しぶきを上げながら迫ってくる蓮實。
「速度を落とすな勝利!」
「レン! このままじゃ岸壁にぶつかっちまうよ!!」
「勝利! スロットル全開のまま固定しろ!! ふたりともこっちへ」
操舵室の天井へと上がった3人。スクラップ場の岸壁が目前に迫る。
「しっかり摑まって!」
操を右側に、勝利を左側に抱えたレンは、左手を上に掲げた。
――ドンッ!!!
岸壁に衝突する瞬間にジャンプし、上空に吊り下げられたクレーンのワイヤーへと左手が伸びて行く。うまくワイヤーが左腕に絡まったかに見えたが……。
「クソッ!」
いつもなら空中ブランコの要領で、勢いを殺して降り立つところなのだが、指を失ったレンはワイヤーを掴むことが出来なかった。ブランコのように舞い上がったワイヤーが止まった所で、遠心力に磁力が負けて、スルスルとワイヤーはほどけていき、最後には吹っ飛んで行かざる負えなかった。
「グエッ!」
着地の瞬間、勝利が声を漏らした。それでも、なんとか勢いを殺して地面に軟着陸した3人。
「レン、お前、俺をクッション代わりにしただろ?」
「そんなことないよ。俺は操が怪我しないように注意してただけだよ」
「ありがとう。私は何ともないよ」
「良かったぁ~。操が怪我でもしたらどうしようかと思った」
「お前ら、いちゃつく前に俺から降りろよ!!」
無駄話をしている間に、蓮實が海面から飛び上がった。
地面に転がりながら着地をした蓮實。
「あいつも、かなりキてるはず」
そう言うと、レンは立ち上がって、まだ態勢の整っていない蓮實に向って駆け出した。手近の瓦礫の山から鉄パイプを左手に引き寄せ殴り掛かる。
「うおりゃー!!!」
ガードする腕に何度も振り下ろした所為で、蓮實の装甲も凹んだり剥がれ落ちる部分が出て来る。
しかし、最後には手で掴まれ、逆に振り回される。レンは手を離し、空中を吹っ飛んでいく。ようやく立ち上がれた蓮實は、レンを追ってスクラップ場の奥深く入っていった。
「やっぱり、あいつの方が海水でやられてる」
びっこを引いて飛び跳ねるような走り方で迫ってくる蓮實。レンより旧式でほとんどが金属製の体は、傷ついた部分からの海水の侵食で大分蝕まれているようだった。
やがて、重機が置いてあり、周囲にうず高く廃車が積まれた場所に出た。ここは事前にヴァイス博士と打ち合わせてあった、対53号用の決戦の地だった。怪力で劣るレンでも、廃車の山で蓮實を潰してしまおうという作戦なのだ。
廃車の谷に蓮實が差し掛かった時、レンは反転して頂上に重なった車の一台を磁力で引き落とした。飛び上がって蓮實が避けた瞬間、谷の両側から爆発が起こった。
土煙を上げて、崩れ落ちて行く廃車の山。
「やった! やったぞ! レン! ワシの作戦は上手く行ったじゃろ!!」
重機の間に隠れていたヴァイス博士が喜び勇んで飛び出してきた。
「戻れオーパ! まだ分からない!!」
レンの視線の先で土煙が段々と消えていく。崩れ落ちた廃車の山の下敷きになった蓮實は押しつぶされたとしか思えない。しかし。
――ガンッ! ガンッ! ガンッ!
山の奥から音が聞こえてきた。
山に重なる車の一台が吹き飛び、そこから這い出て来る金属の肉体。
「危なかったよ。この左手で引き寄せられなければ、隙間を作れなかっただろう」
蓮實は降りかかる車体を寸前で回転させ、体を守るだけの隙間を確保していたのだ。
「チッ……」
レンは、舌打ちをした後、脱兎のごとく逃げ出した。
「逃がすか!」
飛び上がった蓮實が、先回りしてレンの前に現れた。
「なんで?」
「磁力を使って自分の体を引き寄せる。面白い戦法だな」
蓮實は戦いの中で、磁力を活用する方法を学んでいたのだ。レンは近くにあった鉄屑を集積した大きな箱から廃材を取り出し投げつける。
「ほほう。こうやって避けるのか」
蓮實は左手をかざして、磁力で飛んでくる鉄屑をコントロールしてかわした。
「今度は、こっちから行くぞ!」
蓮實は周囲に散乱した鉄屑をレンに向って投げつけだした。レンは細長い鉄屑を目の前に並べて壁を作って防ぐ。すると、徐々に近づいて来た蓮實が跳躍して壁の内側に落ちて来たかと思うと、前に投げ出されていたレンの左腕を右手で掴んだ。
「案外、脆いものだな」
蓮實はレンの左腕の根元に鉄塊を叩き落し、切断したのだった。
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