13.菊田家

 国道沿いから側道に入ると一気に街灯の数が減り暗さが増す。その先の住宅街の一角が我が家だ。

 白を基調としたこの一軒家を昨年建てた。旦那こだわりの家だ。図面を見ながら熱く語る姿はまるでプラモデルを組み立てる少年のようだった。菊田は玄関のドアを開けると帰りを待っていたであろう家族に声を掛けた。


「ただいま」


「おーおかえり」

「おーおかえりぃ」


 リビングに入ると旦那と娘が振り返る。本当によく似た親娘だと思う。娘の瑠璃が菊田に飛びつく。抱いたままくるりと右に一回転すると満面の笑みでこちらを見上げる。さっきまで風呂に入っていたのだろう、まだ少し髪が濡れている。首にかけられたままのタオルで髪を拭いてやると瑠璃が嬉しそうに歯を見せて笑う。


「ご飯作るわね」


「あ、俺も手伝う」


 旦那は私の横に立つと手際よくレタスをちぎりだす。菊田は冷蔵庫を覗き今晩のメニューを考えていくつか材料を取り出す。


「ねぇ、今日ね昔の私たちみたいなカップルの話を聞いてきたの」


 冷蔵庫を閉めるとまな板を取り出す。それに合わせて旦那が包丁をその上に置く。軽く礼を言うと包丁を握りしめて大根をトンっといい音を立てながら切っていく。


「私力になりたいと思ってアドバイスしたんだけど……なんか、どうだったんだろうって思って」


 旦那の方を見ずに話していると急に大根を切る私の腕にそっと指で触れた。旦那の指が触れると思わず動かしていた手を止める。旦那は集中していない私の切り方に危うさを感じたのか大根を切るのを止めさせたようだ。


「……別れる別れないの話?」


「ん、そこまでになってた」


 旦那は「そうかぁ、そうだなぁ」と言いながらちぎったレタスをザルに移す。


「別れなくて済むように言ってあげたんだろう?」


「うん……」


 菊田の顔が浮かない。自分のしたことがあっているかどうか不安になった。正解が分からない。その時は良い事をした気になったが、それが彼らに当てはまるとは限らない。自分がそうだったからって彼らもそうなのだとなぜ思ったのだろう。別れた方が幸せになることの方が多いのに……。


「紗英が別れの危機を救ったとして、ダメなカップルはいつか破綻するよ。でも、もしかしたら助かったっていつの日かすんげぇ感謝されるかもな」


「……そうね」


「今は分かんないな。後は本人たちの努力だろう。紗英が別れない方がいいって思うのは──今が幸せだから……だろ?」


 旦那が悪そうな顔で近づくと私の肩を掴む。体格の良い旦那に包まれると一気に涙腺が緩むんだのが分かった。涙を止めようとしても次から次へと溢れ落ち続ける。泣くつもりなんてなかったのに……。里美との出会いは菊田をあっという間に爆発の日を思い返させた。あの記憶は菊田にとって大きな転換期だった。


 横で「おいおい!」と旦那が慌てたのが見えたが一度タガが外れてしまったものは止められない。テレビの教育番組を見ていたはずの瑠璃が泣いている姿を見て慌てて駆けつけると旦那の尻をポカポカ殴る。割と強く殴り続ける。正義感の塊だ。


「パパ! ママを泣かしちゃダメだよ!」


「えぇ!? パパ何もしてないって! もうー、ママ! ねっ? 玉ねぎ切ったんだよねぇ? ね?」 


 必死でごまかそうとするが、我が家のヒロインは食らいついて諦めない。二人のやりとりに思わず笑い出しようやく涙が治まる。旦那がそんな私に気付き優しく微笑んだ。


 菊田は若い二人の未来を考えた。自分に必死すぎて周りが見えなくなり彼女を傷つけた吉田、思いを焦がし別れを決意した里美……二人の未来に笑顔が溢れていてほしい……そう思った。


 ご飯を三人で食べた後、瑠璃が穏やかな様子で眠りについた。今日は風呂場で旦那とヒロインごっこをしていたらしい。


「さて、風呂に行くわね」


 さすがに肩が凝った。肩をぐるぐる回しながら脱衣所に向かうとなぜか後ろから旦那が付いてくる。


「え? なに?」

「え? いや、一緒に入ろうかと──」


 旦那の言葉に呆れる。少し前に入ったばかりだというのに何を言っているのだろう。


「いや、いいよ。疲れたでしょ?」


「紗英のほうが疲れてるだろ」


 旦那は二人で話す時にはきちんと名前で呼んでくれる。それが実は嬉しかったりする。


 服を脱ぐと洗い場で体を洗う。湯船に入るタイミングで旦那が「失礼しまーす」と言い入ってくる。何度も断ったはずだが聞き入れてくれなかった。相変わらず胸板が厚い。たくましい体は何年経っても変わらない。旦那が窮屈そうに湯船に入ると溜まっていたお湯が一気に押し出されて洗い場にあった洗面器がぷかっと浮いた。

 旦那はゆっくりと私の後ろに移動すると肩を掴んでゆっくりとマッサージをし始める。たまになんかのタイミングでしてくれる至福の時間だ。


「あぁ、最高ね」


「だろ? 腕あげたな、俺も」


 二人の触れている部分から旦那の体の揺れを感じる。きっと笑っているんだろう。


「ねぇ、聞いていい?──あ、いいや、やっぱいい」


「なんだよ、言えって」


──わたしと結婚してよかった? プロポーズを受けてよかった?


 たまに帰りも遅い時もあるし、瑠璃のことを任せてしまうこともあるけど、私はすごく幸せだけど、あなたは、どう?


 聞けるはずなんてない。

 あの晩泣いて訴える大きな体を抱きしめた事を思い出した。絶対に幸せにすると誓ったが、本人には確かめようもない。


 旦那は私の体を振り返らせると頰をぎゅっと両手で包んだ。顔を見て笑い、掠めるようなキスをする。


「俺めちゃ幸せだー、寂しくないし紗英もいるし」

「うん」


「抱きしめて泣くなんてこともしないし」

「うん」


「よかったなーって思う」

「う……ん」


 ボロボロと泣きだし歪み出した私の顔を旦那は離さなかった。


 その日は私が旦那に抱きついたまま眠りについた。

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