第2話

 始めて給付された失業保険は十三日分。通帳残高に残った金額を見れば焦る程の状況でないにしても、職に就く事を真剣に考え始めなければいけない頃合いで、御節介おせっかいな親類辺りが『もう手遅れなくらいだ』と尻を叩きに来てもおかしく無い時分。やれやれ、と腰を上げなければならないはずなのに、どうにも体は重いまま。良くも悪くも焦りすら微塵みじんも沸いてこず、職業安定所を後にすると結局いつもの公園に向かった。

 公園のベンチに腰を下ろしていた老人は私の足音に気が付くと顔を上げて微笑んだ。未だにもう一つのベンチは修理がされず、撤去すらされない物だから、老人は私の為に少しばかり動いて場所を開けてくれる。

「こんにちは」

 コンビニで買ってきた缶コーヒーを手渡しながら老人に声を掛けると

「何か良い仕事はありましたか?」

 と尋ねて来るので私は小さな音を立てて苦笑いする。目の見えないはずの老人だけれども、だからこそ鋭利になった感覚で私の心象を察してか、幾ばくか残念そうな顔してから「まあ、すぐに見つかるでしょう」と微笑んでくれた。薄く開いた白んだ目が優しく歪む。


 学校に通う間、ずっと寄宿舎で生活していました。畳敷きの二人部屋で同室の者もめしいです。見えない者同士でしたので困る事もありましたが、目明めあきと暮らすよりは気兼ねなかったと思います。

 そこを卒業してから今住んでいる家に移って按摩あんまを生業にしました。とっくの昔に潰れてしまいましたが家から十五分程歩いたところに鍼灸院がありまして、住み込みで働いていた十六歳の少年に腕を引かれて、鍼灸院まで毎朝通った物です。それで、その日は盆が過ぎてから初めて空気に冷たい芯が生えた朝の事だったと思います。

 私は老人の話を聞きながら缶コーヒーを飲み、それから少しばかり空を見上げると真っ青な空に映える真白な入道雲が西の空に浮かんでいるのが目に付いて、その輝かしい空の色に私の眼は焼かれて一瞬のうちに視界が白む。それから目を閉じると季節は移り変わり、老人の語る物語の情景が再び目蓋の裏に浮かび上がってくる。

 家から五分ほど歩きますと交差点がありまして、勤め人やら新聞の配達人やらが歩く沢山の足音が方々から聞こえていました。通りの角にある煙草屋のおかみさんが

「今日は冷え込みますねぇ」

 なんて声を掛けてきましたので、私もそちらの方へ頭を下げたのですが、突然、腕を引いていた少年が足早にいつもと違う道へ進んで行きます。多分、路地裏に入ったのでしょう。先ほどまで聞こえていた足音は遠くになっていましたし、日影になる場所に漂う湿った香りがありました。そんな場所に連れてきた若者の手は冷えとは違った凍え方をしていて、その指先の微妙な震えが私の肘の辺りに伝わっていました。

「それから、その若い子はどうしたんです?」

 缶コーヒーを飲んで口を潤す老人に私は尋ねた。老人の頬には白い不精髭が薄く生え、顔に刻まれた皺に髭が疲れたように沈み込んでいて、陽射しを浴びたその老いた顔を見た時、私はふと、皺一つ無い老い方だけはしたくないと感じた。

 老人は私の質問に小さく頷きながら白んだ瞳で虚空を見つめ、昔語りを続けた。

 それから少年は金を工面してくれないか、と頼み始めました。突然の相談に驚きましたが、目の前で頭を下げ続けている気配が続いていましたので理由を尋ねました。ですが少年は口を開かず頭を下げるばかり。そうこうしているうちに朝一に予約を入れていた患者さんがやってくる時間が近づいてきます。

「幾ら程必要なのですか」

 相手に値段を尋ねる以上、出来る限りその願いに応えてやろうというみょうなこだわりがありました。まだ二十歳やそこらの時分です。貯蓄はたかが知れていますが、当時はそれよりも体面たいめんの方がよっぽど大切なのだと思えていました。

 ブランコの方へ目を向けながら老人は自嘲気味に微笑む。私はブランコの鉄柱から飛び立っていく数羽の雀を眺めていた。奇妙な心地で、そちらに目を向けているこの老人にもさえずりと共に舞い上がる雀達の飛行が見えているような気がした。

 昼ドンが鳴ってから少年に腕を引かれて自宅に帰り、箪笥にしまっていた金を取りに行きました。結構な額でしたが貸してやれない事も無い額でした。なぜ金が入用になったのか若者から説明はありませんでしたし、どうして鍼灸院の主人に相談しないのかとも尋ねましたが、ただただ彼は、必ずお返しします、と繰り返していました。その言葉の裏に嘘偽りの臭いが微塵も無いと思えたので金を入れた封筒を手渡してしまいました。

「それから、お金は帰って来たんですか?」

「いいえ」

 そう言って小さく首を横に振ってから老人は缶コーヒーを飲み干したので、私は「捨てておきますよ」と空き缶を受け取った。微笑み返した老人に

「その少年は嘘をついたんですか?」と私は尋ねたのだけれど、

「いいえ」と再び老人は小さく頭を振る。

 確か、二日後の朝です。いつも少年が私の家に迎えに来るのですが、その日は鍼灸院の院長の奥さんが慌ててやって来て、例の少年が亡くなった、と知らせました。

「これから院長と葬式にいかねばならないから二、三日、医院を任せられないでしょうか」

 奥さんの言葉にしばらく声が出ませんでした。金の事も当然ですが、それ以上にまだ成人もしてない少年です。その少年が生前助けをうた時、もしかしたら何かに気付く事も出来たかもしれない。そう思うと先日の路地裏での出来事がぐるぐると思い浮かんで、しばらく奥さんの話を上の空で聞いていました。

「……その少年はどうして?」

「詳しい事は聞いておりません。葬式から返ってきた院長夫妻に尋ねても良かったのですが、気が進まなくて結局何も聞かず仕舞いでした。亡くなった若者の実家は随分遠かったので仕度も無しに行く事も出来ませんし、それに事が落ち着いた後になって少年の親御さんに金の話をしに行くような形になってしまうようで……」

 老人は今更金について思いを馳せているようには見えなかったけれど、それでもなお少年がどうして金を必要としたのか気になっているようだ。

「もう少ししたら、あの世で尋ねてみようかと思っています」

 老人はそう言って顔の皺を優しく歪めて笑うのだけれど、私は遠慮がちに苦笑いする事しか出来なかった。


 数日前に面接を受け、今はその結果を待っている最中。いつもの公園のベンチにたった一人で腰かけている。最後に老人と会ったのは一カ月前。何の脈絡も無く、突然、老人は公園に来なくなった。ちょっと気分がすぐれないのか、はたまた風邪でも引いたのか。もしかしたら大事があったのかもしれないけれど、かの老人の家どころか名前や名字すら知らない私にはどうにも出来ない。

「依然お話しした少年の事を覚えてますか?」

 一月前、老人はこのベンチに座って私に尋ねた。あの日、老人が被っていた麦藁帽に反射した陽射しに目を細めながら

「ええ、覚えてますよ」と答えると、

「あの若者、やっぱり嘘はついていなかったみたいです」

 そう言って微笑み、ペットボトルに入った冷たいお茶を一口飲んだ。太陽が発散する強烈な夏の日差しが体力を奪っていくので、最近の老人はベンチに三十分も座っていると家へ帰ってしまう。

 その日、少年の話が上がったのは、そろそろ老人が家に帰ろうとする頃合いだった。

「もしかして、何か連絡があったんですか?」

 老人は首を横に振って、また一口お茶を飲み、こめかみから垂れてくる汗を拭うと

「それにしても、いつも私はあなたにお茶やコーヒーを頂いてるけれど、何のお返しもしていませんでしたね」

「そんな。気にしなくても良いですよ」

 私がそう答えると老人は少し考えるような素振りをした後、

「次、お会いする時は私が飲み物を買ってきますよ」

 気にしなくてもいいですよ、と私は同じ言葉を続けそうになるが、恐らく遠慮したところで老人も引かないんだろう。少し悩んだ末に

「それじゃ、その次は私が飲み物を買ってくるって事でどうでしょう?」

 と提案して、すると老人は、うんうん、と頷いてから微笑んで

「そうしましょう」

 老人はそう言ってから立ち上がり家へ帰って行ったのだけれど、それっきり。翌日からこの公園に足を踏み入れたのは私と野良猫くらいだ。

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