黒白黄色

 闇が深くなる。といっても、それはこころの話だ。私の世界は白い。柔らかな靄。淡い白光。それが私の眼にみえるすべて。あるいは私の眼に見えないすべて。

 こつ、こつ、こつ、と杖で感触を確かめながら歩く。凹凸は地形が語る繊細な言語。その言葉こそが導きの灯台だ。点字ブロックは、いまもまだ黄色いらしい。まだ見えていた視覚の記憶。まだ存在していた色彩という属性。キ・イ・ロ。キで口角が横にのび、イで少しだけそれが狭まり、ロで舌先が前に出しゃばる。晴眼者せいがんしゃであった頃より、唇の動きが身近な気がする。キは木につながり、イは胃を思わせ、ロは炉に燃える。キ・イ・ロ。三音で鳴り響く圧縮された詩。その詩が表す概念を、私の眼はもうとらえられない。それでも言葉は私を揺らし、私の黄色が私をとらえる。キ・イ・ロ。視覚障害者誘導用ブロック、愛らしい黄色の点字ブロック。ワッフルに似ているとも評されるその形態。ワッフルは私も食べたことがある。おいしい焼菓子だ。私の行く手にワッフルが並べられていると考えると、勇気づけられる。杖で感触を確かめながら、味覚の記憶が甘やかに香る。キ・イ・ロ。三色に変化する信号機の真ん真ん中。黄色い肌と見なされた黄色おうしょく人種。キ・イ・ロ。私が知覚する白い光。私が夢想する黄色い光。キは希望のキ。キはキリンのキ。キは奇跡のキ。キ・イ・ロ。私の記憶を彩る黄色。私の視界に広がる白色。私のこころに忍び込む黒色。

 私が握る杖は白杖はくじょうと呼ばれている。ハクとは白。私の世界のように白いかはわからない。私は触覚によってしかその存在を感じられない。その感触のなんと頼もしいことか。子どもの頃に見たアニメに、ハクという登場人物がいた。異界を案内してくれる凛々しい少年。私はなんとなく、自分を導いてくれる杖をハクと呼んでいる。その方が親しみがわく気がするのだ。

 アニメは、眼の見えなくなったいまでも好きだ。映像は見えなくても、声が特徴的でくっきりしているから。声の色彩が情景を語るのだ。晴眼時代に好きだったアニメを見返すと、私は泣いてしまう。色あざやかな世界の記憶で、胸がいっぱいになる。

 こつ、こつ、こつ、と私はハクをワッフルの上で踊らせる。見えない道が、見えてくる。それでも油断は禁物だ。思わぬ障害はいつだって死角に潜んでいる。外を歩くのは命がけなのだ。視覚を失った当初は、路上に出るだけで恐怖に立ちすくんだ。荒野にひとりぼっちで捨て置かれたような気分だった。こんな世界で生きられるのかと思った。そのときもさんざっぱら泣いてしまった。

 闇が深くなる。

 私は絵を描くのが好きだった。マンガとアニメが大好きだった。好きなキャラクターの絵をよく描き写した。恥ずかしいような内容の自作マンガも描いた。なんとフルカラーだ。といっても、色鉛筆で塗りたくってみただけだが。幼稚園時代に買ってもらった、三十六色入り色鉛筆セット。フルカラーはその一度だけで、後は白黒のマンガばかり描いていた。読みやすくするためにフキダシやコマの配置を考えるのは、面倒ではあるが楽しい作業だった。将来は絵を描く職業につくと素朴に信じていた。

 いまでは、マンガを読むことはできない。セリフだけなら、朗読してもらったり、読み上げソフトを使えば、なんとかなるけれど。絵はどうしようもない。セリフを点字に訳してもらったところで、あの懐かしいフキダシや、コマとコマのなめらかなつながりや、黒ベタによる美しい陰影や、なによりも雄弁なキャラクターの表情は、失われてしまう。そもそも私は点字が少ししか読めない。あれほど好きだったマンガは、遠い世界になってしまった。

 こつ、こつ、こつ。路面をノックするように杖で叩く。街との対話、大地との対話。街をつくったのが人間なら、それは人とのコミュニケーション。大地をつくったのが神さまなら、それは神とのコミュニケーション。道はいろいろな言葉を語る。優しい言葉も、恐ろしい言葉も。

 闇が深くなる。

 ある時、私は暇つぶしに、以前に使っていた色鉛筆を、一本残らず叩き折った。三十六色もあれば、使わない色も出てくるから、幼い頃に買ったとはいえ、ほとんど削っていない色鉛筆も多かった。未使用の無垢な色鉛筆をへし折るのは、独特の爽快感があった。どうせ、もう使わない。晴眼だったところで、使わないだろう。色鉛筆なんて、子どもの玩具みたいなものだ。もっと立派な画具なんて、いくらでもあった。それらもほとんど捨ててしまったが。片づけてくれた父は、なにも言わなかったけれど、哀しんでいるのが気配でわかった。

 こつ、こつ、こつ。白杖にすがって歩く私のそばを、自転車が無遠慮に通りすぎる気配。風が荒々しく頬に吹きつけて、私は思わず立ち止まった。冷や汗の出る心地悪さ。速度を伴った重量物は、魑魅魍魎のような脅威だった。車やバイクは、もちろん死神だ。一歩間違えれば、死ぬ可能性は十分にある。同伴者のいない歩行は、薄氷を渡る決死行に近い。それでも、慣れた帰り道くらい、一人で歩きたかった。

 白い夜だった。私には朝も昼も夜も白い。思いのほか遅くなってしまったようだ。夜気が骨に染みた。私はまた歩き出した。

 闇が深くなる。

 眼が見えない人間と、耳が聞こえない人間なら、どちらになる方がマシか、などと、晴眼だった頃の私は、友達と無邪気に語りあった。その表現自体に、見下すような残酷さが含まれていることを、当時の私は気にかけなかった。友達も気にしなかった。友達は、眼が見えない方がいい、と答えた。

「なんで?」

「だって、声がまったく聞こえないなんて、寂しいじゃない。音楽がまったく聴けないなんて、虚しいじゃない。ぞっとする。凍った砂漠みたい」

「ふーん……。私は逆かな。たとえ無音で寂しくても、色あざやかな世界を見ていたい」

「あんたは、絵が上手いからね」

「まあね」

「取り柄、それだけだもんね」

「おいおい」

 私も友達も笑った。笑顔も笑い声も憶えている。笑い声ならいまでも聞くが、笑顔は記憶のなかでしか見られない。それでも笑いは好きだ。温もりを伝える笑いにかぎるなら。気配だけでも、笑顔はいいものだ。空気が柔らかくなるようなあのさざめき。

 友達は、いまでも一緒に笑ってくれる。あんな会話は、もう二度とすることはないだろうけれど。

 こつ、こつ、こつ。舵を取るように、松明を掲げるように、不可視の世界を杖で慎重に探りながら、私は歩く。どこまでも広がる白い砂漠のような世界を、私は歩く。

 私がひとりで歩くことに、母は強硬に反対した。負担なんて気にしなくていい、とにかく安心できるだれかがいつもそばについていないと、と大いに心配した。他人はそんなに優しくないと、口を酸っぱくして忠告した。あなたは女の子なんだから、と我が事のように怯えた。女というだけで時にどれほどの理不尽に襲われることがあるか、涙ながらに警告した。その警告に、性的なニュアンスが含まれていることは、鈍い私でも察することができた。

「眼が見えないのに、狙ったりするの?」

「眼が見えないから、狙うんだよ」

「…………」

 闇が深くなる。

 私がかつて愛したマンガやアニメの作品は、ストーリーの部分に着目するなら、どれも単純な正義感に貫かれていたような気がする。弱い者によりそい、卑劣を憎む、子どもっぽい義侠心。それは所詮は絵空事の建前だったかもしれないけれど、その建前に、どれほど救われたかわからなかった。その建前が、どれほど貴重で失われやすいものなのか、晴眼の私には見えていなかった。いまの私には、見えているのだろうか。白紙のような雪白の世界の只中で。

 こつ、こつ、こつ。私は歩く。夜の道を。見えない道を。杖を頼りに。不安を押し殺して。

 闇が深くなる。

 なにが起こったか、一瞬わからなかった。私の持っていた白杖が、消失した。握っていた感触が、もぎ離された。

 石化したように、呆然と私はその場に立ちつくした。

 私を導いてくれていた凛々しい相棒が、突然いなくなってしまった。見知らぬ異界に迷い込んだように、怖気が背筋を這いのぼってくる。

 人の気配がした。

「だれかいますか?」

 私は声をあげた。声音が震えているのが、自分でもわかった。

 反応はない。ただ、たしかにだれかがそばにいる。息づかいが聞こえる。衣擦れの音がする。

「すみません。助けてもらえませんか?」

 聞こえなかったのかと、私はなおも声をあげる。今度は反応があった。

 そのだれかは、笑っていた。声をひそめて、くすくすと、忍び笑いをもらしていた。

 私は遅まきながら理解した。私の杖を奪ったのは、この人なのだ。その笑いは、私のいちばん嫌いな笑いだった。温もりなどかけらもない笑い。抵抗のできない人間をなぶる笑い。リンチを取り囲む観客の笑い。弱いと見なされた者が踏みにじられるのを傍観して楽しむ薄汚い笑い。

「すみません。助けてもらえませんか?」

 私は同じ言葉を繰り返した。どうすればいいのかわからなかった。叫ぶべきなのだろうか。やみくもに走って逃げるべきだろうか。不安と恐怖だけが増していく。

 相手はやはりくすくすと笑っていた。こつ、こつ、こつ、と、奪った白杖で地面を叩く音がした。私を嘲笑っているようだった。

 どういうつもりなのだろう。なぜこんなことをするのだろう。なにがしたいのだろう。なぜこんなことがありえるのだろう。

 闇が深くなる。こころが黒くなる。闇しかなかった。真っ暗だった。世界は白くて、それ以上に黒かった。人間は見えなかった。温もりはなかった。希望は失せた。なにもなかった。

 からん、と杖の転がる音がした。そばにいただれかが、立ち去っていく気配。足音が遠ざかっていく。やがて、聞こえなくなった。

「…………」

 私は地面にかがんで、手探りで杖を探した。ほどなくしてハクは見つかった。私は杖を握りしめたが、その場にしゃがんだまま、しばらくのあいだ動けなかった。大したことじゃない。大したことじゃない。でも、死ぬのかと思った。大したことじゃない。なにも危害は加えられていない。でも、死ぬのかと思った。泣きたいような気分だった。

「どうしたの? あなた、大丈夫?」

 だれかの声がした。肩に手をかけられた。かすかに温もりを感じた。

「ええ、大丈夫です」

 私は立ち上がった。声のする方向に頭を下げて、感謝の念を示した。

「ありがとうございます。大丈夫ですから」

「だってあなた、泣いているじゃない」

 泣いてなどいなかった。眼は見えなくても、自分が泣いているかどうかくらいわかる。だからそれは、その人の勘違いだった。

「本当に大丈夫ですから」

 一瞬、最悪な想像が頭をよぎった。さっき杖を奪った人間が、今度は親切なふりをして声をかける、というような。善意すら疑わしくなるほど、いまの私は憔悴していた。

「そう……。でも、無理はしないでね。見えないのでしょう?」

「ええ」

「どうしようもない時は、声をあげていいのよ」

「ええ」

「助けてくれる人は、必ずいるから」

「ええ」

 ありがとうございます、と、私はもういちど感謝を伝えた。

「あ、そうだ。ひとつだけお聞きしたいのですけど」

「なに?」

「月は見えますか」

 親切なだれかは、戸惑ったようだった。

「月? 月って、空の月?」

「はい。その月です」

「ええと……うん、見えるわよ。くっきりと綺麗な満月」

「色は何色ですか」

「色? そうね、白色……いや、黄色かな」

「ありがとうございます。それだけ知りたかったので」

「あなた、本当に大丈夫なの?」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございました」

 こつ、こつ、こつ。私は杖を頼りに歩く。大丈夫だと、自分に何度も言い聞かせながら。

 黒い夜空に、白く、あるいは黄色く輝く美しい月。キ・イ・ロ。私には見えない夜空の、私には見えない世界の月。満月、半月、三日月、新月。記憶の月は、千変万化。三十六色とはいわないまでも、銀のような、赤のような、白のような、黄色のような、不可思議な存在。人間が唯一たどりついた宇宙の別天地。近いようで遠い世界。届くかもしれない希望。キ・ボ・ウ。私にも夜空はあり、私にも月はある。晴眼者は真昼に月を見ない。でも、私には見える。私だけの、ひっそりと真空にたたずむ、白く黄色い夢の天体。その輝きは、だれにも私から奪えはしない。

 こつ、こつ、こつ。見えない月光に照らされながら、見えない白杖を手にしながら、見えない点字ブロックに導かれながら、見えない闇の只中を、私は歩く。

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