ヨブのごとく

 痴漢に遭った。電車に乗っているとお尻を触られた。私はキレた。

 痴漢に遭うのは、これで三度目だった。一度目のときは、あまりにも驚いて、それが世にいう痴漢だと即座には認識できなかった。振り払うことも助けを求めることも、何もできず、ただ呆然と固まってしまった。触ってくる相手の顔すら確認できなかった。ぶしつけにまさぐられて、そのまま立ち去られた。

 私は電車を降りてから、駅のトイレの個室に入り、立ったまま扉に額を押しつけた。そうすれば頭が冷えるとでも思ったのだろうか。とにかく落ち着きたかった。でも、いま起きたことを改めて思い返していると、ふつふつと屈辱がこみあげてきた。頭が冷えるどころか、頭を叩き割りたくなるほどの激情に襲われた。怒りで全身の血が逆流するような気がした。

 トイレを出ると、行き交う人々の顔が視界に映る。そのなかにはもちろん男がいる。男、男、男。世界の半数を占めている生物。顔のない、匿名の、あの気持ちの悪い手の感触。吐き気がした。トイレに引き返し、実際に少し吐いた。最悪の気分だった。

 痴漢に遭ったことはだれにもいわなかった。いえる気がしない。私は学校では孤立しているし、家族とも、本音を話せるような関係性ではなかった。黙ったまま、ひとりで、ことあるごとに怒りに震えていた。授業中に、食事中に、眠るときに、記憶がフラッシュバックして、神経を苛まれた。

 涙がにじむこともあった。悔しくてたまらなかった。あんな卑劣な行為がこの世に存在していることが許せなかったし、なすがままに触らせてしまった自分にも腹が立った。自分に腹が立つと、なぜ被害者の私が自分を責めなければならないんだと、怒りがあちこちに暴走し、膨れ上がって、頭のなかがぐしゃぐしゃにかき乱れた。

 いつまでもそのことばかり考えていると、まるでその出来事が自分の生活の中心に居座ったかのようで、なにもかも台無しになるような無力感に襲われ、またしても吐き気がわいてくる。だが忘れることもできない。忘れられるものなら忘れたいが、忘れてたまるかとも思ってしまう。するとまた怒りがわいてくる。もともと快活な性格でもなかったが、ふさぎこむことがなおさら多くなった。屈辱の痛みに脅かされて、それまでと同じ、なんてことのない日常でも、鉄板で熱せられているような心地しかしなかった。空気に棘が生えたようでもあった。

 父親。同級生の男子。男の教師。道を歩く男、レジに立つ男、テレビに映る男。時にそれらの人々が、男というだけの理由で、見ていると嫌悪感がわいてきた。生まれてくるときに自分で性別を選べるわけでもないし、個人の人格を無視して性別だけで判断するなんてバカみたいだと理性では思ったが、どうしようもなかった。もともとミサンドリーの傾向はあったのかもしれない。それが、あの顔のない、おぞましい手の記憶によって、ますます強固になってしまった。

 ネットで見たことのあるポルノの映像を思い出す。なぜ見たのかは忘れてしまった。おそらく興味本位だろう。見ようと思えば、そんな映像はネット上にごろごろ転がっている。私が見た映像では、男の顔にモザイクがかかっていた。ぼやけた、個性を剥ぎ取られた、実体のない靄のような顔。おぞましかった。痴漢、という単語を打ち込んで検索すると、似たりよったりのポルノがぞろぞろヒットする。私の怒りと吐き気は永遠におさまりそうになかった。


「――漱石は、『三四郎』のなかで轢死する女性を描いています。線路に自ら身を横たえた、鉄道自殺ですね。また、それ以前に書かれた『草枕』では、汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい、と述べています。汽車ほど個性を軽蔑したものはない、とも。文明開化の時代に育った漱石の、独自の鉄道観がうかがえますね。まあ、私はいわゆる鉄オタ、鉄道趣味に血道をあげている人間なので、それに対する異論もあるのですが……」

 現代文の授業で、教師は余談に花を咲かせていた。この先生は、話がすぐに脱線するのが特徴で、たびたび怪しげな話題や危うい発言を振りまいたりもしているのだが、いまのところ問題にはなっていない。だれも真面目に聞いていないのかもしれない。私も普段は聞き流しているが、なにか引っかかるものがあった。

 明治時代の汽車? 百年も前の鉄道か。その頃にも痴漢はいたのだろうか。いたのだろう、きっと。百年前にも男はいて、女がいて、同じ空間に居合わせて、そしてあの顔のない不気味な手は、百年経っても息絶えないのだ。不変のおぞましさ。明治、大正、昭和、平成、時代がいくら変わろうとも根強く存在しつづける病巣。いまから百年後にも痴漢はいるのだろう。きっといるのだろう。うんざりだった。

 ノートをとっているような姿勢のまま、私は内心では相変わらず無力感とやり場のない怒りに責め苛まれてのたうちまわっていたが、そのとき、後ろの席からもごもごと何か聞こえた。

 私は首だけを動かして、ちらりとそちらを振り返ってみた。真後ろの席に座っている、眼鏡をかけた女生徒が、ささやくような小さな声で、何かをつぶやいていた。本当に小さな声なので、すぐ近くに座っていても、聞き逃してしまいそうだった。教科書とノートを開いてはいるが、それらには目をやらず、顔を伏せて、机の下のなにかを熱心に見ている。どうやら勉強をサボって、本を読んでいるようだった。

 私は人づきあいが苦手で、クラスにも親しく言葉をかわせるような相手はいなかったが、その子もあまり他人と喋っているのを見たことがない。無愛想で、人の輪からは離れて、いつも一人で過ごしているようだった。他人のことをいえる筋合いではないが。

「なに読んでるの?」

 私はひそひそとそうたずねた。気まぐれだった。自分から他人に声をかけることなど、普段はほとんどしないのだけど。だから友達もできないのだろう。

 眼鏡をかけた女生徒は、視線を上げて、こちらを見た。

「聖書」

 ぽつりとそう答えて、また顔を伏せた。唇を動かして、ぶつぶつとつぶやくことを再開する。呪文でも唱えているのだろうか。どうも言葉を反芻しているらしい。

 不気味といえば不気味な様子だったが、他人への興味をいっさい捨て去ったようなその姿勢に、なにか潔いものも感じた。

 とはいえ、聖書? 聖なる書? 宗教か。私は宗教が大嫌いだった。神様だとか奇跡だとか、責任の所在をよそに押しつけて、現実を無視する、都合のいい方便。意志と認識の放棄。そんなふうにしか思えなかった。母が妙な宗教にかぶれているから、余計にそう思えた。他人に押しつけないなら、なにを信じようがその人の自由だと、わかってはいるつもりだけど。

 私の頭は偏見まみれだ。何に対しても怒りがわいて、ケチをつけたくなる。不平たらたらで、そんな自分自身にも腹が立った。常住坐臥、なにもかもに苛立っていた。痴漢に遭ってからはなおさらで、怒りは募るばかりだった。とどまるところを知らなかった。


 電車で二度目の痴漢に遭ったとき、私は黙らなかった。触ってきた手をつかんで、周りに向かって叫んだ。

「痴漢です! この人、痴漢です!」

 今度は、痴漢の顔を確認できた。驚愕の表情を浮かべている。物言わぬ人形が口を開いたとでもいうような。触っている相手が、内面のある人間だとは思いもよらなかったような。忌々しい。

 ところが、周りの人も、ぽかん、とした表情を浮かべて、ただそれだけだった。困ったような、戸惑っているような、気まずい静けさが流れた。ちょうど駅に着く直前のことだった。電車が止まって扉が開くと、痴漢はすごい力で私の腕を振り払い、逃げ出した。

「痴漢です! その人、痴漢です!」

 しまったと、私は歯噛みしながら追いかけた。痴漢はホームをかけまわり、なんと、線路の方に飛び降りて、なりふりかまわず全速力で遠ざかっていった。

 私も追うために線路に降りようとすると、危ない、なにやってるんだ、と男の人に制止された。触るな、離せよ、と思わずヒステリックに叫んでしまった。それが反感を買ったようで、通行人は冷たい視線を私に投げかけてくる。痴漢は結局つかまらなかった。のうのうと逃げきられてしまった。むしろ私の方が、秩序を乱したかどで、懇々と諭される有り様だった。


 学校で私は一躍有名になった。といっても、大したことではない。痴漢です、痴漢です、と騒ぎ立てていた様子を同級生が目撃していて、噂が広まり、ほんの少し注目されただけだ。どんな噂かは知らないが。

 いままで話したこともなかったクラスメイトから、勇気あるね、私も痴漢に遭ったことがあるんだ、などといわれ、励まされたりもした。そういわれても、私は相変わらず、へえ、とか、そうなんだ、とか、およそ話し甲斐のないような、無愛想な相づちしか打てなかったので、それ以上深く話し込んだり、仲よくなるというようなことはなかった。

 私は明らかに、コミュニケーションに難があった。自覚はあるけど、なおすことは出来なかった。

 痴漢に狙われるってことは、かわいいって意味だよ、といってきた男子生徒がいた。私はなんの感情も込めず、黙ったままその男を見つめた。この生物はいったい何なのだろう、と、心底ふしぎだった。悪意ある冗談なのか、それとも、そういわれて喜ぶとでも本気で思っているのだろうか。後者だとしたら救いようがなかった。救うつもりもないが。早く視界から消えてほしかった。

 後ろの席の、眼鏡をかけた女生徒は、特になにも話しかけてはこなかった。以前と同じく、授業中や休み時間に本を開いて、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。


 この国で暮らしている女性は、一生のうちにどれくらい痴漢に遭うのだろう。どれくらいの女性が無縁でいられるのだろう。どれくらいの男性が無縁でいられるのだろう。そして屈辱を余儀なく強制された人間が、どれくらいそれをやり過ごし、どれくらい声を押し殺し、どれくらい孤独に泣いているのだろう。どれくらいの耐えがたい痛みが、どれくらいのやるせない怒りが、毎日なかったことにされているのだろう。

 私はそれを知らない。私が知っているのは、私が短絡的で直情的で攻撃的な人間であり、不運なのか痴漢を引き寄せやすい容貌なのかそれともそれだけこの犯罪行為が日常に蔓延しているということなのか、これでもう三度目にもなる痴漢行為にまたしても電車でさらされてしまったときに、私が我慢できずにぶちギレてしまったという事実だけだ。

 まさぐる手。人格を認めない手。その薄ら寒い空虚な手が本質的に求めているのは、人間ではなく肉の塊であり、死体なのだと、私にはそうとしか思えなかった。

 私はぶしつけに尻をなでてくるその気色悪い手をつかみ、力ずくで壁に押しつけて、鞄から抜いたナイフを思いきり突き立てた。

 悲鳴があがった。痴漢には声があり、顔があった。ナイフの刺さった掌から血がこぼれた。少なくとも匿名ではなくなった。


「……なんで、ナイフなんか持ち歩いてたの?」

「以前の痴漢を見つけた時のためです。顔は覚えていましたから。ずっと探していたんですけど」

「……あのね。そりゃあね、痴漢は悪いことだよ。許せないというのもわかるよ。でもね、刺しちゃダメでしょ。明らかに過剰防衛だ」

「刺される覚悟もなしに、他人に触るなと思ったので」

「無茶苦茶だ」


 七面倒臭く長ったらしいごたごた騒ぎが示談の成立と不起訴で終わると、しばらくして私は学校に戻った。戻れないかとも思っていたのだが、一応、戻ってはこれた。

 今度の場合は、勇気があるね、などと賞賛してくれる人間はだれもいなかった。傷害騒ぎを起こした私に、ほとんどの生徒はよそよそしく、距離を置いているように見えた。いや、それは前からだろうか。もともと私は社交の輪から外れていたのだから。

 たまに話しかけてくる人間は、暴力の不毛さや冤罪の危険性を説き、説教を述べるか、議論をふっかけてきた。私は論理的な人間ではないし、言い負かせるとも思えなかったので、お説ごもっともだと神妙に傾聴し、自らの誤りも素直に認めた。ただ、そもそも痴漢は卑劣な犯罪であり、被害者に落ち度はないという一点だけは譲れなかった。私の考えと行為のすべてが間違っていたとしても、それだけは揺るぎない事実で、正義の根底をなすはずだった。

 何度か席替えをしたはずなのに、いつのまにか、またあの眼鏡をかけた女生徒が私の後ろの席になっていた。相変わらず、彼女は他人などどこ吹く風で、本を読みながら怪しげなつぶやきを繰り返し、私にも関心はなさそうだった。

 ただ、あるとき彼女は、ぼそりとこんなことをいった。

「あなた、ヨブみたい」

 授業中だった。一瞬、私に向けていわれた言葉だとは気づかなかった。

「え、なに?」

 私は驚いて振り返り、ひそひそと、声を抑えてたずねた。

「不当な仕打ちに納得できなかった人間の名前」

 そういって、彼女はその後に呪文のような言葉をつけくわえた。

「我は今日こんにちにても尚つぶやきて服せず、わが禍災わざわいはわが嘆息なげきよりも重し。ねがはくは神をたづねて何処いづくにかあひまつるを知り、其御座そのみくらに参り至らんことを。我この愁訴うつたへをその御前みまえならべ口を極めて弁論あげつらはん」

「……え? なに? なんて?」

「我はしぬるまで我が罪なきをいふことをやめじ。われ堅くわが正義ただしきたもちてこれすてじ」

 ちんぷんかんぷんな言葉を並べると、彼女はまた顔を伏せて、読書に戻った。話はいまので終わりらしい。話といえるほどのものかわからないけれど。

「…………」

 まあ、しかし、少なくとも非難のようではなかったし、悪い気はしなかった。彼女は以前と同じく奇妙で、不気味で、そのままで、そしてなぜだか好ましかった。別に友達になったわけでもないけれど、非難ではない言葉をかけてくれる人間が、たったひとりでもこの世にいてくれるなら、なんとかやっていけるような気もした。

 私は死ぬまで間違うかもしれないが、死ぬまで黙りたくはなかった。そう決めたのだ。

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